第60話 祖国からの手紙
◆◇◆
いよいよ秋本番。全ての麦穂が黄金色に変わり、刈り取られていく。
侯爵の屋敷に近い街では、収穫祭の準備を始めていた。皆が祭りを楽しみにしており浮かれた気分があちこちで感じられる。
シスレー領内では北方を除いて、今年の小麦の収穫量は充分なものだった。
北の村だけ、夏の間に雨と気温の低い時期が暫く発生したため、やや凶作と言える。だがここは昨年疫病が発生した地域だ。侯爵は昨年と今年の北の村の税を元々免除していた。恐らく何とかやっていけるだろう。
北の村でこの状況なら、更に北に位置する隣国のマウジー領ではもっと酷い有り様だろう、と侯爵は以前リオルドから貰った報告書の内容を思い出す。
「アシュレイ」
「はい、旦那様」
「スワロウから例の筋に繋いで貰いたい」
「かしこまりました」
これは、スワロウを経由して情報屋に隣国の噂を集めて欲しいという依頼だ。アシュレイはただちに侯爵の意図を汲み、執務室を出ていった。
◆◇◆
「デボラ様、本当にありがとうございます」
トムの母と姉は深々と頭を下げた。収穫祭で姉の帽子の飾りは評判を呼んだのだ。貧しい農家の娘と侮っていた人々が掌を返し「どこでその帽子飾りを誂えたのか」と質問攻めにしてきたそうだ。自分で作ったと答えれば、驚きながらも褒められたり「うちにも作って欲しい」と本当に刺繍の注文も入ったという。
デボラはその報告を心から喜んだ。そして以前から考えていた事を打ち明ける。
「冬の間は少し時間ができるでしょう? もう暫く訓練を続けて欲しいわ。貴女がたにはいずれ誰かに教えられるくらいになって欲しいの」
「教え……私らがですか!?」
「そんな、学もないのに!」
二人は恐縮していたが、デボラはそんな事では引き下がらない。
「学がないと言うけれど、私の教えた通りにやればちゃんと出来るようになったでしょう? だから同じように教えてあげればきっと大丈夫よ。勿論、教室を開く時にはある程度の授業料を取っていいの。それなら刺繍の注文を受けるより楽に収入も得られるでしょうし」
「じゅ、授業料だなんてとんでもない!」
二人は青い顔をして更に恐縮するがデボラはこうなることも予想していたのか、にこりと笑顔で返す。
「まあ、それは困ったわね」
全く困っていないような素振りでそんなことを言うものだから、トムの母と姉は目を丸くする。
「ここだけの話、私はこの地方に刺繍を広めたいと思っているの。だけど私は人質だからこの屋敷から出て街に教えに行くことはできないわ。逆にこれ以上ここで生徒を受け入れては侯爵様の迷惑になってしまうでしょう?」
「は、はぁ……」
「だから私の代わりに教える人が必要なのよ。それは貴女たち家族しか居ないのだけれど……困ったわ」
デボラは彼女らの真面目さを買っていた。きっとこの人たちなら受けた恩を返そうとするだろうし、教室を利用して暴利を貪ったりはしないだろうという信頼があった。そして、そういう真面目で信頼できる人間に仕事を任せられるのは幸運だとも知っている。
「ねえ、お願いよ。刺繍の教室を開いてこの地に広める手伝いをして下さらない? 布や糸や針は私の物を差し上げるし、私が書いた図解や刺繍の見本も貸してあげるわ」
「えぇ……でも」
二人は少し態度を軟化させたが、それでも戸惑い、顔を見合わせている。デボラは笑顔のまま更に突っ込んだ。
「今すぐの話じゃないの。訓練を続けて自信が持てるようになったらでいいわ。ね? 困っている私を助けると思って」
「は、はあ」
姉がもごもごと返答する。
「将来、自信がついてから……で、いいなら」
「そうねぇ、それなら……」
「ありがとう! とても助かるわ」
デボラは美しい顔を更に輝かせてお礼を言った。そのあまりに嬉しそうな様子に、二人はもうこれは引き返せないと思っただろう。
◆
「やはり今年のマウジー公爵領の麦はかなり収穫量が落ちたようで、凶作と言えるほどだそうです」
スワロウからの報告をアシュレイが伝える。シスレー侯爵は深いため息をついた。
「そうか……あそこは隣国では一番の農作地ではなかったか? 飢える民が出ないと良いが」
「それなのですが……実は隣国の民衆の間で『これは神の怒りではないか』との妙な噂が」
「どう言うことだ」
アシュレイは僅かに苦いものを表情に乗せた。
「心優しき聖女のようなデボラ様は、実は神の祝福を受けた本物の聖女だったのではないかと言い出す連中が現れたそうです。あのひとが国を離れた直後に冷害が発生したからですね」
「何? そんな馬鹿な……殿下から頂いた情報とは話が違うぞ」
「あちらは上流階級の」
アシュレイはそこまで言ってから、こほんと小さく咳払いをした。
「……まあ、その中でも比較的低い位置におられる方の話でしょう。こちらの噂は飢饉が起きれば一番先に割りを食らうであろう平民の中から生まれた意見ですよ。彼らは救世主や救国の聖女なんてのがやたらと好きですからね」
侯爵は先ほど驚きで浮かしかけた腰を再び深く椅子に沈め、執事長の言葉に納得する。
「なるほど確かにな」
「困った事にそういう輩は、窮地を自分でなんとかするのではなく、救ってくれる存在を他に望みます」
「……つまり、デボラ嬢を?」
「はい。神の怒りを鎮める為にも隣国に奪われた聖女を取り戻せ、と主張する人間がいるそうです。まだ少数派のようですが」
「奪われた――か。実際は押しつけられたのにな」
シスレー侯爵は苦笑いを堪えられなかった。奪ったどころか、マムート王国がある日突然「花嫁を送る」と勝手に言ってきたのに。おそらくマムートの民はそれを知らされていないのだろうが、随分と酷い言われようである。
デボラがもしワガママ放題の厄介な姫君だったのなら、リオルドに了承を貰ってさっさと追い返していたところだ。
だが、今の侯爵は――――
「まあ、押しつけられたものを返す気はないんだが」
それを聞いた若き執事長も、薄く苦笑して「はい」と答えた。
デボラが「奥様には悩みもあったけれど幸せでもあったはずです」と言ってくれたからこそ、侯爵やローレン夫人やアシュレイは救われた。そのことを恩に着ているのもあるが、何よりも今の彼女が幸せそうだからだ。
温かいスープや、自分に役割があることや、本心を躊躇い無く口にできること。そんな日常の何気ないひとつひとつに、彼女は子供のように喜ぶ。ゲイリー・シスレーはその笑顔を見る度に心の中に温かいものを感じた。
彼は思う。自分がデボラをマグダラのように愛することは無いだろう。だが、娘や妹のように家族として愛することはできるかもしれない。……いつか彼女への疑いが完全に払拭できた暁には。
もしも彼女を祖国に帰したならば、またあの人形のような姿を求められる生活が待っているだろう。それならば疑いを抱えてはいても、自分がこのまま預かっている方がデボラのためには良いと彼は考えていた。
◆
暫く後にリオルドから連絡がきた。「Rより」という名前を伏せたいつもの気軽な形式ではなく、王家の紋章入りの正式な手紙だ。
国境際にマムート王国の使者がやってきて、「和平の印である花嫁が無事か状況を確認したい。デボラ様に家族からの手紙を読んで頂き、返事を貰えるまではここから動かない」と言いはって聞かないそうである。
その説明を読んだだけで、侯爵は額に手をあてた。「はは、我が国は随分となめられたものだな」と冷たい微笑を浮かべるリオルドの顔が目に浮かんだからだ。
既に封が切られ、検閲済みであろうその手紙を、侯爵も一通り目を通す。
「……デボラ嬢を、ここへ」
執務室に呼び出されたデボラはきょとんとしていたが、祖国の家族から手紙が来ていると言われた途端にサッと表情が固くなった。
それを見たシスレー侯爵は複雑な気分になる。
(デボラ嬢はやはり、家族には愛情や未練を感じていないのだろうか)
しかし、先ほど読んだ手紙にはそうとは思えぬ内容が綴られていたのだ。
「侯爵様、お願いがございます」
「なんだい?」
「その手紙を、どなたかに読み上げていただいても?」
ピン、と空気が張りつめる。
その場に居合わせたローレン夫人とアシュレイが目を見開いてデボラを見つめた。侯爵はゆっくりと質問をする。
「……直接は見たくないと?」
「ええ、私は欠片も疑われたくないのです。その手紙に、何らかの暗号が含まれているかもしれません」
「一応、国境で手紙の内容は検めている筈だが」
「確認された方々を疑うわけではありませんが、私の潔白の為ですので」
実に冷静に固い表情で、そして頑ななデボラの態度にシスレー侯爵は白旗をあげた。
「そうか。でもそれでは逆に、この手紙が本当に君の家族から届いたものかも確認できなくなってしまう。せめて署名だけでも見てくれないか」
「ええ。それは勿論ですわ」
侯爵は手紙を逆向きに折り、一番下に『オズマ・マウジー』と署名された部分のみをデボラに見せた。彼女は小さく頷く。
「私の上の兄の筆跡に間違いありません」












