第59話 夫婦はそれぞれ互いに迷走する
そこではた、とゲイリーは思いだした。
(……いや、でも最初に俺が「君を愛することはない」と言ったから?)
それで頭の切れる彼女は、咄嗟に作戦を変更する方向に切り替えたのかもしれない。いきなり「身体だけは重ねると言う意味か」と質問したのは、ゲイリーが是と答えれば色仕掛けで、否と言えば以降は型破りな行動を取るつもりの切り分けだったとも思える。
デボラは人質なのだ。シスレー侯爵家の皆の心に入り込もうとして失敗したところで、後は人質らしくおとなしくしておけばいい。ダメで元々で令嬢らしくない行動を敢えて取ってみたのではないだろうか。
(……うん、まあそれでもいいか。殿下の仰る通りだ)
彼女はシスレー侯爵家の皆だけでなく、トムたち領民にも徐々にかかわってきている。ただし自分から「スパイ行為だと疑われないようにする」と宣言し、極力接触しないようにしているのだ。
シスレー侯爵としてはリオルドに言われた通り、彼女が外部の人間を侯爵領に引き込まないよう注視していればいいだけだ。
何故なら。彼女がシスレー侯爵家の皆に取り入ったとしても、外部と連絡が取れなければ何の成果も上がらないからである。
もともと王国の端、辺境や田舎と揶揄されるシスレー侯爵領は、本当の辺境である国境際の王家直轄地に隣接している事ぐらいしか特色がない。
ここに敵国の兵を秘密裏に引き込まれ、国境との挟み討ちをされれば王家直轄地の軍隊は危機に晒される。リオルド王子が恐れているのはその点だけなのだ。
加えて、長い時をかけて信頼を得てから侯爵家を牛耳ろうという作戦も無駄である。ゲイリーがデボラを女性として愛することはないと宣言したのもそうだが、コーネルの実態を晒した事で彼の子供を養子に貰う予定は白紙になった。
では次のシスレー侯爵位を継ぐのは誰か。
答えは、「誰もいない」である。
ゲイリー・シスレーは自分の代で侯爵位を返上するつもりで、コーネルの件をリオルドに相談したのだ。リオルドは第二王子で、ゆくゆくは大公も名乗れる立場と実力を兼ね備えている。広大な侯爵家の領地を王家に差し出し、それをリオルドが大公領として治めるのなら何の問題もない。
少なくともコーネルの意に染まった子供に継がせるよりも100倍ましだ。貴族としての面子にこだわる母も、王家の権威には弱いから真正面から反対はしないだろう。
尤も、この話を持ち出した際にリオルド本人は鼻で笑ったのだが。「そんな先の事は考えなくてもいい。候も気持ちが変わる事もあるだろうしな」と言っていた。第二王子は他人にはそう言いながら、他人には見えない未来を見据えているような行動を時に起こす。
(そうだ。殿下の仰る通りだ)
たとえデボラが演技が得意なスパイだとしても。
彼女が外部との連絡を取らないようにだけ注意を払い、無邪気な姿に絆されたまま安穏と過ごしていればいい。彼女に踊らされているように思わせておき、こちらが彼女を踊らせていればいいのだ。
ゲイリーは心の中でそう結論づけた。
◆
自室に戻ったデボラは胸に深く息を吸い込み、そしてそれをふうーっと長く吐き出した。息を吐ききると、小さな微笑みを作る。
「受け取って頂けて良かった……緊張したわ」
ローレン夫人もごく薄い笑みを口に浮かべた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫と申し上げたでしょう」
「だって……ああ、やっぱりご迷惑じゃなかったかしら。侯爵様はお優しいから、嫌々受け取られたのかも」
ほっと安堵したのも束の間。またもや心配を始めたデボラを見て、夫人の笑みが苦笑に変わる。
(この方はどこまで素のご自分に自信がないのでしょうね)
デボラの最初の頃の愛想笑いは自信のない姿を必死に取り繕う外面だったのだろうと思うと、今目の前で焦っている彼女の様子が益々可愛らしく見える。自分が下の立場でなかったら抱きしめて頭を撫でてあげるのに、と思いながら夫人はデボラの手を優しく取った。
「以前も申し上げましたが、デボラ様の刺繍の腕は一流の職人並みです。迷惑になんてなりませんよ。私も頂いた時にとても嬉しかったのですから」
「そ、そう……? ミセスローレン、ありがとう」
嬉しそうにはにかむ姿もぎこちない。とても美しく有能なのに人付き合いにはこんなにも不器用な彼女を見ると、ローレン夫人はどうしても微笑ましく思ってしまう。
それはやはり、天国にいる娘と同い年のデボラを重ねてしまうからかもしれない。
だが、その事はデボラ本人はもとより、シスレー侯爵にも愛する夫にさえも明かさない、夫人だけの秘密だった。
◆◇◆
そこから暫くして、ある週末の朝。
朝からぴしりとした黒い服に身を包んだシスレー侯爵が、朝食の席を共にしたデボラに言う。
「デボラ嬢、この後、殆どの使用人が昼過ぎまで半日の休暇を取る。不便だとは思うが耐えて貰いたい。それに、スワロウを呼び寄せているから遠慮なく彼を頼るといい」
「はい、承知致しました」
朝食を終えると、デボラは自室に引き上げる。そこにスワロウとアンがついてきた。
アンはハウスメイドで普段はデボラに専属でつく事がないため、かなり緊張でガチガチのようだ。
「……」
デボラは無言で窓際に立つ。大きな灰色の目がガラス玉のように窓の光を反射する。もし今ここにローレン夫人がいたならば、デボラがこの屋敷に来た初日の様子を思い出したかもしれない。
「スワロウ」
「はい」
彼女は窓を向いたまま、元執事長に問いかける。
「貴方は行かなくてよかったの?」
「はい。屋敷が手薄になっている間にデボラ様に逃げられては困りますからね」
「まあ」
デボラはくすっと笑う。
「逃げないわ。ここより素晴らしい場所なんて、どこにもないもの」
「それはよろしゅうございました」
「私に気を遣わなくて良かったのに」
「そういうわけには参りません。それに私はお暇を頂いてから随分時間がありましたから、たまには働きませんと」
「ああ」
デボラの目がまた、光を失う。
「貴方はこの一年、ずっと喪に服していたのね……。私が来てからは屋敷の皆のぶんも一人で背負って」
スワロウの胸が、僅かに膨らむ。彼はいつもより多めの息とともに言葉を口から放った。
「……左様です」
今週はマグダラが亡くなってちょうど一年の週だったのだ。
デボラは屋敷の皆が向かったであろう教会の方角を見たかったが、彼女の部屋からは街を望むことは叶わない。代わりにせめてもの思いで、遺灰が埋められている北の方角を向き、黙祷を捧げる。
「……」
黙祷を終え、目を上げると遠くに畑が広がっているのが見える。黄緑や黄色に混じり、ところどころ山吹色まで色づいている畑も見てとれた。まるで秋の実りの女神がいたずらに踏んだ場所だけが黄金に変わっているかのようだ。
収穫の時期まで、あと僅か。
デボラがシスレー邸に来て、三月近くが経とうとしていた。












