第55話 ずっとここに、居たいから
◆
翌週。
刺繍のレッスンには、トムとその母と姉が来た。
そしてデボラの教え方は厳しいと言うよりも、どちらかと言うと風変わりだった。
テーブルには彼女の作った何種類もの刺繍見本と、同じ図案を書いた布、そして刺し方の図解をしたメモが用意してある。
「では、私が刺して見せますわ。まずは手の動きを見て下さい」
彼女の手元を、テーブルの反対側に座った三人はじっと観察する。
「縫い方にも依りますが、基本は玉留めは作らずに、糸を裏にわざと余らせてから縫いはじめますの。こうして……」
説明をまじえて幾つかのパターンを刺し終わると、母と姉に向かってデボラはこう言った。
「では、お好きな図案で早速刺してみて下さいな。わからないところがあればご遠慮無く質問を」
しかし、実際に質問があると、ほとんどの場合は横についていたローレン夫人が対応する。デボラはテーブル越しに笑顔のまま様子を見ているだけだった。
それでもトムの母と姉は元々繕い物や簡単な縫い物などの針仕事の経験があるので、直ぐに要領を飲み込んだようだ。順調に手を進めていく。
問題は、針を触ったことの無いトムだ。
「貴方はまずはこちらから」
トムに渡された布は、図案というよりもただの線が書かれていた。
まっすぐの長い直線が四本、等間隔で引かれ、それと直角に交差して短い横線がやはり等間隔で刻まれている。
だが格子柄と言うにはバランスが良くない。長い直線の間隔が指三本ぶん空いているのに対して、短い横線の間隔は小指の爪先よりも細かいものだった。
「ではなみ縫いからやりましょう。これは針仕事をする時にもよく使う、基本中の基本の縫い方です。ですからまずはこれを完璧に出来るようになりましょうね」
ローレン夫人がトムの手に己の手を添え、針を刺す動作をひとつひとつ教える。
「ここから針を出して、そしてここに刺します。で、裏からまた出す。この、線が交差しているところを狙って下さい」
「う、うん……」
長い直線の上に点線を描くようになみ縫いの練習をしていく。二人はかなり苦戦しているようだが、デボラはやはり遠目で微笑んで見守りながら、自分の刺繍を進めるだけだった。
「あっ、痛っ」
「大丈夫ですか? ミセスローレン、手当てを」
うっかりとトムが針で指を刺した時も、心配こそするものの、椅子から腰を上げることはしない。
「あっ、大丈夫です……」
この様子におそらくトムとその家族は少々期待はずれと思ったろう。指導すると言っても殆どの対応は使用人である夫人に任せてデボラは涼しい顔をしている。マグダラと彼女は同じ領主夫人と言っても大きく違うのだと思わせる行動だ。
だが、実はこれはデボラにとっては苦しくとも確固たる決意の下で決断した態度だった。
◇
「侯爵様、刺繍を教えるにあたって、私はできるだけ彼らと直接の触れあいはしないようにしたいのです」
話が纏まったその日の内にデボラはシスレー侯爵にこう言っていた。
「? 何故だ」
「私が外部の者と密かに接触し、マムートへ連絡を取るような人間だと思われない為にです」
「……ああ」
彼はすぐにデボラの言いたい事を飲み込み、眉を下げつつも笑顔になる。
「それは心配しなくて良い。もうこの屋敷で君をそんな風に疑う人間など居ないよ」
そう言いながら後ろにも視線をやる。使用人たちは皆、真っ直ぐな目で小さく頷いた。
「あ、ありがとうございます……」
デボラの固かった表情がやわらぎ、そして軽く俯きながら礼を言う。もう侯爵やローレン夫人やシェリーにもわかる。これは嬉しくて照れているのだ、と。
けれども、彼女はすぐにきりっと居ずまいを正した。
「しかし、やはり私は人質の身です。これ以上リオルド殿下のお手を煩わすわけには参りません。周りから無駄に疑われない為にも、行動は極力慎んだ方が良いかと思いますの」
「そうか、確かにそうだな」
「彼らとは必ずテーブル越しの距離を保つように意識すれば手紙などを密かにやりとりする事ができない証明になります。会話も怪しいところがないか、誰かが常に立ち会ってくだされば良いですし」
「だが、それで彼らにちゃんと教える事が出来るのか?」
「大丈夫です。刺繍の見本や練習用の図案は沢山用意しますし、刺し方の解説の手順書も作ろうと思いますの。それを読めば……」
「いや、彼らは読み書きができない者が多い」
「……あっ!」
彼女は大きく目を見開いて、口の前に手を当てた。デボラがこんなに驚いた表情を見せるのは初めてだ。そしてその後のギャップも。彼女は塩をかけられた青菜のようにしおしおと凹んだ。
「私ったら……なんて考え無しだったのかしら……」
「ぷっ……あはは!」
ギャップの激しさや本気で落ち込む様子に侯爵はたまらず吹き出し、明るく笑い飛ばす。
「デボラ嬢ほど色々と考えてくれる女性もなかなか居ないと思うがね?」
「そんなことは……」
「あるさ。身分の高い者が低い者へ施しをする事は珍しくない。だがハンカチを渡す代わりに刺繍の技術を教え込み、貧しい少年の未来を切り開こうとするなんて、私は考えもしなかったよ」
「それは……この国では、私が出来ることは限られているからですわ。刺繍ならわりと得意ですし。トムだけではなく、皆様に技術を伝えてこの地方に広められたら、ゆくゆくは名産品になれるかも……と」
「えっ!?」
侯爵が驚いて聞き返すと、デボラはもじもじした。
「大それた考えかもしれませんが……この国で刺繍の産業が盛んなのは南の地方だと聞いていますわ。極彩色の鳥や大きな花柄を配置した派手な模様だったかと。でも、皆が皆派手な柄を好むわけではありませんもの。この地方の植物を模した小花柄や、蔓草模様なら南方と差別化して、この領地の新たな産業になれるかもしれません」
「……」
侯爵は唖然とした。一体この女性は、何手先までを考えているのだろう。これだけの知性、教養、頭の回転の速さを持っていながらも、固い表情の間から弱き者を助ける善性がほんの少し垣間見える。それは何故か。
(彼女には……出世欲や上昇志向がないんだ)
かつての彼女は一国の王太子妃の座を約束された身だった。つまり女性としては最も上の地位に登りつめたのだ。しかし婚約者が病で王位継承権を放棄した時に彼女の地位も下がった。だが、名誉や出世欲があるならば他の王族や高位貴族に嫁げば良かったのだし、彼女の両親も娘を政治の道具にするならばそうしたはずだ。
もうこれ以上、彼女は上に上がる気がないのだろう、と侯爵は解釈した。
「……デボラ嬢。君は何故ここまでしようとするんだい?」
侯爵の疑問にデボラは即座に応えた。
「私の出来ることなら何でもお役にたちたいからですわ」
「以前、君は何もしないでいるのは心苦しいと言ったね」
「!……あ、そうです。そうですけれど……」
一転、歯切れの悪い物言いになったデボラを侯爵は見つめる。今度は彼女は何を言い出すのだろうか、と期待して。
「あの、それもありますけれど。今は少し違うかもしれません」
「どう違うんだい」
「笑わないで聞いてくださいますか?」
「ああ、勿論」
デボラの薔薇色の頬が、もう少しだけ色づいた。
「わ、私……ここの、シスレー邸の皆さんが好きですの。ずっとここに居たいからかもしれません……」












