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第三十六話 相愛

 お茶会が終わり、柚安(ゆあん)とリリーベルを見送った菊花(きっか)は、ふらりと自室の窓辺に腰掛けた。


 本当は庭に出たかったけれど、あたため係の仕事もないのに夕食後に出歩くのは御法度である。

 たぶん出たところで今更(とが)められることはないだろうが、一応けじめだ。


「……ふぅ」


 窓越しに見上げた夜空には、白い月がぽっかりと浮かんでいる。

 黒い夜空に、()()えと冷たく光る月。それはまるで、執務中の香樹(こうじゅ)のようだ。

 周りを拒絶するように、冷たい表情を浮かべているところが、そっくりである。


(たぶんそれは、怖いからなのでしょうね)


 蛇は臆病な生き物だ。リリーベルに言われるまでもなく、菊花は知っている。

 だって、彼女の親友は白蛇なのだ。それくらい、よく知っている。


「怖いから、威嚇しているのだわ。なまじ顔が整っているから、余計に冷たく見えてしまって、周りは必要以上に萎縮してしまう。悪循環ね」


 聞いたばかりの獣人の話が、頭を巡る。

 香樹はいつから、菊花と決めていたのだろう。

 少なくとも、忽然(こつぜん)と姿を消した時にはもう、菊花と決めていたはずだ。

 おそらく、十七歳くらいの頃にはもう──。


「香樹に聞いても、教えてくれないだろうな」


 独り言ち、菊花は一つため息を吐いた。


「何が聞きたい?」


 独り言に声を返されて、菊花は吐き途中の息をヒュッと飲んだ。


 いきなりのことにびっくりし過ぎて、思わず()せる。

 咽せながら恐る恐る、声がした方──自室の扉を振り返ると、扉はいつの間にか開いていて、一人の男が立っていた。


 窓から差し込む月明かりが、扉を開けた人物を照らす。

 訪れたその人物は、菊花がよく知る男だった。


「香樹? こんな時間に、どうしたの? 今日は、呼ばれていないはずよね?」


「来てはいけないのか?」


 返された声は聞いたこともないくらい寂しげで。

 捨てられた子犬の幻影が見えるようである。

 眉を下げ、唇をへの字にし、目は潤んで、今にも泣きそうな顔だ。


「そんなことは、ないけれど」


「入っても、良いだろうか?」


「どうぞ」


 菊花の部屋に香樹が来るのは、これで二度目だ。

 前に来た時と同じように、小さな置物へ会釈して、香樹は真っすぐ菊花のそばへ歩いてくる。


 菊花のそばで(たたず)み、ぼんやりと彼女を見下ろす。

 潤んだ目は、菊花に何か求めるような視線を送ってきた。


「香樹? どうしたの? 何かあった?」


 なんだか放って置けなくて、菊花は尋ねた。


「……こそ」


「え?」


「おまえこそ、何があった?」


「何がって……?」


「昼間の態度だ。どうして、あんなに不機嫌だった? 私が何かしたのか? もし何かしてしまったのだとしたら、教えてほしい」


 わけも分からず謝ることは、不誠実だ。

 そう言って、香樹は沙汰を待つ罪人のように、菊花の前でひざまずいた。


 香樹の誠実すぎる態度に、菊花は気まずい。

 オロオロと視線を泳がせた後、彼女は覚悟を決めるように息を吐き、口を開いた。


「香樹……あの、あなたは、何も悪くないのよ。私が、狭量なだけで……」


「菊花が狭量なわけがないだろう。我慢しなくて良い。言ってくれ。どんなことを言われても、私は受け入れる。必要ならば、直すから」


「そうじゃないの。そうじゃないのよ。だって私、私は……」


 嫉妬していただけなの。


 そう言うだけに、菊花はかなりの時間を要した。

 ようやっと口にした時、香樹は鳩が豆鉄砲を食ったように、真っ赤な目をまん丸にして菊花を見上げた。


「嫉妬、だと?」


 菊花は、林檎飴みたいだと思った。

 丸くて、赤くて、ピカピカしている。

 潤んだ瞳が月光を反射して、美味しそうに見えてきそう。


 ポカンと唇を半開きにして、信じられないものを見るように菊花を見上げてくる香樹に、彼女は苦く笑みながら答えた。


「昼間、珠瑛(しゅえい)様と歩いていたでしょう? 私、たまたま見てしまって。薔薇園の前で美男美女が並んでいて、とても綺麗だったわ。お似合いだとも思った」


「珠瑛は、」


 口を挟む香樹を視線で黙らせて、菊花は被せるように「でもね」と話し続ける。


「同時に珠瑛様がすごく憎くてたまらなくなった。香樹から離れてって、突き飛ばしそうになったわ。私、人に対してこんなに怒ったこと、今までなかったの。だから、びっくりした。その上、なかなか鎮まらないの。ずっとずっと怒りっぱなし。せっかく香樹と話す順番が来たのに、私、仏頂面だったでしょう? ごめんなさい。でも、あれでもマシになった方だったのよ。内心、どうして珠瑛様とおしゃべりしたのって八つ当たりしそうで怖かった」


 きっと珠瑛でなくとも、ほかの宮女候補だったとしても、菊花は同じことになっただろう。

 自覚はなかったが、菊花はとても嫉妬深い、独占欲の強い性格のようだ。


「こんな私でも、()いって言ってくれる?」


 自嘲するように薄笑いを浮かべる菊花。


 突き放すなら、今だよ。

 菊花が言外にそう言っているように思えて、香樹は声を荒らげて言った。


「当然だ!」


 母のように愛していると言われて、母のような愛は要らぬと知らしめて。

 さて次はどんなことをすれば手の内に落ちてくるだろうと考えていたら、勝手に落ちてきた。それも、可愛らしいことに、嫉妬していたと言うではないか。


 何がいけないというのか。

 香樹からしてみたら、願ったり叶ったりでしかない。


 香樹は湧き上がる愛しさのままに、菊花を強く抱きしめた。

 菊花の髪を飾っていた(かんざし)が、カシャンと落ちる。


 支えを失った結い髪がスルリと解けて、長い髪がこぼれ落ちた。

 月明かりに照らされて、金の髪が眩く光る。


「私は、菊花を愛している。どんなことがあっても、手放すことなどできはしない……。私は、菊花さえいれば良いのだ。私の妻に……正妃に、なってくれるな?」


「香樹……私もあなたが、大好きよ。もしもあなたが、私だけを妃にすると約束してくれるのなら、喜んで受けましょう」


「当然だ。私はおまえ以外、要らないのだから」


 嬉しさのあまり、菊花の目からポロリと涙がこぼれた。

 香樹は唇を近づけて吸い取り、それからふっくらとした彼女の唇に口づけを落とす。


 うっとりとまぶたを下ろして、香樹の口づけに酔いしれる菊花は知らない。

 まさか彼が、逃げようとするなら蛇の姿になって飲み込むつもりだと思っていたなんて、夢にも思わないだろう。


 蛇は臆病だが、独占欲が強い。

 警戒心が強い分、懐に入れた者に執着するのだ。


 奪う者に容赦なく、逃がすくらいなら丸呑みに。

 蛇とは兎角、厄介な生き物なのである。


読んでくださり、ありがとうございます。

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