悠太にもできないこと
ドロリ、としたものが手刀から流れ落ちる。
ごく一部の例外を除き、心臓は生命体の急所だ。
ここを貫かれて死なない生物がいるとしたら、心臓を複数持っているか、精霊種のように現体として生まれた知性体のような、普通でない存在となる。
(……仕留め損ねた)
心臓は間違いなく貫いた。
腰にあったはずの泥はかさを増して胸にまで届き、なおも止まる気配がない。
生命的な急所を抜きにしても、心臓には霊核が照応している。また、胸元というのは視界に入りづらいこと、心臓の近くには肺という重要な器官があることからも、悠太が妖精の心臓を狙うことは間違っていない。
仮に首や頭を狙ったとしても、的が小さく、最後まで視界に入ってしまうことから外れていた可能性が高い。時間をかければ首か頭を斬れたかもしれないが、時間をかければ異界顕現の悪影響がどれほどになるか予想が出来ない。
また、どれほど異界の制御権を奪い、不死の力を得たとしても、槍による一撃でひっくり返されてしまう。
短期決戦以外の選択肢が、悠太にはなかったのである。
「ああ、っぅ、……あ、うああ、……――あああぁぁぁぁ!!」
神の槍が砕けた。
――否、砕けたのではない。砕いたのだ。
――朱い妖精が、己の意思で。
「――待、……っっ」
沈む、沈む、沈む。
深く、深く、深く。
暗く、暗く、暗く。
(……妖精は、どこに)
単純なことだ。
妖精は神の槍を砕き、異界の制御権を手放した。
ヴァルハラ異界は急速に崩壊し、代わりに悠太の心情世界が具現する。
青く澄み渡った空と、空を映す水鏡と、悠太のみが存在する世界。何も見えないほどの泥に呑まれ、底がなく、どこまでも沈み続ける世界。
アストラの奔流に耐え抜き、事態を把握した悠太の前には、彼にとっては見慣れた、己の世界が広がっていた。
「狙うべきは槍……いや、それも違うか。槍が核なのは違いないが、目の前で砕いたのだ。本当の核は別の形で、と考える方が自然だな」
何も見えない――泥で視界は塗り潰される。
何も聞こえない――泥に阻まれて音が耳に届かない。
何も感じない――底が抜けた泥の中では上下さえも定かでない。
「剣がなければ、何もない。……当然だが、違うな。そもそも、世界は空虚なのだ。何も変わらないし、焦る必要もない」
朱い妖精を逃した動揺は、すぐに収まる。
何千年と生き続ける化け物を殺すことが理不尽なのだ。
人手を集め、策を練り、必殺の状況に追い込もうと、朝起きて水を飲むか飲まないか程度の差異で逃してしまう。それが化け物を殺すということであり、それ自体が奇跡のような可能性の先にあること。
異界を崩壊させた時点で、悠太の仕事は終わっている。
「この異界もすぐに壊れる。制御権を奪ったと言っても、維持の要がなければ……」
ふと、自分はなぜ喋っているのかと疑問を抱く。
答えはすぐに出た。
「……黙っていたら狂いそうになるから、か。当然だな。精神世界ならまだしも、ここは現実だ。この身体も魔導戦技で使うアバターではないし、腹も空けば眠くもなる。まあ、それ以前に今日だけで何度死んだことか。正気でいる方がおかしいが、困ったことに正気だ――いや、この状況で剣がないことを悔やんでるのは、正気とは言えないか?」
消失した剣型のデバイスを求めて、指が彷徨っている。
疲労から手足は微塵も動かず、沈むに任せているが、だからこそ無意識に剣を振ろうとする自身を笑う。
――。
泥が由来だ気がするが、何も届かない。
泥は泥のまま、悠太を飲み込んでいる。
「ただ、惜しいな。アストラとやらは気に食わないが、あることに変わりない。空を斬るのなら、これを無視することはできない」
貴重な体験をしたことは事実だ。
命題に固執する本物の魔導師達が血涙を流して羨ましがる体験だ。
直に触れた感覚を剣技に活かせるのなら、間違いなく空を斬ることに近付く。今日の出来事だけで、何十年分の鍛錬に匹敵する価値があった。
――。
――、――。
――ぐ――く――。
何かが、泥をかき分けてくる気がした。
泥が揺れる気がしたが、泥に呑まれた世界で進むなど、悠太にもできないことだ。
「崩れるまでに、動けるようにはなるか? それとも、間に合わない」
まぶたが重くなる。
無理もない。アストラでなかったことになったが、数え切れないほど死んで生き返っているのだ。全身が消失した後に蘇生するという、アイデンティティを揺るがすほどの衝撃的な体験もしている。
――なぐ……――ん。
……――もく――……。
ついに幻聴が聞こえたか、と苦笑する。
疲労で口元も、ノドも動かなくなり、まぶたの重みに逆らう意欲も尽き欠け……。
「――悠太くん!!」
誰かの指が、手に触れる。
誰かの声が、耳に届いた。
微睡みに沈みかけていた意識が、はっきりとした形を取り戻す。
「大丈夫ですか、しっかりしてください! そんな顔で寝ちゃダメです、悠太くん!!」
「…………――ああ、牧野先輩、ですか」
「な、なんですか、今の間は? 怖いですよ、もしかして、記憶にダメージが!?」
「いえ、……寝起き、みたいなアレです。……さすがに、疲れが出て」
不安に駆られたのか、悠太のことを抱きしめながら、顔を近づける。
鼻と鼻が触れそうな距離で、不安げに見上げている。
「ねお、き? ねおき、ねおき、……寝起き! ま、まさか寝てた……だけ?」
「夢うつつ、という意味ですが、似たようなものですね。この状況自体が白昼夢と……」
ふと、気がついた。
自身を見上げるライカがここにいるということは、泥に呑まれ、床が抜けて沈み続ける世界を泳ぎきって辿り着いたのだと。
「悠太くん……どう、しました?」
「先輩、よくここまで、これましたね。泥で方向感覚どころか、天地もあやふやになるのに」
「まっすぐ進むだけでしたし、悠太くんが死んじゃいそうな顔でボーっとして……――って、ああ! ち、近すぎましたね、すみません……!」
顔を真っ赤にしながら、離れよう手を離すが――すぐに抱きしめなおす。
異様なほどに顔を近づけたのは、少しでも離れると視界が泥に埋まるからだ。触覚も聴覚もすぐに泥に埋もれてしまうため、コミュニケーションを取ろうとするなら抱きつくしかない。
「……あ、あの、……あのあの、ののぉ……」
「暗いですからね、ここ。不安になるのも仕方ないです」
ぷるぷると震えながら小さくなったライカを、悠太は抱き留める。
正気を失いかけた身で、感じる人肌を放棄することはできなかった。
「……だ、だっだ、だだだぁぁ……」
「ライカ先輩は、強いですね」
「つ、つつつ……強い、ですか?」
「いえ、強くなった、というべきですね。ここまで辿り着いたのが証拠です」
剣聖として仕事をする中で、精神を浸食しようとする者と対峙したことが複数ある。
直近では、妖刀《綿霧》に取り憑いていた妄執。何百年と生き抜いた呪いであっても、泥の中心に沈む悠太には辿り着けなかった。他の者も同様に。
五感を失ってなお進むことの困難さは、この世界の主だからこそ知っている。
後輩が死にそうだからと、泥に沈むのも厭わずに駆けつけ、辿り着くなど、最弱の剣聖をして偉業と呼ぶほかない。
「……えっと、あっ――足、着きました」
「異界がようやく崩壊し始めたからですね」
泥のかさが減り、五感が戻る。
曇天に覆われた空は光が差し、数瞬後には澄み渡った青空が広がった。
「綺麗……――これが、悠太くんの世界、ですか?」
「ええ、あの曇天を俺の手で斬り払って上で、この空を見たい。それが俺が剣を振る理由です」
望んだ形でないことに、悔しさが残る。
だが、悠太が望む光景が広がったことは紛れもない事実だ。
「――ライカ先輩、ありがとうござ――……」
気付けば、世界に残されたのは悠太一人だけ。
現実で感謝を伝えることができるだろうかと考えながら、崩壊する世界を見届けるのだった。
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