キングを殺した道化(ピエロ)の独白(遊佐響 視点)
完璧なチェスゲームだった。
俺、遊佐響が盤面を支配し、たった一つの駒を犠牲にすることで、敵のキングを盤上から完全に消し去ったのだ。
東雲征一郎。あの男が会社から懲戒解雇の通達を受け、絶望に顔を歪ませている姿を想像するだけで、体の奥から歓喜が込み上げてくる。長年俺の心を蝕んできた、あの男に対する劣等感と嫉妬という名の毒が、ようやく浄化されていくようだった。
「響さん、すごい……。あなたが次期課長なのね」
俺の腕の中で、綾辻美沙緒がうっとりとした声で囁く。数時間前まで、彼女は「東雲美沙緒」だった。あの男の妻であり、誰もが羨むエリート商社マンの奥様という名のトロフィーだった。だが今、彼女は俺のものだ。あの男が築き上げた城も、地位も、そしてこの美しいクイーンも、すべて俺が手に入れた。
「当たり前だろ、美沙緒。あの男はもう終わったんだ。これからは、俺の時代だ」
俺は彼女の唇を塞ぎながら、勝利の美酒に酔いしれていた。
あの男、東雲征一郎は、俺にとって常に太陽のような存在だった。だが、それは希望の光などではない。俺という矮小な存在の影を、どこまでも色濃く引き延ばす、呪わしい光だった。
新入社員として配属されたあの日から、俺は常にあの男と比較され続けた。
「遊佐、お前もポテンシャルは高い。東雲のようになれ」
上司の誰もがそう言った。賞賛の言葉にすら、必ず「東雲」という枕詞が付いて回る。俺がどれだけ努力しても、どれだけ成果を上げても、それは常に「東雲征一郎の二番煎じ」でしかなかった。
あの男は、いつも涼しい顔で、俺が血反吐を吐くような努力の末にようやく辿り着く場所の、さらに先を歩いていた。その圧倒的な才能と、揺るぎない自信に満ちた佇まいが、俺のプライドを少しずつ、しかし確実に削り取っていった。
憎しみが決定的なものになったのは、美沙緒の存在だ。
当時、受付にいた彼女は、社内のマドンナだった。俺も彼女に憧れ、何度かアプローチを試みた。だが、彼女の目は常に、あの男に向けられていた。そして、あの男は、まるで道端の石を拾うかのように、いとも簡単に彼女を手に入れた。結婚式の二次会で、幸せそうに笑う二人を見たとき、俺の中で何かが音を立てて壊れた。
俺が欲しくてたまらなかった光を、あの男はすべて持っていた。
だから、壊してやろうと思った。あの男が築き上げた、完璧な世界を。
計画は、数年前から練り上げていた。あの男の唯一の弱点は、その完璧すぎる経歴だった。わずかな傷でも付けば、その輝きは失われ、脆く崩れ去るだろう。痴漢冤罪は、そのための最も効果的な劇薬だった。
美沙緒に近づくのは、簡単だった。彼女の虚栄心は、手に取るように分かったからだ。夫への不満を装い、彼女の話に共感し、甘い言葉を囁き続ける。「あなたのような美しい人は、もっと大切にされるべきだ」「東雲さんは仕事ばかりで、あなたの本当の価値が分かっていない」。そうやって、少しずつ彼女の心の隙間に入り込んでいった。
SNSで見つけた金に困っている若い女を駒として使い、計画を実行に移した。事件当日、満員電車で東雲征一郎の背後からそっと彼を押し、女に合図を送ったのは、もちろん俺だ。悲鳴が上がった瞬間、俺は群衆の中に紛れ、ほくそ笑んでいた。
計画は、完璧だった。キングは盤上から消え、俺が新しいキングになる。クイーンは俺の腕の中に。最高の気分だった。
だが、歯車が狂い始めたのは、その直後からだった。
東雲の後釜として、俺は南米のリチウム鉱山開発プロジェクトのリーダーに就任した。社運を賭けた一大事業。これを成功させれば、俺の地位は盤石なものになる。
東雲が残した計画書には、膨大なコストをかけた環境対策案が記されていた。馬鹿馬鹿しいと思った。こんなものに金をかけていては、利益が圧迫されるだけだ。手柄を焦っていた俺は、その「安全装置」を大幅にカットし、現地の反対運動を力でねじ伏せるように計画を強行した。
それが、命取りだった。
欧州の経済誌に、プロジェクトの杜撰さを糾弾する記事が掲載された。誰がリークしたのかは分からない。だが、その記事をきっかけに、会社の株価は暴落。世界中の投資家から非難が殺到し、プロジェクトは暗礁に乗り上げた。
「どうなっているんだ、遊佐君!君は、このプロジェクトを完璧に遂行できると言ったはずだ!」
役員会議で、俺は吊し上げられた。今まで俺を持ち上げていた上司たちが、手のひら返しで俺を責め立てる。焦りと苛立ちで、頭がおかしくなりそうだった。
家に帰れば、美沙緒が金の無心をしてくる。
「ねえ、響さん。来月のカードの支払いが……。新しいバッグも欲しいのだけど」
以前は輝いて見えた彼女が、今ではただの金食い虫にしか見えなかった。東雲征一郎という金づるを失い、俺に乗り換えてきた寄生虫。その存在が、日に日に重荷になっていく。俺は、いつの間にか、あの男と同じように、彼女の虚栄心を満たすためだけの存在になっていた。
「うるさい!金の話ばかりするな!俺が今、どれだけ大変か分かっているのか!」
俺は、彼女に当たり散らすようになった。美沙緒は怯えた目で俺を見る。その表情が、さらに俺を苛立たせた。
そんなある日、会社の特別調査委員会から呼び出しを受けた。会議室に入ると、そこには会社の役員たちと、見知らぬ女弁護士が座っていた。九条桔梗。その名札を見て、嫌な予感が背筋を走った。
テーブルの上に、次々と証拠が叩きつけられる。俺が経費を不正に流用したことを示す会計データ。関連会社からリベートを受け取っていたことを示す金の流れ。そして、痴漢被害を訴えた女との、金の受け渡し現場を捉えた写真と、会話の録音データ。
『これで東雲は終わりだ。これは約束の報酬だ』
自分の声が、会議室に響き渡る。血の気が引き、全身から汗が噴き出した。
どうして。なぜ、こんなものが。
俺の視線の先で、九条桔梗が冷ややかに微笑んでいた。その顔が、なぜか東雲征一郎の顔と重なって見えた。そうだ、これはあの男の反撃だ。俺がチェスゲームに勝ったと思っていたのは、ただの幻想だった。あの男は、俺が気づかないうちに、盤面を完全にひっくり返していたのだ。
「遊佐響。君を、懲戒解雇とする。また、会社に与えた損害に対し、賠償請求訴訟を起こさせてもらう」
人事担当役員の言葉が、まるで遠い国の言葉のように聞こえた。
会社を追い出され、刑事告発に怯えながらアパートに戻ると、美沙緒が泣きそうな顔で俺に駆け寄ってきた。
「響さん、どうしよう……これから、私たちの生活は……」
その言葉が、俺の中で最後の何かの糸を断ち切った。
こいつも、東雲も、会社も、世間も、みんな俺を馬鹿にしやがって。俺がこんな惨めな目に遭っているのは、全部こいつらのせいだ。
「うるさい!お前が疫病神だからだ!東雲から乗り換えてきたくせに、今更俺に媚び売ってんじゃねえよ!」
俺は、ありったけの罵声を彼女に浴びせた。
「お前みたいな中古品はもういらないんだよ!消えろ!」
泣き崩れる美沙緒を突き飛ばし、俺は部屋を飛び出した。行く当てもない。ただ、この絶望的な状況から逃げ出したかった。
だが、どこへ行っても逃げ場などなかった。警察から出頭要請があり、俺は全てを失った。
留置場の冷たいコンクリートの壁にもたれかかりながら、俺はずっと考えていた。
俺は、本当に東雲征一郎という人間が憎かったのだろうか。
違う。俺が憎んでいたのは、あの男が放つ「光」そのものだったのだ。俺には決して手に入らない、才能、自信、人望、そして愛する家族。その眩い光が、俺の心の闇を照らし出し、惨めな姿を浮き彫りにする。それが、耐えられなかった。
だから、あの光を消してしまいたかった。キングを殺し、世界を暗闇にすれば、俺の影も消えると思った。
なんと愚かな道化だったのだろう。
光を消した結果、俺自身が、出口のない永遠の暗闇に閉じ込められることになっただけだというのに。
最後に脳裏に浮かんだのは、美沙緒を手に入れた瞬間の高揚感ではなかった。東雲を打ち負かしたときの達成感でもない。
それは、まだ何者でもなかった若き日に、圧倒的な才能を放つ先輩、東雲征一郎の背中を、ただ純粋な憧れの眼差しで見つめていた、あの頃の自分の姿だった。
だが、もう遅い。全ては、もう取り返しがつかない。
鉄格子の向こうに見える小さな窓は、ただ、どこまでも冷たい灰色を映しているだけだった。




