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「パパはやってない」――たった一人の真実(むすめ)を胸に、俺を裏切った世界に復讐する  作者: ledled


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第三話 反撃のチェスボード

俺たちの反撃は、静かに、そして深く潜行することから始まった。九条桔梗弁護士の指示は明確だった。「敵を打つ前に、まず盤面を支配しろ」。その言葉通り、俺たちは遊佐響という男を丸裸にするための情報収集に全力を注いだ。

武器は三つあった。一つは、莉緒の卓越したデジタル情報収集能力。もう一つは、俺が商社マンとして長年培ってきた人脈と、そこから得られる生々しいアナログな情報。そして最後の一つが、それらの情報を法的な刃に変える、九条弁護士の知性だった。


「パパ、見つけた。遊佐の裏アカウント」


ある夜、莉緒が興奮した声で俺を呼んだ。彼女のパソコン画面には、鍵のかかったSNSアカウントが表示されている。ごく親しい友人としか繋がっていない、遊佐の「本音」が吐き出される場所だ。


「どうやって見つけたんだ?」

「遊佐が昔使ってたプロバイダーのメールアドレスとか、過去のハンドルネームとかを全部洗い出して、パスワードになりそうな文字列を片っ端から試したの。そしたら、元カノの誕生日と飼ってた犬の名前の組み合わせでヒットした。脇が甘いよね」


莉緒はこともなげに言うが、その執念と技術はもはや高校生のレベルを遥かに超えていた。

その裏アカウントは、嫉妬と劣等感の坩堝だった。俺が手掛けたプロジェクトが成功した日の投稿には、『結局、手柄は全部あの男のものか。面白くない』と書かれている。俺が美沙緒と結婚した当初の写真には、『なぜ俺じゃない。あの女を手に入れるのは、俺だったはずなのに』という、歪んだ執着を示す言葉が並んでいた。そして、決定的な一文があった。


『駒は揃った。あとはキングを盤上から消すだけだ。クイーンは、俺が貰い受ける』


事件の一週間前の投稿だった。鳥肌が立った。「キング」は俺、「クイーン」は美沙緒、そして「駒」は、あの痴漢被害を訴えた女のことだろう。これは、遊佐響が犯人であることの、動かぬ状況証拠だ。


「よくやった、莉緒。これを九条先生に送ろう」

「うん。……でもパパ、これだけじゃ、まだ足りないんでしょ?」

「ああ。これだけでは、あいつを社会的に完全に終わらせることはできない。もっと、決定的な一撃が必要だ」


俺の脳裏には、次の手がはっきりと見えていた。

遊佐は、俺を追い落としたことで、俺がリーダーを務めるはずだった南米での大規模なリチウム鉱山開発プロジェクトの後釜に座っていた。会社にとっても、社運を賭けた一大事業だ。

しかし、俺はこのプロジェクトに潜む重大なリスクを、誰よりも正確に把握していた。それは、採掘予定地周辺の水源汚染のリスクと、それに対する地元環境団体の想像以上に強硬な反対運動だった。俺は、その対策として、多額の予算をかけた環境保全計画と、地元コミュニティへの還元プログラムを準備していた。だが、コスト意識の低いその計画は、常に経営陣から「過剰投資だ」と批判されていた。

遊佐はおそらく、手柄を焦るあまり、俺が用意していたこの「安全装置」を軽視し、コストカットを優先して計画を強引に進めているはずだ。


俺は、商社マン時代に築いた人脈を駆使した。かつて世話になった現地のコーディネーターに連絡を取り、匿名を条件に、遊佐が進めるプロジェクトの杜撰な環境対策の内部資料を入手する。そして、そのデータを、莉緒が海外の匿名サーバーを経由させ、プロジェクトに最も批判的な論調で知られる欧州の有力経済誌のジャーナリストにリークした。もちろん、その情報が俺から漏れたものだとは、誰にも分からないように細心の注意を払って。


数週間後、効果は絶大な形で現れた。


『日本の大手商社、環境破壊を無視したリチウム開発を強行か』


その経済誌の一面トップを飾ったスクープ記事は、世界中の投資家たちを震撼させた。環境や人権に配慮しない企業への投資を控える「ESG投資」が主流となっている今、この記事は致命的だった。

会社の株価は暴落。海外の投資家たちは一斉に資金を引き上げ、プロジェクトの提携企業からも契約見直しの声が上がった。会社は、わずか数日で数百億円規模の損失を被った。

プロジェクトリーダーである遊佐は、経営陣から激しい詰問を受け、対応に追われることになった。俺がいた頃は盤石に見えた彼の立場は、一気に揺らぎ始めていた。


「いい気味ね」


九条弁護士は、経済ニュースを見ながら冷ややかに呟いた。彼女の事務所で、俺たちは次の手を打つ準備をしていた。


「外堀は埋まりました。次は、本丸に直接乗り込みます。東雲さん、例のものは?」

「はい。ここに」


俺が差し出したのは、小さなUSBメモリだった。

これも、俺のかつての部下の一人が、匿名を条件に提供してくれたものだ。彼は遊佐の強引なやり方に反感を抱いており、俺が冤罪で会社を追われたことに疑問を感じていた数少ない一人だった。

USBの中には、遊佐がプロジェクトの関連会社から不正なリベートを受け取り、会社の経費を私的に流用していることを示す、詳細な会計データが入っていた。愛人らしき女性へのプレゼント代、高級クラブでの飲食代。その中には、美沙緒への高価な贈り物の領収書まで含まれていた。


「素晴らしい。業務上横領と背任。これで刑事告発の準備もできますね。そして、痴漢冤罪の件も、そろそろケリをつけましょう」


九条弁護士は、莉緒が見つけたSNSの証拠に加え、もう一つの切り札を用意していた。彼女が依頼した探偵が、痴漢被害者の女と遊佐が事件後に密会し、金の受け渡しをしていた現場の録音データと写真を入手していたのだ。


「『計画通り、うまくいったわね』『ああ、これで東雲は終わりだ。これは約束の報酬だ』……ご丁寧なことに、会話までしっかり録れています」


九-条弁護士は、冷たく笑った。

準備は整った。

まず、九条弁護士の名前で、遊佐の不正経理に関する詳細な告発文と証拠データを、会社のコンプライアンス部門と監査役会に匿名で送付した。株価暴落で疑心暗鬼になっていた経営陣は、この告発に即座に飛びついた。特別調査委員会が設置され、遊佐は全ての業務から外され、軟禁状態に置かれた。

時を同じくして、俺たちは遊佐と痴漢被害者の女を、偽証罪、および名誉毀損で刑事告発。さらに、民事でも慰謝料を請求する訴訟を起こした。

遊佐響という男が築き上げた砂の城は、四方からの猛攻を受け、一瞬にして崩れ去った。


会社からは、懲戒解雇。それも、俺のような「会社のイメージを損なった」という曖昧な理由ではない。「会社に多大な損害を与え、悪質な不正行為を働いた」という、再就職が絶望的になる烙印を押されての解雇だった。

さらに、会社から数十億円規模の損害賠償を求める訴訟を起こされ、刑事罰の恐怖にも怯える日々。彼の人生は、完全に終わった。


その報せが届いた頃、俺たちの住む古いアパートに、憔悴しきった様子の美沙緒が訪ねてきた。高級ブランドの服も、完璧にセットされた髪も、今は見る影もない。


「征一郎さん……響さんが……会社をクビになって、警察に……」


彼女は、おそらく遊佐に泣きつかれ、俺に助けを乞いに来たのだろう。だが、その前に、遊佐が経済力を失ったことを知った彼女の中に、ある計算が働いたに違いなかった。


「あんな男だとは思わなかったの!私は騙されていただけ!ねえ、征一郎さん、あなたも酷い目に遭ったのね。かわいそうに……」


その言葉に、俺は吐き気を覚えた。

そのときだった。俺のスマホが鳴った。テレビ局の報道部からだった。


「はい、東雲です。……ええ、そうですか。分かりました。ご協力ありがとうございます」


電話を切った俺は、美沙緒に静かに告げた。


「たった今、俺の冤罪が晴れたことがニュースで報じられると連絡があった。遊佐とあの女が、全てを自供したそうだ」

「え……」


美沙緒の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼女は、自分が捨てたものが何だったのか、そして、自分が選んだ男が何だったのかを、ようやく理解したのだ。

自分の人生を狂わせたのは俺ではなく、自分自身の虚栄心と、浅はかな判断だったのだと。


「あ……あ……」


言葉にならない声を発し、美沙緒はその場に崩れ落ちた。その姿は、憐れだった。だが、俺の心は一ミリも動かなかった。

一方、俺を解雇した元上司たちもまた、青ざめていた。エース社員だった俺を失い、遊佐の失態で巨大プロジェクトは頓挫。傾き始めた会社の業績グラフを前に、彼らは己の判断の誤りを、骨身に染みて後悔していることだろう。だが、もう遅い。全ては、もう手遅れなのだ。


俺は、崩れ落ちて泣きじゃくる元妻を一瞥すると、静かにドアを閉めた。

部屋の中では、莉緒が静かに紅茶を淹れて待っていた。


「終わったの?」

「ああ。第一ラウンドはな」


俺は娘が差し出してくれた温かいカップを手に取った。

復讐のチェスボードは、完全に俺たちの支配下にあった。チェックメイトは、もう目前だった。

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