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「パパはやってない」――たった一人の真実(むすめ)を胸に、俺を裏切った世界に復讐する  作者: ledled


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第二話 奈落の底で灯った、小さな希望の火

タワーマンションの四十二階から見下ろしていた光の海は、もうどこにもない。

俺、東雲征一郎と娘の莉緒が新たに住処としたのは、都心から電車で一時間ほど離れた、古びた木造アパートの二階の一室だった。ギシリ、と軋む階段を上るたびに、失ったものの重さが足に絡みつくようだった。六畳の和室と、四畳半のダイニングキッチン。それが俺たちの世界の全てになった。

離婚は、驚くほどの速さで成立した。美沙緒は有能な弁護士を立て、俺が「社会的信用を著しく失墜させた」ことを理由に、ほとんどの財産を慰謝料と財産分与の名目で奪い去っていった。争う気力もなかった。ただ、莉緒の親権だけは、彼女自身の強い意志によって、俺が持つことになった。それが唯一の救いだった。


「パパ、今日のご飯なに?」


学校から帰ってきた莉緒が、ランドセル代わりのリュックを畳の上に放り出しながら尋ねる。その声には、以前のような刺々しさはなく、どこか穏やかさが混じっていた。


「ああ……今日は、カレーに挑戦してみようと思う」


俺は慣れない手つきで玉ねぎの皮を剥きながら答えた。商社マンとして世界を飛び回り、高級レストランで舌を肥やしてきた俺が、四十二歳にして初めて、まな板と包丁に真剣に向き合っている。その姿は滑稽だろう。涙で滲む視界は、玉ねぎのせいだけではなかった。


「へえ、いいね。手伝うよ」


莉緒はそう言うと、手際よく袖をまくって俺の隣に立った。


「人参の皮むき、任せて。パパのその包丁さばきじゃ、日が暮れちゃうよ」

「……すまないな」

「別に。こういうの、結構好きだし」


二人で並んで立つ狭いキッチン。以前の、広すぎてどこか空虚だったアイランドキッチンとは比べ物にならない。だが、隣に立つ娘の体温が、すぐそこに感じられた。俺たちが失ったのは、虚飾に満ちた舞台装置だけで、本物の家族の温もりは、むしろ今、この場所にあるのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。


食事の後、莉緒は自分の部屋代わりの和室の隅で、ノートパソコンを開いていた。俺は減っていく預金通帳の数字を眺め、漠然とした不安に襲われていた。冤罪は晴れていない。前科者ではないにせよ、「痴漢でクビになった男」というレッテルを貼られた俺を、まともな会社が雇ってくれるはずもなかった。

このままでは、莉緒を進学させてやることもできない。俺のせいで、この子の未来まで奪ってしまうことになる。焦りと無力感が、黒い染みのように心を蝕んでいく。


「パパ」


不意に、莉緒が声をかけてきた。その目は、画面に表示された何かを捉え、鋭く光っている。


「ちょっと、こっち来て」


俺が彼女の隣に座ると、莉緒はパソコンの画面を俺に向けた。そこには、SNSのプロフィール画面が表示されていた。俺を痴漢だと訴えた、あの若い女のものだった。顔写真を見て、胃の奥が冷たくなるのを感じた。


「この女……」

「うん。事件の後、すぐにアカウントに鍵をかけてたんだけど、今日、一瞬だけ鍵が外れたみたい。その隙に、フォロワーとか過去の投稿とか、全部データを保存した」


莉緒は淡々と告げた。彼女の指がタッチパッドを滑り、次々と画面を切り替えていく。女の交友関係、行動範囲、趣味嗜好。その膨大な情報の中に、俺は見覚えのある名前を見つけた。


『遊佐 響』


それは、俺の元部下であり、美沙緒が「感じが良くて、あなたより気が利く」と褒めていた男の名前だった。


「……なんで、遊佐がこの女をフォローしているんだ?」

「それだけじゃないんだ。見て、これ」


莉緒が示したのは、一枚の写真だった。洒落たカフェのテラス席で、二つのコーヒーカップが写っている。投稿日は、事件の二週間前。そして、その写真には、ごく小さく、しかしはっきりと、男物の腕時計が写り込んでいた。俺が、昨年のボーナスで遊佐に贈った、特注の時計だった。


「……まさか」


血の気が引いていく。点と点が、繋がり始めた。

遊佐響。三十二歳。人当たりが良く、甘いマスクで社内の女性社員からの人気も高かった。俺は彼を可愛がり、自分の後継者として育てているつもりだった。しかし、今思えば、彼の笑顔の裏には、時折、ぞっとするような冷たい光が宿ることがあった。俺が大型契約をまとめてきたとき、祝福の言葉を述べながらも、その目には隠しきれない嫉妬の色が浮かんでいたことを、なぜ今まで気づかなかったのか。

そして、美沙緒。彼女は最近、やたらと遊佐を褒めていた。「遊佐さんって、本当にスマートよね」「あなたの部下にしておくのは勿体ないくらい」。離婚を切り出されたとき、彼女のSNSのアカウントには、遊佐からの『いいね』が無数に付けられていたことを思い出す。


「仕組まれた……のか」


喉から絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。俺の社会的地位、名誉、そして妻。その全てを奪うための、周到に仕組まれた罠。俺が信じていた世界は、悪意に満ちたチェス盤の上でしかなかったのだ。

怒りが、腹の底からマグマのように湧き上がってくる。だが、それと同時に、あまりに巨大な陰謀を前に、どうすることもできない無力感が俺を打ちのめした。証拠は?このSNSの写真一枚で、何ができる?警察は、今さら俺の話を聞いてくれるだろうか。


「……復讐するんでしょ?」


静かな声が、俺の思考を中断させた。

顔を上げると、莉緒が俺をまっすぐに見つめていた。その瞳には、高校生らしからぬ、覚悟を決めた強い光が宿っていた。


「手伝うよ、私。ネットのことなら、パパより私のほうがずっと得意だから」


それは、子供の無邪気な言葉ではなかった。父親が受けた理不尽な仕打ちを、その苦しみを、誰よりも深く理解した上での、共闘の申し出だった。

俺は、震える手で娘の頭をそっと撫でた。涙が、こらえきれずに頬を伝う。


「……ありがとう、莉緒」


そうだ。ここで終わるわけにはいかない。全てを失ったわけじゃない。俺にはまだ、この世で最も信頼できるパートナーがいる。

俺の心に、再び火が灯った。それは、奈落の底でようやく見つけた、小さく、しかし決して消えることのない希望の火だった。


翌日、俺は一本の電話をかけた。相手は、大学時代のサークルの先輩で、現在は検察庁に籍を置く男だ。事情を話すと、彼はしばらく黙り込んだ後、重々しく口を開いた。


「……東雲、それはかなり悪質な計画犯罪の可能性があるな。だが、警察を動かすには証拠が弱すぎる。相手を社会的に抹殺し、君の無実を証明するには、それ相応のやり方が必要だ」

「どうすればいいんですか、先輩」

「俺が直接手を貸すことはできん。だが、一人、適任の人間を知っている。刑事事件と企業法務、どちらにも鬼のように強い女弁護士だ。ただし、少し風変わりで、信念のない依頼は絶対に受けん。金だけじゃ動かんタイプだ」


先輩はそう言うと、一つの名前と連絡先を教えてくれた。


『九条法律事務所、弁護士・九条桔梗』


数日後、俺は指定された神保町の古びたビルの一室にいた。ドアプレートには、確かにその名前が刻まれている。深呼吸をして、ドアをノックした。


「どうぞ」


中から聞こえてきたのは、涼やかで知的な女性の声だった。

室内は、膨大な量の法律書で埋め尽くされていた。その書物の山の向こうに、彼女は座っていた。年の頃は三十代後半だろうか。黒いパンツスーツを着こなし、切れ長の瞳がガラス玉のように冷たい光を放っている。九条桔梗。それが、彼女だった。


「東雲征一郎さんですね。お話は、高坂さんから伺っています。座ってください」


俺は勧められるまま、革張りのソファに腰を下ろした。莉緒がまとめてくれた、遊佐と被害者の女の繋がりを示す資料をテーブルの上に置く。


「単刀直入に伺います。あなたは、本当にやっていないのですね?」


彼女は資料に目を落とす前に、まず俺の目をじっと見つめた。その視線は、嘘やごまかしを一切許さない、鋭利な刃物のようだった。


「はい。誓って、何もしていません」


俺は、揺るがぬ声で答えた。

彼女はしばらく黙って俺を見つめていたが、やがてふっと視線を緩めると、初めて資料に手を伸ばした。パラパラとページをめくり、莉緒がマーカーを引いた箇所に目を留めると、その口元に微かな笑みが浮かんだ。


「……なるほど。面白い。これは、実に悪質で、しかし見事なまでに周到な計画ね。あなたの部下だったという遊佐響という男、相当な切れ者か、あるいは、あなたへのコンプレックスで精神が歪みきっているかのどちらかでしょう」


彼女はあっさりと、俺が抱いていた仮説の核心を突いた。


「この依頼、お引き受けします」

「……本当ですか」

「ええ。ただし、私のやり方は少々手荒です。単にあなたの無実を証明するだけでは終わりません。あなたを陥れた人間、あなたを裏切った人間、その全てが犯した罪の代償を、法と社会のルールの中で、最大限に支払わせます。あなたには、その覚悟がありますか?」


九条桔梗は、そう言って俺に手を差し出した。その瞳の奥には、正義感というよりも、むしろ理不尽な悪に対する冷徹なまでの闘争心が燃え盛っているように見えた。彼女もまた、何かを背負って戦っている人間なのだと、直感的に理解した。


俺は、迷わなかった。差し出されたその手を、力強く握り返す。


「はい。お願いします。俺から全てを奪った連中に、完璧な絶望を」

「結構です。契約成立ね」


九条桔天は、まるでチェスの名人が最初の一手を打つかのように、満足げに微笑んだ。


「では、反撃のプランを練りましょうか、東雲さん。まずは敵の足場から、静かに崩していくのが定石よ」


窓の外では、いつの間にか降り始めていた雨が、窓ガラスを叩いていた。だが、俺の心の中は、一点の曇りもなく晴れ渡っていた。

完璧な復讐計画の、最初のピースが、カチリと音を立てて嵌まった。これから始まる闘いのチェスボードが、俺の目の前に、はっきりと見えていた。

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