092 【 神はいない 】
ケールオイオン王国に所属するトラトの街。人口は4万人程度の中規模都市だが、ここは巨大な穀倉地帯として知られている。
高く聳えるダムの様な防塁に囲まれたアヴァンダ湖。そしてそこを中心とした、放射状に広がる水路と広大な農地。
きちんと区画整理された農園は、上空から見れば農地というより近代的な幾何学アートの様だ。
湖に隣接するトラトの街は、張り巡らされた美しい水路を利用した観光地としても知られていた。
街には金属ドームの近代的な建物もあるが、全体としては極僅か。多くの建物はレンガ造りの町並みで、昔ながらの風情ある情緒を伺わせる。だが、内部は近代的な設備が整い、明かりも冷暖房も整備されていた。
規模はそれほど大きくはないが、牧歌的で美しく、また豊かな街。
しかしその街を、滝のような雨が包んでいる。まるで大地が、周囲で燃え上がった炎を消そうとするかのように。
轟音ともいえるような雨音と、それでも消える事の無い激しい業火。そんな街中を、武器を持った兵士達が亡霊の様に徘徊していた。
既に市街の抵抗は殆どが沈黙していた。
今は僅かな生き残りが、市庁舎等の金属ドームの建物に籠って最後の抵抗をしている程度だ。
そんな中、狭い水路を小さな二人の子供達が、腰まで水に浸かりながら逃走中であった。
一人は男の子、もう一人は女の子だ。幼い……まだ10歳そこそこだろうか。服は二人とも粗末な綿製品。ごく普通の市民だ。
「がんばれ! がんばれ! ここさえ越えれば、一度橋の下に出る。そうしたら少し休もう」
男の子は女の子の手をしっかりと握り、励ましながら懸命に進んでいく。
ここは普段はくるぶしが浸かるまでしか水深がない。いざという時に、逃走するルートとして用意された偽装水路だ。
だが今日に限って降った大雨の為に、水深はいつもよりもずっと深くなっている。小さな子供達では進むことは困難だ。
しかし、足の速いみんなは先に行ってしまった。もう自分達だけで頑張るしかない。
幸い、ここは他とは孤立したダミーの水路。水深はあっても流れは殆どない。それに大雨のせいで、湖から水を引くための水門は閉じられている。もし開いていたら、溢れた水はこの水路にまで流れ込んできただろう。
だが大雨と腰まで浸かった水で体は冷え、体力をじりじりと奪っていく。まだようやく春の風が感じる頃。しかも油絵の具の雲に覆われたこの世界では、春はまだ寒い季節。だけど橋の下まで行けば、そこからは地下通路を使える。後は町の外まで――
ザブンッ――だが、それは水音を立て橋の下から現れた。
全身を負う漆黒の鎧には、斜めに走る水色の卍継のマーク。ジェルケンブール王国軍の兵士だ。長剣には雨でも洗い流せない程に血と脂がこびりつき、面壁の奥の瞳は生者の色をしていない。
「逃げろ! 早く!」
男の子は女の子を後ろに庇い、逃げるように促す。だが二人とも、恐怖で足が動かない。
力ない子供の必死の抵抗。両手を広げ、女の子を守る。だが、ジェルケンブールの兵士が水を掻き分け迫る。
(神様……!)
だが、この世に慈悲深き神などいない。弱者を守る英雄もここにはいない。何の抵抗も無く、あまりにもあっけなく、一刀の下に男の子は肩から股まで真っ二つに切り裂かれた。
水路の水は一瞬にして真っ赤に染まり、内臓がぷかりと浮いて女の子の元へと流れて行く。
「うわああぁぁぁ! おにいちゃん! おにいちゃぁん! わあああああー!」
女の子は沈んでしまった男の子の半身を必死で持ち上げるが、無情にもその前まで兵士が迫る。
兵士の瞳に映るもの。それは人ではなく、斬れば血が出るだけの――ただの肉。
幼き兄妹を屠った兵士達は、無言で足を進め生者を探す。抵抗するものは斬り、命乞いをするものを突き、赤子を潰し、全ての敵を殲滅する。
彼等だけではない。全ての兵士達、そしてこの街の人間も、幼き兄妹の親も、かつてはそうやって殺し、生き抜いてきた人間達だ。慣れてはいる……だが人を殺す毎に、心は凍り、魂は死んでいく。
彼らは飢えた野盗ではない。略奪などは行わない。ただ粛々と……静かに殺していく。
街には多数の死体、そして切断された腕や首が転がり、雨水と共に流れゆく血が、かつて美しかった町の石畳を染める。
激しく降りしきる雨の中、死体を踏みしめ進む兵士達の姿は、まるで幽鬼の群れであるかの様だった。
◇ ◇ ◇
”逃避行”ロイ・ハン・ケールオイオンは、その郊外で戦っていた。
トラトの街は、かつて彼が生まれ育った場所だ。友と遊び、学び、淡い恋をし、子を成し、育み、そしてその子や孫が暮らす町。だが今、その町は侵略者の手により陥落した。
大雨にも関わらず街から立ち昇る黒煙を見ながら、何人が生き残っているだろうかと考える……だが感傷にふけることは出来ない。
「突撃だ! 奴等を生かして返すな!」
いつもの洒落た軍服ではない。普段垣間見せる、おどけた様子もない。
深紅の塗装に大流星の紋章を付けた重甲鎧を纏い、頭部には尖角、両手にはそれぞれ棘付メイスを構える。
飛甲板に乗って疾走する彼の眼前には、ジェルケンブールの大型飛甲板が映っていた。
双方共に飛甲板。マリセルヌス王国軍飛甲板1200枚、兵員約3万人。対するジェルケンブール王国軍は、大型飛甲板1600枚、兵員約6万人。
普段の移動であれば倍の人数を積めるが、今回は機動戦だ。互いに速度を維持できる限界までに抑え、相手の飛甲板にぶつけ、飛び移る。
飛甲板同士の戦いは、相手の操縦士か動力士の2名を倒せば実質的な勝利となる。当時相和義輝にその目的は分からなかったが、操縦席と動力席が窪んでいるのは飛び道具対策だ。互いに矢を撃ち合いながら接近し、接舷したら乗り込んでの白兵戦となる。その戦いぶりはまるで、海賊船の戦いだ。
互いに射る無数の矢が、雨と共に双方の兵士を射抜く。
豪雨により効果が薄いとはいえ、全身鎧を纏えぬ魔力量の者にとっては脅威だ。
だが双方怯まない。特にマリセルヌス王国軍は、倍以上の数を相手に一切怯むことなく突進する。
「ロイだ! ロイが来たぞ!」
互いに金属音を響かせ激突する飛甲板の上から、ロイ王の重甲鎧が乗り移る。
「貴様ら! 生かしては帰さん!」
3メートルを超す巨大な棘付メイスの一振りで、二人のジェルケンブール兵士が虚空へと消える。大型飛甲板は1枚当たり40人前後の兵士を乗せている。
十分に余裕がある配置だが、3メートル級の重甲鎧が飛び込むと、一気に狭くなったように感じられてしまう。
いや、それは単純な大きさではない。ロイ王の迫力と勢いによるものだろう。
一歩踏み出すごとに血飛沫が跳ね上がり、得物の一振りで重装甲の兵士が弾け散る。漆黒の兵士達も応戦するが、剣も槍も、その紅蓮の装甲に傷一つ付けることは出来ない。
「怯むな! 奴とて魔神ではない! 所詮は人間だ!」
「囲んで押し包め!」
数で圧倒するジェルケンブール兵士は、次々とその周囲から乗り込み集結するが、ロイを止めることが出来ない。
たった一人の猛将が戦況を支える。近代的な集団戦になる程に個人の価値は下がっていくが、それを上回って余りある獰猛な力。彼の本分は本来は戦略面において発揮されるものだが、今の彼は獰猛な悪鬼そのものだった。
迫りくる漆黒の重甲鎧の斧を肩で受けると、返す棘付メイスで相手の上半身を一撃で吹き飛ばす。
足元で踏み潰された兵士は粘土細工のように潰れ、新たに迫る重甲鎧も頭を潰され飛甲板から転げ落ちて行く。
その間に友軍により操縦士と動力士が倒されると、大型飛甲板は制御を失いゆっくりと地面に着地した。
「さて、これで何枚目だったか」
「13枚目です、陛下。そろそろ一度ご休憩を! まだ我らが優勢です。ここでこれ以上の無理は!」
だが水晶の覗き穴から覗くロイの顔に疲労の色は無い。彼の身に滾る怒りが、
普段以上の魔力を引き出していた。
「俺の方は問題ない。それよりアスターゼンの右翼とゲルトールの左翼はどうなっている」
「両軍とも優勢です。地の利はこちらにありますからね」
「そうか、なら良い。このまま連戦だ! 続け!」
マリセルヌス王国軍は本隊であるロイ王の部隊が中央に突撃し、左右が両翼から包み込むような形状になっていた。
倍する相手を包囲できたのは、ジェルケンブール軍が不慣れな地域に警戒し密集していたからと、豪雨の為に速度を落としていたからだ。だが、両翼どちらが失われても、残る二軍は逆に包囲されてしまう。中央にいかに敵を集めるかが鍵であったのだ。
◇ ◇ ◇
その頃、アヴァンダ湖畔の防塁には、武装した一団が待機していた。
正規兵僅かに3千。民兵5千人。それに旧式の装甲騎兵に、更に旧式の飛行騎兵が一騎。
ケールオイオン王国の生き残りであった。
既に国土は蹂躙され首都も陥落し、生存者は全国民の2割残っているかどうか。
そして指揮をするのは一人の少女。
背は150センチギリギリ有るかどうか。左側だけ長く伸ばした歪な銀髪に金色の瞳。小さく薄い唇は横一文字に結ばれており、顔面は蒼白で白い肌をさらに白く見せている。
身に纏うのは薄手の鎖帷子。大人用の物を無理に着ているように見え、腰をベルトで止めているためワンピースの様にも見えた。
頭には鍋をひっくり返したような大きな兜。こちらもサイズがあっておらず、見た目以上に子供っぽく見せている。
現国王、ポレム・ハン・ケールオイオン。開戦時の王位継承権は107位。
僅か66歳の若輩だ。一応は兵役にも参加し、魔族領へ赴いた事もある。だが戦歴と言えば、補給任務に就いていた時に屍喰らいを発見し逃げ出したくらいである。
髪の右側は、その時掴まれて切った。以後、ゲン担ぎで左側だけは伸ばしていた。
王位継承順位など、誰かが功績を立てればホイホイ抜かれていく。とても自分が王位を継ぐなどとは、今日の今日まで考えた事も無かった。
だが、無情にも淡くピンク色に輝く双翼の護符。 ケールオイオン王族が持つ宝飾だ。それが輝くという事は、上位の106人は全員死んでしまったという事である。
今までピンクは好きな色だったが、もう生涯二度と見たくないと思えた。
暗雲垂れこめ、大きな雨粒が降る天を眺める。
(もう、ケールオイオン王家は終わりだわ……)
この世界では、力なき王家は内乱であっさりと滅ぶ。後は運が良くて奴隷だが、自分の様に何の力も実績も無い者がなれるとは思わない。奴隷として生かしてもらえるには、良質な血統や見た目、特殊技能など、何かしらの付加価値が必要なのだ。
ロイに戻ってきてもらえれば何とかなるかもしれないが、この状況では望み薄だ。彼はこの戦いが終われば、普通にマリセルヌス血族に入るだろう。
「陛下、支度が整いました。どうぞ装甲騎兵の中へ」
「そう……そのまま別名あるまで待機よ。わたしは良いわ……最後に、この景色を見ておきたいの」
「畏まりました」
遥か先まで広がる畑では飛甲板隊による血みどろの死闘が繰り広げられ、トラトの町からは黒煙が上がっている。
陛下などと呼ばれるのも、あと幾日だろうか。だが、ケールオイオン王国の王として、きちんと務めは果たさなければいけない。
痛いほどの雨に打たれながら、 ポレムはぼんやりと天を仰いでいた。






