20・見ているだけでいい
大粒の涙が一粒、それにつられて二粒、三粒、こぼれ落ちていった。
「あれ、奏ちゃんじゃない?」
千早が道路の向かい側を指さした。そっちを見ると、大柄な人影と小柄な人影が並んで、手をつないで歩いているのが見えた。小柄な人影は確かに、千早の言う姫雪奏、という人物だった。
「ああ、この前会ったあの子ね……隣にいるのは七村さんだっけ?」
青嵐祭の後、千早に連れられて来たのが七村さんの家。そこにいたのがあの二人で、私は初対面の人と一緒に初対面の人の家で飯を食っていたというわけだ。
それにしても……初めて会ったときも思ったけど、かなり仲がいい。友だちよりも恋人という表現が本当にしっくりくる。……でも、仲むつまじく並んで手をつないで歩くような二人だっただろうか?
「いいなー、明音ちゃんあの子とラブラブじゃん。うらやましー」
あの子に会ってから、千早は彼女のことをよく話すようになった。家でも、学校でも。それまで学校で他の人と雑談するときは愛沙や、自分のこと————それに、私のことなんかをよく話していたのに。
「ねえ、千早……」
別にどうでもいい、ことのはず。なのに、千早が彼女の名前を出す度に私の中に一つ、また一つとわだかまりができていく。
「何?」
だから多分、私がこの質問を無意識にしてしまったこともきっと不思議ではないのだろう。
「姫雪さんのこと、好きなのか……?」
そして、帰ってきた答えは十分に非情なものだった。
「さあ、ね」
それだけで、他は何も、千早は言わなかった。
「……そっか。帰ろうか」
「うん」
夕暮れの住宅街を抜けて、定子屋の前を通り過ぎる。日没が近づくにつれて、私の中のわだかまりは次第に大きくなっていった。その元凶が、隣にいる千早であろうことは間違いないけど、なんでこんな感情を抱いているのか、私にはわからない。この正体を知ってはいるのだけど。
生徒会役員ながら校則違反の色の髪の千早は人目を惹く上に、学校でもかなりの人気がある。男女問わず。
彼女が告白されたとき、「他に好きな人がいる」と言ってみんな断った。そのあとの彼女の表情が辛辣に印象に残っている。
手に入れたい。
そんな言葉が、もしかしたら頭をよぎっていたかもしれない。
千早の顔は、紅い夕日に照らされてより一層美しく見えた。でも、あと少しで夕日は地平線の下に潜り込む。見えなくなってしまう。その顔だけ見つめていたいと思ったときにはもう遅かった。
一週間後、期末テストの結果が帰ってきた。英語だけ平均を切ったものの、他は7~80点でまあ上々だろう。それに対して、千早は数学だけボロボロで他は概ねできているといった感じだった。日が差し掛かった教室から、二人でテストの結果を見せ合っていた。
「どうよ、調」
「あー、まあまあかな。英語の追試がなかっただけマシか」
「は? 追試ないの?」
千早は目も丸く、してやられたといった感じだった。なるほど、数学でやられたか。Bはまだいいっていってたから、Ⅱかな。それとも両方か。
「ま、英語はそれなりにやってたからね。千早は追試あんの?」
返ってくる言葉は分かりきっているけど、まぁあえて聞いてみよう。大体思った通りだから
「あー私ねー……。数学がちょっと奮わなくて……うん。ま、ないんだけど」
と、言いながらドや顔で私を見る、そんなウザイ仕草まで大体予想してた。どうせないんだろうとも思っていた。
一緒に生まれてきて、ずっと一緒にいたんだから、そのくらいわかる。
彼女のことは、私にしか分からない。絶対。
「そっかー……」
そう、強く意識する気持ちがまた違和感を帯びた。どうして、こんなに強く。
「何よ、追試がなかったらなんか文句あるの?」
「むしろ無いよ」
「そうそう、今日廊下で奏ちゃんとすれ違ってね……」
「あ?」
その名前が出た瞬間自分でも顔が引き攣ったのが分かった。もしかしたら、やめてと叫んだのかもしれない。叫ばなかったけど、叫んでも同じではあっただろう。
どちらにせよ、今私の口から出た言葉は険悪そのものだったろう。千早は硬直して、目を丸くして私を見た。
「な、何よ……やっぱり、文句あるんじゃないの」
「文句しかねえよ。なんで毎日あの子の話しかしないんだよ」
「……」
「……いい加減にしろよ、口を開けば奏、奏って、そんなに人の彼女がうらやましいか」
千早は、そんな私の言葉を聞きながらしかし、一言も何も、言わなかった。
「お前が好きだとか、好みだとかタイプだとか知らないし、そんなの聞きたくない。私の目の前でその名前を出さないで」
私は椅子を蹴って立ち上がると、鞄を引っ掴んで歩き出した。
「ま、待ってよ……ごめ」
千早が何か言いかけていたけど、無視して教室を出てドアを乱暴に閉めた。
「不愉快……」
見ているだけでいいって、自分に言って聞かせたのは
「私自身だったはずなのにな……」
廊下を歩きながら、ほとんど悔し紛れに呟いた。一粒落ちる涙なんて、望んでない。
がむしゃらに歩く。
ボヤけた視界に飛び込んできた人影に、気づかなかった。ドン、と鳩尾に何かが当たった。
「あっ……」
「ひゃっ、す、すみません」
誰だ? 前髪で隠しながら涙を拭った。晴れた視界には何やら見慣れた、中学生としても小柄な立ち位置だろうという背格好の少女がいた。
姫雪奏。さっきは名前すら出すな、と言ったのにまさか本人が目の前現れるなんて……。と歯ぎしりをしそうになって、思いとどまった。
いや、感情を表に出すまい。そもそもこの子は悪くない。
「あれ、姫雪さん、だっけ?」
「あっ……し、調先輩……? こ、こんにちは」
姫雪さんはおどおどした感じで少し頭を下げた。その姿は、確かにかわいらしかった。
ニッコリ笑う。涙がこぼれそうになるけど、今までのは忘れよう。
姫雪さんは少し狼狽えたような、それこそあまり面識のない人を相手にしたような様子だった。
「居残りかな?」
「あ、いや……私は大丈夫なんですけど、友だ……明音が三教科くらい欠ったから……勉強の面倒見てて、それで今トイレ行ってて……」
「そっか、大変だね」
この先の角を曲がってすぐのところにトイレがあるし、私が来た方向にある階段を上がれば一年生の教室だから、トイレから戻っているんだろう。
「……ねぇ、姫雪さんってさ」
「はい?」
「七村さんのこと……えっと、なんていうか……好きだったりする?」
言い終わらない、どころか七村、という名前を出した瞬間に彼女の頬から火が出た。聞くまでもなかったかなぁ。
「好き……えっあっ、とかない、ないです」
普段の低い声が身を潜めて、思い切り裏返った声が出た。
これは……千早の入る幕がなさそうだ。なぜだか、安堵のため息をついてしまう。
でも、もしも彼女の恋が冷めてしまったら……。
「あ……ごめんね」
「大丈夫です、よ。こんな質問慣れてますから……?」
違う。今のごめんね、は無粋な質問をしたことに対して、じゃなくて、もしも姫雪さんの恋が冷めたらとか千早に気を持たれてほしくないとかそんな汚い私の感情から出た言葉でーーーー
そんなの説明しきるはずなく、口から言い訳が出るより先に目から大粒の涙が一粒、それにつられて二粒、三粒、こぼれ落ちていった。
「調先輩?」
「あ……ごめ、んね、……ごめんね……!」
えっく、ひっく、嗚咽が漏れては消える。姫雪さんは多分どうすればいいか分からずに困っているだろう。子供みたいに泣いてる大柄な女の先輩の対処なんて。
もう何もかもどうでもいい。頭の中が白くなっていく。
はい、というわけで調さんのお話でした。別に存在を忘れてたわけじゃないです。うん。むしろこの小説の存在自体(ry




