18・金色の夏の図書室
引越しで忙しかったけど一段落つきました。
『だから違うって、あの質問に何も意図はないから!』
『え~ホントォ?』
図書室のカウンターで本のまとめ作業をしていると遠くから何やら話し声が聞こえてきた。
『そんなこと言って、実はちょっと進展したとか思ってんじゃないの〜?』
『ぶん殴るぞコラァ!』
『おおっ!? あぶねえってちょっと』
どっちも声は高くない。片方は少し幼い部分が垣間見えて、もう片方は抑揚が強くおてんば娘とかそういうのを彷彿とさせた。
っていうか、姫雪と七村じゃないかあいつら? 質問とか言ってたけど何の話だろう。
姫雪のことだし……例えば七村に自分のことが好きかどうか、とか。
いや、結構堅実な性格だし、もっと自分の心中を隠すような聞き方だろうな。自分が七村のことを好きになったらどうするか、とか。どうせ今でもラブラブなんだから付き合っても問題ないと思うが。クラスの一部(気持ち悪い趣味をお持ちの女子界隈)だと公認カップルらしいけど。
「希、手が止まってるわよ」
あれ、ボーっとしてたかな。慌ててそこらへんにある文庫を手にとった瞬間、手に当たって大きめの本が床に落ちた
「あっ……」
その衝撃で、机の片隅にうずたかく積まれた本がどさささ、と流れ落ちた。奇しくも、私が数十分かけて分類ごとに分けた本だった。
「うわっ、まっやめ」
「あーあ、ほんと愚図ねぇ」
「す、すみません……」
アイ先輩は図書委員の仕事をしていると機嫌が悪くなる。めんど臭いらしい。
「こっちも暇じゃないんだから、手を焼かせないでね」
仕事でミスしたときの先輩の声は本当に怖い。私がマゾだったら密かに音声レコーダーに録音して毎日何十回と流したかもしれないけど。とはいえ図書室の外にいてもいきなりセクハラしてくるから変わらないか。
数十分をもう一回繰り返してやっと本をまとめ終わった。
「はー終わったわね、じゃあこっち手伝って」
「は、はい」
「もう一回同じミスしたらお仕置きするわよ」
さすがに、これは冗談だと思うけどやっぱり怖い。普段はこの人の前でも強気でいられるのに、図書室だと蛇に睨まれた蛙でいるしかない。
……ふん、単に自分もめんどう臭がりなくせに。
もちろん、声に出して言うほど勇気はなかった。
17時48分。空は西側が赤らみ、東はほの暗い星空を映し出していた。西側に窓がある図書室には、夕暮れの色が飛び込んできていた。図書室が閉まるのは18時。そもそも人が来ることも少ない図書室に、こんな時間に来る人なんていない。返却期限ギリギリに本を返しにくるような人もいない。大体そういう人は次の日に返しにくる。毎年卒業式のあと、図書室の本がいくつかなくなってることも多々あるらしいし、気にすることはないだろう。私は机の上に置いた鞄にもたれ掛かりながら機嫌よく荷物をまとめているアイ先輩を見つめていた。
そういえば、家族以外で私のことを「希」と下の名前で呼んでくれたのはアイ先輩が初めてだ。
唯一……ではないけれど。姫雪も七村も最初は散々変なあだ名をつけていたけど今では下の名前で呼んでくれているし。
別に唯一でなくてもいい。私のことを呼ぶのに私の名前を使っても構わない……けれど、あの日、姫雪と打ち解けて、親しい人がアイ先輩一人ではなくなった時から、なんだかわだかまりがある。文化祭のときも一緒に行動したのはこの人だし……。
そんなことを思っていたら、アイ先輩と目が合っ
「どうしたの?」
いつものように、切れ長の目を細めて唇の端を持ち上げて柔らかく笑っている。はずなのに、この人の微笑みからはどこか嗜虐的な威圧感を感じる。
「な、なんでもないです」合わてて顔を背けるとアイ先輩は私の顎に右手を添えて自分の顔に近づけてきた。「そう? しっかり10秒目が合ってたわよ?」
「ちょっ……」
無理矢理引き寄せられたので、椅子から立ち上がった姿勢になっていた。
「やめてくださいよ!」
私が先輩の右手を掴んで離そうとすると、アイ先輩は私のその手をもう片方の手で払い、左手で私の後頭部を抑えた。
「赤くなってるわよ」
視界一杯に切れ長の目が映っていて、ゆっくりのテンポで私の唇に吐息がかかる。まずいまずい、この人の意志しだいではキスしてしまうかもしれない。
「や、やめて……くださいってば」
さっきからドクンドクンと激しく打っているのは、私の心臓ではないはずだ。こんなシチュエーションで私が興奮なんてするはずがない。
「可愛いなー。ねえ、図書室閉まるまで……後7分かしら? それまで私の好きなようにしていい?」
「ダメです」
「先輩の命令よ」
「知りませんそんなの。せ、先輩だからって……」
そもそも先輩とか関係なく、この人には逆らえないというイメージが私の中にあるのは事実だけど……。今までセクハラ紛いのことしかされなかったから。こんなことをされるのは初めてで、すごい恥ずかしい。
「ふーん、口答えするんだ?」
背筋が凍るような台詞を吐いて、先輩は更に私の顎をゆっくり引き寄せてきた。まずい、キスされる!?
「ひっ……だ、めっ」
抵抗もできないで、反射的に目を瞑る。
だけど、しばらく経っても唇にはアイ先輩の吐息以外何もつかない。顔が熱い。これで顔が赤くなるだなんて、私がこの人に気があるみたいでいやだ。
そう思っていたら、いきなりかかっていた吐息が途絶えた。
「……?」
「冗談よ、無理矢理迫ったりなんかしないから」
おそるおそる目を開けると、私は解放されていた。
「……冗談にしてもやりすぎですよ」
「あらあら、それにしては顔も赤いし不満そうね。寸止めじゃ嫌だったの?」
「寸止めっていうか別にキスなんてしなくていいですから、変な真似やめてください! もし誰かに見られてたらどうするんですか!」
「既成事実ができちゃうし、この際あなたと付き合うわよ」
「……ふん、先輩はいいかもしれませんけど」
どうもこの人と話していると調子が狂う。相手が一枚上手なのかもしれないけど、姫雪と話すのとはまた別の感じだ。
「私は嫌ですよ、大体女同士なのに」
「あら……あなたのクラスに一組レズカップルがいなかったかしら」
「知りません、もう帰ります」
私はそう言って、鞄を持って肩から下げた。
「つれないわねぇ」
そんなことを言いながら先輩が後をついてきた。
……私と付き合う、かぁ……。
「先輩」
「なぁに?」
先輩が私のことを好きでいる、というのは別に嫌じゃないけど。
「前に姫雪のこと好きって言ってましたよね」
だから付き合えるかっていうと、そうでもない……この人と関係を崩してしまいそうだ。
「あー……あれは、ほら、男子がエロ画像を見て盛ってんのと似たようなものよ」
「……姫雪かわいそう」
恋人同士、相手を失う可能性だってあるのに。
プルルルル
突然、アイ先輩のスマートフォンが鳴った。
「あら……もしもし、うん……空いてるわよ。今週の日曜、ね」
頷きながら何か話している。内容から察するに、多分クラスの人たちと遊びにいく約束でもしているんだろう。
「わかったわ、じゃあね」
プツッ。
「……友だちですか」
「フフッ、羨ましいの?」
「いえ……」
確かに友だちは少ないけど。中学校の同級生なんて、卒業してしまってから一切連絡なんてこない。
入学して最初にメアドを交換したのもアイ先輩だ。もうメールボックスを開いたらアイ先輩のメールしか残ってない。それ以外には姫雪や七村なんかがちらほら……。
それでも羨ましいとはあまり思わない。この感情は……そうだ、前にも、姫雪とアイ先輩が仲良くしていたとき、同じようなものを感じた。文化祭前で。それで人気のないところで抗議してたんだっけ。
「それとも嫉妬してるのかしら」
「そんなわけないですからっ。それじゃまるで先輩に気があるみたいじゃないですか」
「えー傷つくなぁ」
知らない、そんなの。
そう思ったときチャイムが鳴り、放送が流れてきた。
『下校時間です。口内に残っている生徒は速やかに下校しましょう……』
「先輩、帰りますよ」
「そうね」
不思議と声が出ない。先輩は大人しいようで以外と饒舌。話すのが好きだ。私は……聞き上手ってことでいいや。
「それでね……昨日そんなことがあって」
「そうですか」
別に嫌じゃない。この人と話すときは相槌を打っていればいい。寧ろ楽だ。
「……希?」
「な、なんですか」
「相槌だけで何も喋らないから心配よ」
「い、いいじゃないですか。私は話すことなんてないですから」
「そんなこと言って……私が卒業したらどうするつもりかしら?」
「今は姫雪や七村がいるから大丈夫ですよ」
なんだこの人、母親みたいだ。
「……あの二人がいつまでもあなたの友だちで、いられるかしら?」
「先輩は、信じられないんですか? それに自分は卒業しても大丈夫だと」
「私はあの二人の身になれないからわからないだけよ。私ならあなたから離れていくことは絶対にないから」
「……どう、して……」
つぶやいてから、本当に疑問が湧いてきた。
本当に、どうして?
アイ先輩が私なんかにかまってくれる理由なんて一切ないのに。私は友だちも少なければ愛想もすこぶる悪い生意気な下級生なのに、友だちが多い先輩がここまでしてくれる理由は?
気づいてしまった。私にとって先輩は唯一近しい存在だけど、先輩にとっての私はオンリーワンでもなんでもないのだ。ただの知り合い枠にしかなりえないはず。なのに、どうして?
「好き……だから」
そのとき先輩が見せたのはいつもと違う、慈しんだような、そんな表情だった。




