「泥水」と罵られて婚約破棄された私。その薬草茶は、隣国の皇太子にとって「伝説の霊薬」でした
王城の大広間は煌びやかなシャンデリアの光で満たされていたが、リゼットの心は奇妙なほどに静まり返っていた。壇上では婚約者であるマーク王太子が、可憐な男爵令嬢の肩を抱き寄せながら、こちらを見下ろしている。
「リゼット・バルニエ! 貴様との婚約を、この場をもって破棄する!」
マークの声が朗々と響き渡ると、周囲の貴族たちがさざめき立った。リゼットは扇で口元を隠し、表情を悟られないように努めながら、ゆっくりと首を傾げる。
「理由は、伺ってもよろしいでしょうか?」
「理由だと? 白々しい! 貴様が淹れる茶のことだ! あれは茶ではない、泥水だ!」
マークの怒号に、会場がさらにどよめいた。リゼットの淹れる茶が不味いというのは、王城内では公然の秘密となっていたからである。しかし、ここまで大勢の前で罵倒されるとは、さすがに予想外であった。
「私の体調を考えもせず、あのような不快なものを毎日飲ませ続けおって……。それに引き換え、アンナの淹れる茶は素晴らしい。香り高く、心まで癒やされる」
マークが傍らのアンナに微笑みかけると、彼女は頬を染めて恥じらう素振りを見せる。リゼットは扇の下で、ふっと息を漏らした。それは嘆きではなく、安堵のため息であったことに、気づく者などいない。
「泥水、ですか。殿下がそう仰るなら、そうなのでしょう」
リゼットは静かに礼をした。反論もせず、縋りつくこともない。その潔さに、マークが一瞬、虚を突かれたように見えた。
「……認めるのだな? ならば、今すぐこの城から出て行くがいい! 貴様のような無能な女、二度と顔も見たくない!」
「承知いたしました。今までお世話になりました」
リゼットは優雅にカーテシーを披露すると、踵を返して出口へと歩き出した。背後で嘲笑の声が聞こえるが、もはや雑音にしか聞こえない。
ああ、やっと終わった!
大広間の扉を潜り抜けた瞬間、リゼットは心の中でガッツポーズをした。
これで、毎朝四時に起きて王太子の体調を分析し、最適な薬草をブレンドして調合し、煎じ薬のような特製茶を作る日々から解放される。文句を言われながらも健康管理をしてきたが、もうその必要はない。
「泥水上等ですわ。これからは実家の薬草園で、好きなだけ研究に没頭させていただきます!」
夜風がリゼットの火照った頬を撫でていく。感じたのは自由の味だった。
*
王城から追放されてひと月。リゼットは実家であるバルニエ公爵領に戻り、念願のスローライフを満喫していた。
バルニエ領は王都から馬車で三日かかる僻地にあるが、豊かな森と水源に恵まれ、希少な薬草の宝庫として知られている。リゼットにとって、ここは天国であった。
「ふふふ、いい色ですね。これぞ至高の輝き」
太陽の光が降り注ぐ温室の中で、リゼットは試験管をかざしてうっとりと呟いた。中に入っているのは、どす黒い茶色の液体である。鼻を近づけると、土と草を煮詰めたような強烈な匂いが漂ってくるが、リゼットの嗅覚はすでに麻痺しているのか、あるいは独自の基準を持っているのか、気にする様子はない。
「これが完成すれば、どんな疲労も一瞬で回復するはず。名付けてエリクサー・ティィィィィ!」
意気揚々とカップに注ぎ、一口飲んでみる。舌に広がるのは、渋みと苦み、そして強烈なえぐみの三重奏であった。
「うん、効きそうな味!」
リゼットは満足げに頷いた。彼女は薬効成分の抽出に関しては天才的な才能を持っていたが、味に関しては絶望的なほど無頓着であり、良薬口に苦しという言葉を文字通り信奉していたのである。
そのとき、温室の外から騒がしい声が聞こえてきた。
「おい、しっかりしろ! 誰か、誰かいないか!」
リゼットが慌てて外に出ると、森の入口付近で数人の男たちが倒れている人物を囲んでいた。身なりからして、ただの旅人ではない。上質な絹の衣服、腰に帯びた剣の装飾。何より目を引くのは、中心でぐったりとしている青年の、常軌を逸した美貌だ。
「どうなさいましたの?」
「あんた、この屋敷の者か! 連れが急に倒れて……息が荒いんだ!」
護衛らしき男が必死の形相で叫ぶ。リゼットは青年のそばに駆け寄り、脈を診た。速い。かつ不規則だ。肌は触れた指が痛むほど冷たいのに、内部から焼けるような熱を感じる。これはただの病気ではない。
魔力酔いかな……それも、致死レベルの。
体内の魔力量が多すぎて、肉体の許容量を超えている状態だ。このままでは魔力が暴走し、彼自身の命を焼き尽くしてしまうだろう。
「すぐに温室へ運んでください! 処置をします!」
温室、という言葉に戸惑いながらもリゼットの指示に従い、男たちが青年を運び込む。簡易ベッドに寝かせると、リゼットは先ほど完成したばかりの『エリクサー・ティー』を手に取った。
「これを飲ませます」
「な、なんだその汚い水は! 毒じゃないだろうな!?」
護衛の一人が色めき立つが、リゼットは構わず青年の口元にカップを近づける。一刻を争うのだ、味や見た目を気にしている場合ではない。
「このままだと死にます! 飲ませますよ!」
少しずつ、どす黒い液体が青年の喉を流れていく。眉間に皺が寄って苦悶の表情が浮かぶが、構わずに続ける。リゼットは祈るように瞳で見守った。
数秒後。
青年の身体が内側から淡く発光したかと思うと、苦しげな呼吸がスッと落ち着きを取り戻した。顔色が劇的に良くなり、閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がる。
「……あ、あ……?」
現れた瞳は、深いアメジストの色をしていた。彼は不思議そうに自分の手を見つめ、それからリゼットの方へと視線を向ける。
「身体が……軽い。痛みが、ない」
「気がつかれましたか? 魔力が暴走しかけていたので、中和剤を飲ませたのです」
リゼットが説明すると、青年は信じられないものを見るような目で彼女を見つめ、それから空になったカップへ目を移した。そして、一筋の涙をその美しい瞳からこぼしたのである。
「美味い……な」
「はい?」
リゼットは耳を疑った。この泥水を飲んで「美味い」と言ったのだろうか?
「こんなに美味い茶は、初めてだ……身体の芯まで染み渡るような、清らかな味だ……」
青年は頼りない手つきでリゼットの手を取り、宝石のような瞳で見つめてくる。
「あなたは女神か? 私を長年の苦しみから救ってくれた」
「い、いえ、ただの薬草オタクですが……」
リゼットが困惑していると、護衛たちが歓声を上げて青年に抱きついた。
「殿下! ご無事でよかった!」
「殿下……?」
リゼットは首を傾げる。まさか、隣国コカ帝国の皇太子、アレクセイ・コカだろうか? 「氷の貴公子」と呼ばれ、冷徹無比と噂される彼が、こんなところで泥水を飲んで泣いているなんて。
アレクセイは護衛を制し、熱っぽい瞳でリゼットを見つめたまま言った。
「頼む。この茶を、毎日私のために淹れてくれないか? 金ならいくらでも出してやる。城一つでも、領地一つでも構わない」
「は、はあ……?」
こうして、リゼットの平穏なスローライフは、予想外の方向へと転がり始めたのである。
*
それからの一週間、バルニエ公爵邸の門前には、毎日アレクセイの姿があった。
彼は公務の合間を縫って、あるいはサボって、転移魔法を使って通ってきているらしい。
「リゼット、今日も君の茶は最高だ」
温室のティーテーブルで、アレクセイは至福の表情で泥水を啜っていた。リゼットはその向かいで、普通の紅茶を飲みながら眉を少し寄せた。
「本当に美味しい、んですか? それ」
「ああ。口に含んだ瞬間、春の雪解け水にも似た清涼感が広がる。喉を通れば、荒れ狂う魔力が鎮まり、穏やかな凪が訪れるんだ」
アレクセイの表現は詩的だった。けれど、彼が飲んでいるのは間違いなく、土と草の味がする煮汁である。しかし、彼にとっては魔力の暴走を抑えるこの薬効こそが「美味しさ」として知覚されているのかもしれない。
「君のおかげで、十年ぶりに熟睡できたよ。以前は全身が軋むような痛みに苛まれて、まともに眠ることさえできなかったから」
穏やかな微笑みを浮かべるアレクセイを見ていると、リゼットの胸が温かくなる。マークには「泥水」と罵られたものが、この人にとっては「救い」になっている。それが純粋に嬉しかった。
「お役に立てて光栄ですわ。材料なら裏の山にいくらでもありますから、好きなだけ飲んでいってください」
「……君は、欲がないな。コカ帝国の宮廷薬師にならないかと誘っても、断るし」
「私はここで草いじりをしているのが性分に合っていますので。それに、宮廷生活はもう懲りごりです」
リゼットが苦笑すると、アレクセイは少しだけ寂しそうな顔を見せた。しかしすぐに真剣な表情に戻り、真っ直ぐにリゼットを見つめる。
「ならば、通い妻ならぬ、通い夫になろう。君がここを動かないなら、私がここへ来ればいいだけの話だ」
「はい?」
「私は本気だぞ、リゼット。君という存在を手放すつもりはない」
その瞳の熱量で、リゼットの顔が赤くなる。薬草の話をしているはずなのに、なぜか口説かれているような気がしてならないのだ。
そのとき、屋敷の執事が血相を変えて温室に飛び込んできた。
「お嬢様! 大変でございます! マーク殿下が……王太子殿下が、こちらへ向かっておられます!」
「え?」
リゼットが間の抜けた声を出すと同時に、けたたましい馬蹄の音が聞こえはじめた。温室の入口に、土煙を上げて馬車が止まる。
中から転がり出てきたのは、やつれ果て、目の下にどす黒い隈を作ったマークだった。
「リゼット! どこだ、リゼット!」
マークは幽鬼のような形相で温室に入ってくると、リゼットを見つけて駆け寄ろうとした。しかし、足がもつれて派手に転倒する。
「うう……リゼット……茶を……茶をくれ……!」
「殿下? 一体どうなさいましたの?」
一週間前までは覇気に満ちていた王太子の、見る影もない姿。リゼットが驚いていると、マークは涙目で訴えた。
「お前がいなくなってから、身体が鉛が詰まったかと思うほど重いのだ! 頭痛はするし、眠れないし、何を食べても味がしない! アンナの茶など水と同じだ! お前のあの泥水……いや、特製茶でないとダメなんだ!」
どうやらマークの健康は、リゼットが密かにブレンドしていた薬草茶によって維持されていたらしい。それを知らずに「不味い」と切り捨てた結果、禁断症状のように体調が悪化したのだ。
「戻ってこい、リゼット! 婚約破棄は撤回してやる! 側室でもいいから置いてやる!」
あまりに勝手な言い草に、リゼットが呆れて物を言えないでいると、横からスッと手が伸びた。
アレクセイが立ち上がり、リゼットを背に庇うようにしてマークの前に立ちはだかる。
「……醜悪だな」
氷点下の声が響いた。マークがビクリと肩を強張らせて顔を上げる。
「なっ、誰だ貴様は……!」
「隣国の人間だ。名乗るほどの者ではないが……彼女の茶の価値を知る者、と言えば理解できるか?」
アレクセイは冷ややかな瞳でマークを見下ろすと、リゼットの手を取って引き寄せた。
「貴様には泥水に見えたか? だが私にとっては至高の秘薬、そして彼女は私の女神だ。一度捨てたものを、今さら欲しがるなど言語道断」
「な、なんだと!? リゼットは私の婚約者だぞ!」
「『だった』、だろう? 彼女はもう自由だ。そして、私は彼女に求婚するつもりだ」
「きゅっ、求婚!?」
リゼットが驚いてアレクセイを見上げると、彼は悪戯っぽくウィンクしてみせた。
「君の淹れる茶がないと生きていけない身体にされた責任、取ってもらおうか?」
「そそそ、そんな責任知りませんわ!」
「ならば、私が責任を取ろう。一生かけて、君と君の研究を守り抜く。……どうだろうか?」
その言葉は、冗談めかしてはいたが、リゼットの心の深い部分に届いた。
自分の淹れる茶を、自分の研究を、自分という存在を、こんなにも必要としてくれる人がいる。
それは、リゼットがずっと求めていた承認であり、愛の形だったのかもしれない。
「……泥水ですよ? 本当にいいんですか?」
「君が淹れてくれるなら、泥水でも喜んで飲み干そう」
リゼットは小さく「ぷっ」っと噴き出し、それから満面の笑みを浮かべた。
「では、覚悟しておいてくださいね。もっと研究して、さらに強烈な味の新作をお見舞いしますから」
二人が見つめ合って笑い合う中、マークは完全に置き去りにされていた。
*
その後、マークは体調不良を理由に廃嫡され、辺境へ送られることになった。
一方リゼットは、後にコカ帝国の皇太子妃となり、その傍らで宮廷筆頭薬師としても名を馳せることになる。
もっとも、後に『皇太子も涙する伝説の霊薬』と呼ばれることになるその茶の正体が、飲めば二度と離れられなくなる「魔性の蜜」であり、摂取した者の肉体を作り変えてしまう劇薬であることに、リゼット本人は気づいていない。
「おや、アレクセイ様。少し手が震えていらっしゃいますよ?」
後日、リゼットが不思議そうに指摘すると、アレクセイは焦燥した様子で手を伸ばした。
「ああ……早く、君の茶をくれ。あれがないと、全身が乾いて仕方ないんだ……」
恍惚とした表情で泥水を啜るコカ帝国の皇太子を見つめながら、リゼットは無邪気に微笑んだ。
(了)
読んでいただいてありがとうございました。
危ない薬草茶は飲んじゃダメですよ!!
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