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「では、行ってきます」


 オルディオンの玄関ホールに、ハルミアが立つ。使用人たちは皆彼女を見送り、頭を下げた。しかし、ベスとアンリだけは不安げにハルミアを見つめている。


「どうしたの?」

「いえ……、お墓参りのあと、すぐに戻られますか?」

「ええ。そのつもりです」

「本当っすか?」


 ベスの疑いの眼差しに、ハルミアは苦笑した。大丈夫と頷いて、彼女は屋敷を後にする。


 シンディーとの約束の下、シリウスを見送り二週間が経過した。今は雨期の真っただ中で、朝から大雨がオルディオン中に降り注ぐ。辺りは草露と土の混ざった匂いが立ち上り霧が漂い、遠くからは雷鳴が響いていた。


 墨色の傘を差したハルミアは、滑らないよう足元に注意を向けながら歩みを進める。しかし、水溜りに映った自分の顔を見て、そっと足を止めた。


 シリウスがいなくなったことについて、使用人はハルミアに問いただすことをしなかった。彼がいなくなった翌朝すぐ、王家からシリウスの引き渡しに対する礼状が届いたのだ。それを見て、使用人たちは皆、なんとなく何があったかを察した。始めこそシリウスがハルミアを捨てたのだと責める者もいたが、ハルミアが黙って首を横に振り、皆大方、言葉に出さずともすべてを察した。


 雨季だからと昨日往診に訪れたハルバートも同じで、シリウスが王命により戻ったことを伝えただけで「そうですか」と、それ以上何も聞くことはしなかった。


 このまま、シリウスのいなかった頃に戻っていく。ゆっくりとでいいから戻していけばいい。シリウスも、愛している人と暮らすほうが幸せに決まっているし、もしかしたら、シリウスが一番になるかもしれない。あれだけの執着をシンディー王女は彼に見せていたのだから。


 ハルミアは目を閉じて、また墓場へ向かって歩く。降りしきる大雨の音がやけにうるさく感じて、雨の雫が触れた肌は、やけに冷たく感じた。


◇◇◇


「おばさま」


 シャベルを引きずりながら歩く墓守の老婆、ヴィータに後ろから声をかけると、ハルミアに呼ばれた彼女は気怠げに顔を上げた。


「ああ、あんたかい。明日は命日だってのに、こんな雨の日に外出て熱でも出したらどうするんだよ。またハルバートに嫌味を言われるよ」


 うんざりとした顔でヴィータはハルミアに目をやる。


「なんだい。雨を利用して死のうったってそうはいかないよ。馬鹿竜がいるといえどあいつは墓穴堀りの腕が鈍っちまってる。しばらく使いもんならないんだから、墓増やされちゃ困るんだよ」

「そんなことしませんよ」

「ふん。今にも消え入りそうだったじゃないか。素直に行かないでと言えばいいものを。馬鹿な国のお姫さんの言うこと聞いて、リゼッタがいたら引っぱたかれてるところだね」

「御姉様はそんなことしません」


 リゼッタは、暴力を嫌っていた。魔物以外に対して攻撃魔法を使用するのは野蛮だ、言葉で表現できない愚か者だと心底馬鹿にしていた。ハルミアが首を横に振ると、ヴィータは「いや、絶対するね」と返す。


「リゼッタがお前に散々言ってただろう。欲しいものは欲しいと言え。大切にしろって。」

「……」

「それを自分が死んで四年後には好きな男を譲るなんて、私なら墓掘り返して戻ってきてるところだよ」


 もし、リゼッタがいたならば。この選択を変えることがあったのだろうか。ハルミアが目を閉じて考えても、何も浮かばない。それどころかシリウスの別れ際の顔が浮かんで、頭にこびりついて離れない。


「本当にいいのかい? あの馬鹿竜に頼めば、王都まで飛ばしてくれるはずだよ」


 ヴィータの言葉に、ハルミアが目を見開く。しかしすぐに首を横に振った。


「いいのです。元々シリウス様は公爵家。私は拾われた身です。住む世界が異なっておりました……。それに、彼は神子ですが、私は満足に魔法が使えない。どんな、どんなに、危険な状況でも、魔法が使えない。彼の身に危険が迫ったとき、私は助けることができないのです」


 ハルミアは、落としていた視線をヴィータに向け、気遣いに対する礼を伝える。そして墓場の奥へと足を踏み入れていったのだった。


◇◇◇


「ただいま戻りました」


 墓場からオルディオンの屋敷に戻ってきたハルミアは、玄関ホールで傘の水気を払った。べスはちょうど不在なのか、ホールには使用人、そしてそれらを束ねるアンリがいて、ノイルはただ暇を持て余した様子で壁に背を向けていた。


「おかえり我が妹よ。リゼッタの墓はどうだったか? 何か変わっていたか?」


 ノイルも、ハルミアとは時間を変え墓参りをしている。よってどんな状況であるかをよく知っているはずだ。


 しかしハルミアは「特に何もありませんわ」と丁寧に答える。そのまま部屋へと向かおうとする彼女を、アンリが呼び止めた。


「後でお茶をお持ちいたしますか?」

「はい。お願いしたいです」


 ハルミアが頷く。アンリは優しく微笑んで、調理場へ向かったのだった。



「失礼いたします。アンリです」


 ハルミアがリゼッタの部屋で休んでいると、ほどなくしてアンリが現れた。自分の分のティーカップも運び、あらかじめハルミアが用意していた椅子に座った。


「では」


 アンリが侍女用のヘッドドレスを取り去る。ハルミア、アンリ、リゼッタの三人でお茶をすることが、ずっと彼女たちの習慣だった。


 日取りこそ決めていないものの、なんとなく三人のうち誰かが酷く疲れた時に開かれるお茶会は、主従の垣根を超え、ただ年頃の女三人が集い話す、自由で気ままなものであった。


 だが、三人の秘密の茶会リゼッタの死により、永遠に開催されなくなり、今では雨季の時期、弔いとしてハルミア、アンリだけの茶会が開かれている。


「ハルミア様、シリウス様のことはもうよいのですか」

「ええ」


 ぼんやりとしているハルミアに、アンリが紅茶を淹れる。ハルミアは、その茶を隣の空席に移した。そして二番目に出されたお茶を、今度は自分のところに置く。


 大抵お茶会がしたいと言い出すのはリゼッタだから一番に、ハルミアはぬるめの紅茶が好きだから二番に、そして紅茶を淹れるのはアンリだから、アンリは特別熱いお茶を、そうして決まった順番は、リゼッタが亡くなっても変わらない。ただ変わったことは、一番手の紅茶はただただ温度を失うばかりで、一向に減らないことだけだ。


「今日、ヴィータおばさまに言われました。御姉様が生きていたら、私をひっぱたいているって」

「リゼッタ様はハルミア様の幸せを願っておりましたから、きっとそうするでしょうね」

「でも、思ったの。お姉様が生きていたら、シリウス様はもっと心安らかで、王女様と婚約するよりずっと幸せな結婚ができるんじゃないかって……」

「それはどうでしょうね」


 ハルミアは、シリウスと接するとき、姉ならどうするかと考えたことがあった。だがリゼッタは奔放で、とにかく想像の出来ないことをしてみせ、人の前を歩いていた。だから彼女がどうするか何を言うかは実際のところ全く分からず、ハルミアは手探りで、自分なりにシリウスに接していた。


 しかし、姉リゼッタのように出来れば、シリウスを元気づけることが出来るはずなのにと、頭の中は後悔でいっぱいだった。しかし、ハルミアの確信を崩すようにアンリが首を横に振る。


「私は、リゼッタ様の幼少の頃を知っています。彼女は分け隔てなく言葉を話す素直なお方ですが、もし二人が会いまみえたとしても、リゼッタ様ははっきりと元旦那様の短所を指摘します。一方で売り言葉に買い言葉と、元旦那様は逆上するでしょう、刃傷沙汰になっていたかもしれませんね」


 しれっとした顔つきでアンリは言う。そしてくすっと笑った後、窓を眺めた。


「案外、旦那様は王女を殺して戻ってくるかもしれませんよ。そうしたら、どうします?」

「そんなことありませんよ」

「もしも、ですよ。人を殺してまで自分を選んだ人間を、ハルミア様は愛してくださいますか?」


 アンリの真剣なまなざしに、ハルミアは考え込む。紅茶の波紋を見つめ、やがてアンリと目を合わせた。


「応えなくてはいけないと、思います。私がその方の人生を壊してしまった、その方を殺してしまったことと同じですから」

「では……」

「でも、もう私は誰かを殺したくない」


 ハルミアは、視線を落とす。かつて、大切にしたい、恩返しがしたい、ずっと一緒にいられたら嬉しい。捨てられても構わない。奪われることが常で、得ることを諦めていたハルミアがそれほどまでに想った相手は、事故で死んだ。あの時魔法が使えていたら、三人は死なずにすんでいた。医者が来るまでの延命だって出来ていたかもしれない。癒しの力が使えずとも、何か方法があった。


 その降り注ぐ雨のような追想は、四年経った今もなお、やむ気配がない。


「そうですか。残念ですね」


 アンリが、ティーカップを横切って、ハルミアの手に触れる。


「とても、残念です」


 アンリの声が、ハルミアには遠いもののように感じられた。不思議に思って顔を上げると、彼女の顔が霞んで見える。


「アンリ……」

「ありがとうございました。ハルミア様」


 アンリ、呼びかけようとしても、ハルミアの口はただ空気を含んで動くばかりで、声にならない。やがてふっとハルミアは意識を手放すと、糸が切れた操り人形のようにテーブルに伏したのだった。


◇◇◇


 大国ディミドリーフの王宮は、国旗にも使用されている大きな孔雀を模した塑像やステンドグラスがあちこちに使われている。光が差し込むことで床を極彩色に染め上げるその芸術は、国家遺産として職人の保護もされるほどだ。


 一方、壁を彩るのは、羽一本一本手を抜くことなく仕上げられたガラス工芸で、魔法で火力を調節し生み出されるその繊細な技法は、優れた火力調整を行い、また緻密な彫刻を魔法で行える技術者を本来必要とされる軍事だけでなく、芸術分野にも惜しみなく動員できることから国力を国内外に知らしめるに最適で、ディミドリーフの王宮、そしてその部屋の各所には、必ずそれが置かれていた。


「私をここから出さなければ、貴女を殺します」


 しかし、ディミドリーフの王宮の部屋の中でも一際繊細で美しいといわれる硝子孔雀は、床に打ち付けられバラバラに散らばっていた。そして、孔雀を残酷な姿に変えてしまったシリウスは、美しい片翼を拾い上げ、徐に目の前に立つ王女シンディーに破片を向ける。その大きさは剣にも似ていて、刺されば最後、助かる見込みはない。


 一方シンディーは、凶器を向けられているにもかかわらず余裕の笑みを崩さない。「馬鹿ねえ」と一瞬にして硝子を砂に変えてしまう。


「王宮の中は、王家に忠誠を誓った者以外その魔力を行使することが制限される。だからこんなことしたのでしょうけど、そもそも私が不要と判断したものは塵と化すように出来てるの」

「……くっ」

「でもまぁ、魔法が扱えないと思ったら、すぐ別の手段を試そうとするところは好きよ」


 ハルミアの元から離れたシリウスは、王宮の一室に閉じ込められていた。シンディーの予定であれば彼女の部屋で飼われるはずだったのだが、シリウスが到着早々シンディーを殺しにかかった為に、別室で折檻の処理を施したのだ。


「私と貴方は実力に大きな差がある。いくら少ない魔力で高位の魔法が扱えたとしても王宮では生活用の下位魔法しか使えないし、私は聖女よ。例え刺されたって自分を癒して終わりだわ」


 以降シンディーは護衛を伴うことなく、シリウスのもとを訪れる。護衛を伴う必要すらないと部屋の外に待機させており、あれこれと手段を使って殺しにかかる犬以下の存在を観察していた。


「でも、誓約が本当に邪魔ねえ。お仕置きがしたいのに、出来ないだなんて……」


 はぁ、とシンディーは溜息を吐く。本当は風魔法で肌の辺りを薄く切ってやりたいのに、ハルミアに対して行った誓約によりシリウスに攻撃魔法を向けることも、護衛を使って痛めつけることも、何もかもが封じられていた。


 恩人を亡くし明日を見られない無気力な娘。元々平民上がりで生きる気力しかなく、学びもなかったのだから、脅威になることはないと自由にさせた結果、その誓約のせいでシンディーは悉く自由を奪われていた。


「誓約……?」

「そうよ。あなたを引き渡す時に、ハルミアが貴方を傷つけないならとの条件のもと引き渡しを宣言してしまったから、私はわざわざガイが貴方に毒を盛ろうとするのを防いだりしているのよ。貴方が毒で苦しんでも、癒しの力があるっていうのに、馬鹿らしい」


 剣士ガイは、シリウスを迎え入れることに言葉に出さないまでも反対の意を示していた。挙句シリウスが戻ってくると、毒を盛ったり刺客を送るなど、暗殺を企てている。


「ガイも困ったものねえ……」


 シンディーは、ガイが自分を求め愚かな行動を、自分の想像通りの行動を起こすことに愉悦を抱いている。なんて愚かだと笑い、愉しむために王や王妃に知られないよう、王家に知られぬよう動いてはいた。しかし、誓約の為に手伝いだけはできなかった。


「私、貴方の苦しんでいる顔、結構好きなのだけれど」

「私は貴女の死に顔が見たいですよ。早急に。そして早く、ハルミア様の笑顔が見たいです」

「捨てられたのに?」


 シンディーが聞き返すと、シリウスはより一層彼女を睨む瞳を強くした。


「本当に貴方のことが好きだったら、ハルミアは私に泣いて縋り付いていたんじゃないかしら。貴方が彼女に縋り付いていた時みたいに」


 くす、くすと少女のようにシンディーが笑い、散歩をするように部屋の中を歩く。


「結局ハルミアは貴方を、誰かを殺したいほど思ってはいないのだわ。一方通行ね、可哀想。可哀想だわ! とっても」


 シリウスが硝子の破片を掴んだ。しかしそれは塵と化す。


「ハルミアはきっと、誰も本気で愛さない! そしていつか義務のように他の男の子を産んで、育てるのよ。でも安心して頂戴。私が貴方を愛してあげる。ハルミアが貴方のことを忘れてしまっても!」


 シリウスは、ハルミアの顔を思い浮かべた。刺繍のハンカチを嬉しそうに受け取った顔。不安げに自分を見つめる顔。自分に別れを告げる顔。様々な顔を、瞳を閉じて頭の中で思い描く。


(ハルミアは、僕のことが好きなはずだ。僕を愛していた)


 しかし、シンディー王女が邪魔をした。王女の手前ハルミアは断れず、別れを告げた。領民を殺すと脅されたかもしれない。だから自分を捨てたわけではないとシリウスは心を落ち着けようとして、あることに気が付いた。


(僕は、王女を殺してでもハルミア様に会いたいと思った。でも、彼女は違うじゃないか)


 シリウスは、今なお懸命に王女を殺そうと動いている。しかしハルミアは墓場へ行き、そして帰ってきて自分に別れを告げた。僅かな間に別れる決断ができたということは、ハルミアにとってそれまでの存在だったんじゃないか。自分は、こんなにも愛しているのに。彼女に生かされて、今、ここにいるというのに。


 ハルミアの顔を思い描くたび、心臓が強く脈打って、シリウスの身体の中に熱いものが体中を駆け巡る。


 やがて塵となったガラス片は、歪に集まり、シリウスの手のひらの中で鋭い剣へと姿を変えた。


「なるほど、怒りや悲しみ、幸せか何かかと思いましたが、僕の条件はこれだったんですね……」


 突然シリウスが魔力を行使し、それどころか膨大な力を発したことでシンディーは目を見開く。一方のシリウスは不敵に笑った。


「なるほど、どうりで今まで、条件を満たせなかったわけです」


 ゆらり、揺らめくようにシリウスがシンディーに一歩近づく。光の一切入っていない瞳にシンディーが怯え後ずさりをしたとき――王宮全体が大きく揺れた。


 立っていたシンディーが倒れかけ、壁に手をついた。その瞬間、シリウスとシンディーの間に黒い靄が現れる。


「なっなによこれ!」


 シンディーの叫びが部屋に木霊する。禍々しく、光すら通さないそこからやがて真っ白なローブを着た人物が現れた。フードを深く被っていてシンディーからはその姿が見えないが、地に膝をついていたことで下からその顔を覗い知ったシリウスは、唖然とする。


「お初にお目にかかります、シンディー王女。突然の訪問、多大なるご無礼のことと承知しております」


 ローブの人物は、徐にその顔を露わにした。そして、シンディーに手をかざす。詠唱なく発された魔法はシンディーの腕と足を壁に磔にした。


「なっどうして……、貴方、いったい……」

「貴女たち王家が疎み、虫けらのように殺した者を、神としていた者ですよ」


 ローブの者――アンリがシンディーに告げた後、ゆっくりとシリウスへ振りかえる。


「終わりにしましょう。全て、ハルミア様と共に」


 そうして、侍女であったはずのアンリは、闇を纏って笑ったのだった。

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