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「ここは……」
シリウスがここだと言って馬車を降りた場所は、王都を少し出たところにある森であった。宿に残しているアンリとベスを心配したハルミアを察してか、「すぐ戻れるので大丈夫ですよ」と微笑む。
「ここは、私が王都にいた頃、魔法の研究をしていた場所です。街の中で生活に不要な術を扱うことは禁止されていますからね」
王都では、生活の補助や仕事の補助として扱う魔法以外……主に人を傷つけることや、必要のない加速の術を扱うことは禁じられている。
練習は訓練場や魔法学園の敷地内に限定され、そこ以外での魔法の行使は罰則もあるほどだ。しかし一歩でも王都を出れば規定はなく、学園や訓練場が休みの時、熱心な者は王都を出るのだ。
そしてここで、シリウスは学生時代から訓練を行っていた。人目を好まず神経質な彼は、周りに人のいる環境を好まない。よって、王都を出てさらに森に入り、その先を抜けた草原を秘密の場所として扱っていた。
「そうなんですね……」
ハルミアが辺りを見渡す。ちょうど小高い丘のようになっているこの場所は、王都の街並みを見下ろすことができる。すっかり周りは暗く、宙には星々が瞬いていて、日中青々としているであろう木々は黒く縁どられていた。
「なんだか、落ち着きます」
王都の中は店から放たれる無機質な白い光源にあふれていて、元は王都にいたといえど影が暗く落ちているオルディオンの暮らしに染まったハルミアにとっては、あまりいい環境ではない。火照った頬を優しくなでる涼風を感じていると、シリウスがハルミアの手を取った。
「では、命じてください。私に、綺麗な景色を見せて、と」
「えっ」
「捧生の印の研究です。黒竜が現れた時はかなり詳細に命じて頂けましたが、少しあやふやな表現にすれば一度に扱える魔法も増えるのではないかと思いまして」
「わ、わかりました。えっと、ハルミア・オルディオンが、シリウス・オルディオンに命じます。私に綺麗な景色を見せてください」
ハルミアが命じると、すぐに彼女の身に着けている捧生の腕輪が強い光を発し、宙へと打ちあがると、シリウスの胸の印へと降り注いでいく。
「では、お望みどおりにっ」
シリウスが指を鳴らし、詠唱を声高らかに発した。その瞬間二人の足元に魔法陣が浮かび、二人は空めがけて舞い上がる。
「えっえっこ、これはっ、シ、シリウス様?」
「やはり、限定的に命じさえしなければ、いくらでも応用が効くということですね」
自分の予想通りの結果に、シリウスは笑う。ハルミアは自分の体が浮き、足元からは王都の街並みが窺えることで驚き、彼の手をただぎゅっと掴むばかりだ。
「二人の身体に魔法をかけているので、私を離しても大丈夫ですよ」
「えっあっ申しわけご……」
「別に、掴んでいて貰ったほうが都合がいいですからね。でも、あまり驚くばかりの反応をされても可哀想になってしまいますから、少し趣向を変えてみましょうか」
シリウスがもう片方の手をふわりと払いながら、呪文を唱える。それと同時に、二人の周りに魚が泳ぎ始めた。極彩色の色をして群れを成していたり、花火のように弾けてくるくると円を描いて縦横無尽に泳ぐ小魚、二人に笑いかけ回遊を続けるカメなど、様々な海の生き物を観察できるオルディオンに住んでいても、見たことのない生き物たちでいっぱいだ。自分たちを巡る景色にハルミアは感動し、嬉しそうに笑う。
「素敵……」
「少し、歩いてみましょう?」
シリウスに導かれて、ハルミアはゆっくりと足を動かす。彼女がその足を下ろすたびに、光の波紋が浮かび上がり、鈴の音と共に光が瞬く。
「貴女は花もお好きでしたね」
そう言ってシリウスがまた詠唱を行うと、今度は真っ白な花々が二人に降り注いだ。花は二人にあたると、雪のように溶ける。いつの間にか空には小さな花火がいくつも打ちあがり、星々もずっと近くにあって、いくつもの星が流れていた。
「夢、みたいです」
「こういった研究はあまりしてこなかったのですが、案外簡単にできましたよ。といっても一週間程度で仕上げなければいけなかったので、大変ではあったのですが」
「もしかして、アンリの訓練を受けている間に……?」
「ええ。元々何かしたいとは思っていたのですが、あまり試行錯誤している姿を見せるのも滑稽でしょう? 丁度貴女の侍女の立てた計画は、貴女と別行動を取る機会が多いものでしたから」
ふっとシリウスは優しく微笑んだ。いつもと違う余裕は感じられず、ありのままの彼の笑顔に感じられてハルミアの胸がきゅっと切なくなる。
「でも、まさか貴女も私に隠し事をしているとは思いませんでしたけど」
シリウスが自分の胸元のタッセルに触れる。
「王都には、行きませんよ。いくら王女の願いといえど、私は私の楽しみを見つけましたから。他ならぬ、オルディオンで」
その言葉に、ハルミアは目を見開いた。彼女の心に、シンディーの誘いを聞いてからぐるぐると巣食っていた蟠りが、優しくほぐれていく。
「明らかに、暗い顔をしていたでしょう。そんなに私を手放すのがお嫌ですか?」
「そ、そんなつもりは。ただ、シリウス様があまりにもすぐ断っていらっしゃるのを見て、どういうお心なのだろうと、気になっていただけで……」
「ふふ。そうですか」
シリウスはこの上なく嬉しそうに指を鳴らす。ぽんぽんと降り注ぐ花々が光とともに弾けはじめ、大輪の花を作り出す。
「私をオルディオンに置いておけば、こういう景色が毎日見られますよ。良かったですね。私がオルディオンにいることを選んで」
「いや、わ、私はそんなつもりじゃ……」
「でも、素敵と言ったじゃないですか。こんなに目を輝かせて……」
シリウスはもっと、もっとと詠唱を繰り返す。ハルミアは自分を喜ばせようとする彼の気持ちがうれしくて、そっと彼の手を握った。
「シリウス様」
「なんです? 私の存在がいかに有益であるかを認める気に――」
「ありがとうございますシリウス様」
ハルミアが、じっとシリウスの目を見つめた。その瞳は極彩色の光を受けてか、潤んで見える。嬉しそうで、でも切なげで、シリウスは囚われたように少し止まった後、甘く微笑み返したのだった。
◇◇◇
「なーんか中途半端な天気っすねえ……」
パーティーから、三日が経った頃。オルディオンの天気はいつになくぐずついていた。日陰の土地、光刺さぬ土地オルディオンと呼ばれる所以は、晴れ渡っていても、背が高く黒々とした木々が多く、せっかくの日差しも木の葉たちに遮られてしまうことの他に、曇り空が多いからである。
しかし、オルディオンの雲はあまり雨を降らさない。春が終わり夏へ向かっていく時期に、雨季と呼ばれる雨が続く数週間があり、逆を言えば、曇りはすれど雨が降ることは王都より少なめであったりするのだ。
にもかかわらず最近……といってもここ七日は、曇り空であっても一瞬だけ雨が降ったり、かと思えば止んだりとはっきりしない不安定な天気が続いていた。
「そうですね……」
先程から仕事をすることもなく窓の外を眺めるベスの隣に、ハルミアがそっと立つ。彼女は、雨があまり好きではない。両親と姉が亡くなった日に雨が降っていて、雨で濡れた道路で馬車が横転したことにより、三人とも儚くなってしまったからだ。
「何をしてるんですか?」
並んで窓の外を眺める二人の間に、ずいっとシリウスが割って入った。押しのけられた形になったべスは「痛った! なんすか?」と驚愕の表情を浮かべる。
「なんですか、とは?」
「いや明らかに今俺のこと押しのけたっすよね? 絶対故意っすよね? もう何度目っすかこれ!」
「何のことやら」
シリウスは、「で、何をしていたんですか?」とハルミアに問いかける。明らかに強引にベスを避けたハルミアは戸惑いながらも無言の圧力により「天気が不安定だなと、窓の外を見ていて……」と説明した。
「まぁ、もうすぐ雨季の頃合いですからねえ……」
「いやちょっと雨季の頃合いとかじゃないっすよ。なんか最近二人近くないっすか? なんかあったんすか?」
じいっとベスが二人を見つめる。最近、シリウスは奇行が目立つようになった。それはハルミアと誰かが並んでいると、必ず寄ってきてその間に滑り込むというもの。相手が男の場合は無言で、アンリなど女性の場合は「ちょっと失礼しますね」の言葉がつくものの、全般的に褒められた行為ではない。主な被害者であるべスは、ある意味その身を以てしてシリウスの変化を感じ取っていた。
「旦那様本当節々の変化がものすごい餓鬼っぽくないっすか? この間はかっこつけて髪の毛ぐちゃぐちゃにしてみたり、今は何かまた訳分かんないこと始めたりちゃんと子供やってこなかったっすか?」
「ハルミア様、執事が煩いので口封じの命を」
「いやそれはちょっと……」
ハルミアが首を横に振る。そして彼らから視線を反らして、「あっ」と声を上げた。
「どうしました?」
「どうしたっすか?」
「そろそろ、ヴィータさんのところへ行ってきますね」
ハルミアはそそくさとその場を後にする。シリウスは口を開こうとして、ぐっと拳を握りしめ、口を噤む。
「いいんすか?」
「何がです」
「お墓参り、ついていかなくて」
ベスの言葉に、シリウスは答えない。シリウスがハルミアと共に墓へと訪れたのは、ヴィータにケープを贈ったあの日だけだ。以降、彼女に誘われることもなく、シリウスはただただ待つばかりだ。
シリウスはハルミアと接する中で、彼女がとても繊細で、そして流されやすい性格であると知った。にもかかわらず、彼女はどんな場所でも黒い服を身に纏う。
その覚悟を知っているのに、やすやすと墓参りに同行したいとは、シリウスはとても言えなかった。
だから、シリウスはハルミアから誘われるのを待っている。祈るように窓の外を見つめると、空は暗く、今にも雨が降り出しそうであった。




