18
王都から招待状が届き、七日が経った頃。とうとうこの国の末姫シンディーと、剣士ガイの婚約パーティーの日が訪れた。
ハルミアとシリウスは、アンリとベスを連れ、ノイルに屋敷を守ってもらう形で王都にやってきている。
移動には丸一日かかる為、前日に王都入りし、宿に泊まった。持参した服への身支度を手伝ってもらう為、ハルミアはアンリと、シリウスはベスとそれぞれ二手に分かれている。
「ハルミア様、とてもお綺麗です」
「そ、そうですか……」
鏡を前にアンリがうっとりと微笑む。アンリはまず初めに、ハルミアの髪を丁寧に手入れをすることから始めた。ハルミアは、あまり着飾ることに興味がない。
黒い服を身に纏っていることが良くないことを自分でも理解している彼女は、その一点以外は後ろ指を差されることがないよう、清潔さには気を使っている。
しかし、一定以上、自らをより美しくすることは避ける節すら見せ、リゼッタを失ってからはその傾向がより強くなった。
だからアンリは、シリウスの為だと方便を言い、初夜の時と同じく彼女の髪をいたわり、毎夜湯あみの時にはしっかりと蜜と柑橘、香草をこした特性の香油を塗り込んではすすぎ、肌はきちんとハルミアにあったものを滑らせ、徹底的にハルミアを美しく磨き上げた。
そして最終仕上げとして、自分でするというハルミアを説き伏せアンリが化粧を施していた。まつげはくるりと上を向き、瞼には光が散っている。唇は薄紅が引かれ、さらに艶めくよう香油を塗り込めたことで濡れた唇に仕上がっていた。
「きっと、リゼッタ様もお喜びになっているに違いありません」
アンリがハルミアの髪を撫でる。普段ハルミアは髪をまっすぐ垂らしているかだ。しかし今日は毛先をゆるく巻いて、耳の横からまとめ上げ、蝶を模した深紅の髪飾りをつけている。
ドレスはハルミアの意思通り黒一色ではあるが、繊細なレースが重なり、所々に深海色の宝石が瞬いている。人魚のシルエットと見間違いそうなそれは、裾が歩くたびにふわふわと揺れ、水中を縦横無尽に泳ぐ魚の尾ひれを意識したデザインだ。
「こういうのは、お姉様のほうが似合うのではないかしら……」
「そんなことありません。とても素敵ですよ。そろそろお時間ですから行きましょうね」
うっとりとした顔でアンリは微笑む。
ハルミアは落ち着かない気持ちで部屋を出て、下に停めていた馬車へと向かう。もう既にシリウスは待っており、ハルミアと同じ黒であるものの、やや柔らかな灰を帯びた色の上掛けを着て佇んでいた。普段ただ流しているだけの髪は、左右に分けながら前髪を上げている。束ねられた白銀の髪は落ち着いた色味の装いによく映え、深海色の宝石をあしらった装飾が夕日を受け輝いていた。
「きれい……」
ぽつりと零したハルミアの言葉に、シリウスが振り返る。シリウスも着飾ったハルミアを見て感嘆の息を漏らした後、はっとして手を差し伸べた。
「行きましょう。ハルミア様」
「はっはい」
恐る恐るハルミアが手を取る。シリウスは一瞬だけ顔を歪めたもののすぐに笑みを浮かべ、馬車の中へエスコートした。
「では、私たちはこれで」
「楽しんできてくださいっす!」
ベスが窓越しに手を振る。アンリはそんなベスをみっともないと窘めながらも、ハルミアたちに笑みを浮かべた。ハルミアが応えるように手を振るうちに、馬車はゆっくりと走り出していく。
「本当に、招待状が届いてから今日に至るまで、あっという間でしたね」
「そうですね……」
アンリの手入れによりハルミアの湯あみの時間が増える一方で、シリウスはアンリの組んだ予定に倣い、ベスとノイルから筋力をつける訓練を受けていた。筋肉は、そう短期間でつくものではない。知識として知っているシリウスは渋ったが、魔力により負荷を上げ行う騎士団式の訓練に晒され、よく言えば儚げ、悪く言えばただただ細く骨のようだったシリウスは、平均からはやや痩せ気味程度にまで筋力をつけることに成功した。
「あの、シリウス様。私、変じゃないですか……?」
「そんなことありませんよ?」
シリウスが上機嫌に首を横に振る。筋力をつけ髪も整えたシリウスだったが、本当に今が正しい状態なのかと半信半疑の気持ちもあった。なぜなら訓練をしている間も当然シリウスはハルミアと同じ部屋に寝ていて、彼の変化に気付きはすれど、顔をぱっとそむけるばかりで、前のように頬を赤らめたり取り乱すそぶりは見せなかったからだ。
しかし、先程自分の顔を見たときは、きれい。と言った。それだけでシリウスは、もう帰っていいくらいの気持ちだった。
「そうだ、シリウス様、これ……もしよければ」
ハルミアが懐からブローチを取り出した。金細工にタッセルがつけられ、シリウスの瞳の色と同じ濃い青色の宝石がはめ込まれている。華奢なチェーンには雫型の鉱石があしらわれていて、よく見るとひと針ひと針丁寧に縫った刺繍だった。
「これは……」
「何か、シリウス様に出来ないかと思いまして……。私に役立つことがあるならと言ったにもかかわらず、実際シリウス様のお役に立てたのはアンリですから。せめてと」
「ありがとう……ございます」
シリウスはハルミアからブローチを受け取り、自分の胸元に身に着けた。不思議と温かい感じがして、壊れないようそっとブローチをなぞる。
「いえ。それに、以前ハンカチをいただいたお礼です。今日も実は持ってて」
ハルミアがハンカチを出して、大切そうにきゅっと握り微笑む。シリウスはふいに自分の心臓が強く跳ねたことで、慌てて咳払いをした。
「シリウス様?」
「何でもないですよ。ほら、もう会場に着きそうです」
やがて、馬車はシリウスの思いに反し王宮の前に止まった。
「ハルミア様、シリウス様、お待たせ致しました」
御者が馬車の扉を開く。まずシリウスが降り、エスコートされたハルミアがゆっくり降り立つと、周囲で招待状を持ち王宮に入ろうとしていた貴族たちはほぉっと息を漏らし足を止めた。
「あれは、オルディオンの……」
「そうよ。確か死神令嬢と呼ばれている……」
周囲の声を聞いて、ハルミアは一歩後ずさった。普段言われることに慣れているが、シリウスも悪く言われるのではないかと身構えた。するとハルミアの手がそっと引かれた。
「あっ……」
「置いていかないでくださいハルミア様」
シリウスが優美な笑みを浮かべる。王都にいた頃は顔立ちは整っているものの、どちらかというと病弱で神経質そうな印象が先行し、近寄りがたさが勝っていた。しかし今のシリウスは眼差しこそ怜悧ながら色香を纏い、貧弱な印象は薄れ、御伽噺に出てくる氷の王子様と称されかねないほどに美しい。そして何より卑屈そうにも見えた顔立ちは堂々としている。
人々はハルミアとシリウス、どちらも印象が変わり美しく生まれ変わった二人を見て、ただただ言葉を失った。ハルミアはシリウスにエスコートされ、会場の中に入った。
◇◇◇
「こちらですよ」
王宮のダンスホールは、各地の公爵から子爵までを招待したことで、人でひしめきあっている。テーブルには各地の名産を新鮮なまま取り寄せた料理が並び、天井から吊るされたシャンデリアは全て水晶と宝石で作られ、国で最も知名度があり実力もある管弦楽団が会を盛り上げる演奏をしていた。
会場の一番高い位には玉座が並び、中央には王、隣には王妃、その下段には王子が並んでいる。皆配偶者や婚約者を隣に置き見下ろしているが、ハルミアとシリウスが会場に入ると皆が注目した。
「王が……」
「ええ。見ていますが、しかし今日のパーティーは諸外国の王族も来ています。彼らを押しのけて挨拶するわけにはいきません。礼程度におさめておきましょう」
「はいっ」
シリウスは堂々としている。酒を飲みたがらないハルミアの為に素早く果実水を手配して渡し、自分は葡萄酒を嗜み始めた。
「酒を飲むのは久しぶりです。といっても、口をつけてるだけですけどね」
普段、シリウスも食事の際酒を飲むことはしない。温めた極めて酒精の薄いものは眠れない日に飲むものの、きちんとした酒を飲んだのはオルディオンに来た当日だけだった。
「シリウス様はあまりお好きではないのですか?」
「はい。宴会の席が好きではないので、その延長ですね。なのでハルミア様が飲まないと知って、初日に飲む必要もなかったと思いました」
はは、とくだけたようにシリウスが笑う。やがて、管弦楽団が演奏していた曲を緩やかなクラシックからファーストワルツの曲に変えた。シリウスはハルミアから果実水を取り去ると、自分のグラスとともに給仕に預ける。
「ハルミア様、ダンスはお好きですか?」
「えっと、た、たくさん練習したので、できます」
ハルミアの返事にシリウスは微笑み、彼女の手を引いた。人々がホールの中央へ集まっていき、ゆっくりと踊り始める。ハルミアたちも周囲の流れに沿うように入り、そっとステップを踏み始めた。
「たくさん練習したというのは、今日の為に?」
「あっ、いえ、オルディオンに来た時に」
ハルミアの返事に、シリウスはやや落胆した。ハルミアは付け焼刃の技術ではないと伝え安心してほしかった為に、彼の反応に戸惑ってしまう。
「え、えっと、私は、何か失礼を……」
「いえ。まぁ別にいいんですけどね」
シリウスは、自分に芽生えた感情を、例え僅かであっても頑なに認めない。ハルミアがシリウスを好きであるならば自分も別に答えてやらんでもないという立ち位置は、絶対に崩したくなかった。
「でも、シリウス様……」
「ほら、回りますよ」
シリウスはハルミアにターンをさせる。ハルミアが、王都のパーティーで踊っていた記憶はない。壁の花となっているのが彼女であった。が、貴族令嬢ではあるのだから、ダンスは出来るはず。苦手ではあるだろう。だから自分がエスコートしてやらねばと思っていたシリウスだったが、すぐさま対応し、くるりと回ったハルミアに驚いた。
「シリウス様?」
「なんでもないです」
シリウスは急に、自分は何をやっているんだという気持ちになった。本当に最近、自分の気持ちがままならない。以前は突拍子もない行動は絶対に起こさなかったし、むしろそういった突然の何かを憎んですらいた。しかし、ここ最近は感情に流されないことのほうが稀で、大抵一定の状態を保っている時は、ハルミアの好意を感じ取っている時だけだ。
ワルツが終わり、人々が壁へとはけていく。シリウスは何となく悪戯心が沸いて、ハルミアの手の甲にキスを落とした。途端ハルミアの頬が赤く染まり、ぴたりと体が固まる。
「ほら、止まっていたら邪魔になってしまいますよ?」
囁くようにしてやると、ハルミアの肩がびくりと跳ねた。シリウスの心は満たされ、果実水を取りに行こうと彼女の手を自分の腕に回させる。ハルミアにほぉっと見惚れる周囲の人々の視線も心地よく、彼は上機嫌で歩みを進めた。
「シリウス?」
ざっと、シリウスのそばの人の波が割れた。不自然に開かれた間から出てきたのは、ガイを伴ったシンディーだ。彼女の登場にハルミアは身を固くする。シリウスは「ああ、シンディー王女。このたびは婚約おめでとうございます」と頭を下げ、ハルミアも「おめでとうございます」と礼を続けた。
「ありがとう。どうぞ頭を上げてちょうだい」
今日のシンディーの服は、淡い水色の婚約衣装だ。種類の違うレースをふんだんにあしらい、ティアラはシャンデリアの光を受け神々しく輝いている。隣にいるガイも騎士の礼装ではなく婚約式の衣装で、胸元には褒章が飾られていた。
「シリウス、あなたずいぶん変わったわねえ」
シンディーがシリウスのつま先から頭の先までまじまじと見回す。そして甘やかな笑みを浮かべると、「でも、婿としてオルディオンを統治することはできないのよね。もう今年にはその権利は手放されてしまうのだから」と笑った。
「ええ。なので妻とゆっくりすごしたいと思います」
「あらそう。わたくし、貴方に少しだけ申し訳ないと思っていたの。いくらわたくしを侮辱していたからといって、望まぬ結婚を強い、人生の終わりまで壊してしまうのは流石に子供じみた采配で、王女らしくないわ。だから王宮の仕事を紹介しようと思っていたのだけれど……必要はないみたいね?」
「私は、王都を追放されました。保身のため、自分の魔力を偽っておりました。ですから、一度この国の境を守る辺境にて国の為、王家の為に尽くし、ようやく一人前に手が届く身の上です。私のような無礼者にまで慈悲深きお心遣い、恐悦至極にございます。」
「ふぅん。もしかして、御子が?」
シンディーはつまらなそうにしてハルミアの腹部に目をやった。すぐにシリウスが「いえ。今の段階では」と切り返す。
「なんだ。子供を置いていくのが忍びないのだとばかり思ったわ。ふふ。共に魔物を討伐するために王都を出ていた時よりずいぶんとシリウスは変わったものねえ」
「それは、良い方向にですか?」
「ええ。とても良い方向よ。貴方を放り捨ててしまわないで、わたくしの元できちんと向き合い教育すれば良かったのにと、少し後悔してしまったわ」
「ありがたきお言葉でございます」
「いきましょうガイ。では、楽しんで」
シンディーはガイを伴い去っていく。ガイはシリウスを敵意の籠った瞳でにらみつけると、彼女の後を追っていった。
「……良かったのですか?」
ハルミアがシリウスに問いかける。シリウスは何も答えないまま、ただ黙って首を横に振り、笑う。結局ハルミアはシリウスに何も聞けないまま、パーティーは幕を閉じたのであった。
王都の街中を、宿に向かって馬車が走っていく。ハルミアはオルディオンとは異なる街灯や眩しいほどの光溢れる車窓に目を向けていた。隣にはシリウスがおり、ただ黙って前を見据えていた。
パーティーを終えて、普通の会話はしていても、シリウスの心はどこか心ここにあらずだ。かつて焦がれ、今もなお愛することをやめられないシンディーに会ったのだから、こうなってしまうことをハルミアは予想していた。しかし、王都での職を斡旋された時、シリウスがすぐに断ったことをハルミアは不思議に思っていた。
謀りを企てたかもしれないとはいえ、シリウスがその身を投げてしまうほど愛した相手に誘われたのだから、迷う瞬間があってもおかしくはない。にも拘らずシリウスは躊躇いすらみせず断った。そのことがハルミアにとって気がかりだった。
(シリウス様、もしかしてまた、何か――)
ハルミアの頭の中に、シリウスが飛び降りた瞬間の映像が繰り返される。あの瞬間、もし何か些細なかけ違いがあれば、シリウスは大怪我を、それどころか死んでいた。そして今夜もまたシリウスが死に向かうのではと、彼女の心は不安で占められていく。
「あの。少し寄り道しても?」
「え……」
ハルミアが返事をする前に、シリウスが御者に声をかける。行先は聞きなれぬ場所で、どこに馬車が向かっているのか見当がつかない。
「シリウス様、どこへ……?」
「私が、ハルミア様をお連れしたい場所です。……駄目ですか?」
やや上目遣い気味に、弱々しげに問われ、ハルミアはすぐに首を横に振る。シリウスはくすりと笑うと、馬車はゆっくりと加速して、宿に向かう道を大きく逸れて曲がったのだった。




