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 オルディオンの山は、凄まじい瘴気が立ち込めているというのに、どこもかしこも静かだった。元から黒々として針金のようになっている木々が立ち並び、光は差し込まない。


 唯一光に溢れ花畑のある湖は楽園という意味の名がつけられるほど、この森は太陽を拒絶している。


 しかし、それでもヴィータを助けるために森に入ったシリウスとハルミア、そして騎士団に入っていたことを見込まれ同行を許可されたベスは愕然とした。


「風がこんなに無いってこと、あるっすか?」


 嵐であるならば感じるはずの風が、微塵も感じられないのだ。草木も揺れることなく、動物たちは異変を察知して早々に巣に戻ったのか、物音ひとつしない。聞こえるであろう雷鳴も、地鳴りも、風の音も、世界の全てが無に還ったように、何の音もしなかった。ただただ森の周りに黒い暗雲が立ち込めているだけで、まるで瘴気を見ているのが幻覚だと思ってしまうほど、周囲は無に包まれていた。


「嵐がまだ始まらないことに越したことはありませんが……ハルミア様、魔道具の探知機はどんな反応を示していますか」

「まったく反応がないです」


 ハルミアがノイルに渡された魔道具の懐中時計を見つめる。一般的な金時計の中央に円環状に加工された魔石がいくつも回転するそれは、魔物が近づけば発光し、その回転速度を上げることで持ち主に危機を知らせる仕組みだ。ノイルが家からくすねてきた最新の型のもので、何かの役には立つだろうと渡されている。


「魔物でも、嵐でもない……こうなることなら、オルディオンの古書を読んでおけば……」

「いえ、この辺りのことが記された古書は全て読み込み記憶していますが、こんな嵐が訪れたなんて記載はありません」


 ハルミアの返答に、シリウスは「勉強熱心ですね」と返しながら空を仰いだ。雲は黒く渦巻いて、頂上を目指すようにしている。


「婆さんも頂上っすか?」

「多分……」

「よりによってこんな時に……! 街に降りてるなんてことないっすよね?」


 森に向かう道中、ヴィータが街に降りてきていないか調べた結果、祈りを打ち砕く知らせがハルミアのもとに届いた。さらに果てにあるはずのヴィータの小屋にも彼女は不在で、山にいることが決定打となったのだ。


「それに、今日はおばさまが旦那様とお別れになった日です。なんとしてでも、花を海に送ろうとするはずです」


 ハルミアは、もし自分が逆の立場だったらどうだろうと考えた。もし家族をいっぺんに失った時と同じ日に、嵐に出会ってしまったら。自分はきっと、街には下ることをしないだろうと。やっと、やっと向こうに逝けると思ってしまう。


 しかし、ヴィータの夫は、まだ死んでいなかった。海の向こうへ行き、死体は上がっていない。もし彼女の夫が本当に帰ってきたとき、どう思うのか。ハルミアは胸が締め付けられる想いで足を動かした。


「あれ、あれ婆さんじゃないっすか?」


 ベスの言葉に、俯きかけたハルミアの顔が上がる。丁度崖の途中、突出したところにヴィータが立っていた。そしてその前には上等な黒服を着た男が三人立っており、物々しい雰囲気で対峙していた。


「ハルミア様、魔法を」

「はっはい!」


 ハルミアが捧生の腕輪をシリウスにかざす。しかし、本来ならば腕輪から魔力が流れ出し、印を持つものに注ぎ込まれるはずが、腕輪は光ることもなくそのままだ。


「どうしてっ」

「このままじゃ婆さんが落とされちゃうっす! 俺行くっす!」

「ベス!」


 ベスが足元に加速の詠唱をして、そのまま差していた剣を抜き、男たちに襲い掛かった。しかし相手は三人、このままだとベスが危ない。ハルミアは焦りながら腕輪をシリウスにかざすも、腕輪は微動だにしない。ハルミアたちがやってきたことに気付いたヴィータは「なんで来たんだい、逃げな!」と怒鳴り声を上げた。


「こいつらは魔法士だ! 双水岩の洞窟を狙いに来たんだよ! あんたらに勝ち目なんてないよ、さっさと捨て置きな!」

「嫌です……!」


 もう、大切な人を失いたくない。ハルミアは腕輪を見つめ、何が起こっているのか考え、はっとした。


「あのパーティーの時、詠唱が、普通の捧生の詠唱ではありませんでした。奴隷紋の詠唱も混ざっていた。もしかしたら……普通に魔力行使を許可するのではなく、私がシリウス様に命じる必要があるのかもしれません」

「では、すぐに。まずは貴女の使用人とあの老人を飛行魔法でこちらに引き寄せましょう」

「わ、わかりました。えっと、ハルミア・オルディオンが、シリウス・オルディオンに命じます。ヴィータおばさまと、ベスをこちらに飛ばしてください」


 ハルミアが命じた瞬間、腕輪から光が放たれ、シリウスの印目掛けて吸い込まれていく。自分の手を動かし感覚をつかんだシリウスは、すぐに詠唱を始めた。すると苦戦していたベスの足元とヴィータの足元に魔法陣が現れ、下から風が浮かび上がり二人ともこちらに飛んでくる。


 しかし、飛ばすことを命じた為に、二人はそのままの勢いでハルミアたちのもとに飛び、咄嗟に彼女を庇ったシリウスを下敷きにする形で着地した。


「し、シリウス様、おばさま! ベス!」

「大丈夫です、捧生の腕輪を使っての魔法効果は、研究の余地がだいぶありますね……」


 シリウスが眼鏡の位置を整えながら立ち上がった。ベスやヴィータもふらつきながら立ち上がり、慌ててハルミアが手伝う。


「ったく、なんでこんなところ来たんだい。嵐だっていうのに」

「それよりおばさま、あの男たちは」

「知らないよ。一方的に追いかけてきて、逃げてみれば崖に追い詰められたよ。どうやらただ私に死んでもらいたいだけじゃなく、事故で死んでもらいたいみたいだね」


 黒服たちは、今度はハルミアたちのほうへ向き直り、じりじりと近づいていく。


「ハルミア様」

「はい、シリウス様、ご指示を」

「土魔法でやつらの足場を崩し、それから確保です。まず……」

「なんすかあれ!?」


 シリウスの指示をベスの絶叫がかき消す。シリウスが憤りを示す前に、凄まじい雷鳴が響き渡った。瞬間吹き飛ばされんばかりの豪風が吹き荒れる。瞬間的に瞳を閉じて、風が止んだのを感じハルミアが目を開くと、目の前には驚愕の光景が広がっていた。


「我の妻に手を出すとは、お前たち、自分たちが何をしたのか、分かっているんだろうな」


 ハルミアの視界いっぱいに広がる、どす黒い鱗たち。ハルミアたちと黒服の間を分つように黒竜が降り立っていた。空は竜が降り立った場所の一点から晴れはじめ、あれだけ分厚くオルディオンの山を覆っていた暗雲が、そこから溶けるように消えていく。


 ハルミアも、シリウスも、ベスも、御伽噺でしかない存在に愕然として、言葉を失いただただ茫然とする。一方ヴィータだけは、目を見開いたまま一歩踏み出した。


「オズ……」


 ヴィータの呼びかけに、黒竜は振り返り、金色の瞳を柔らかく細める。


「遅くなった……我が妻よ。祖国の戦が中々締結しなかったのだ。許してほしい。まずは埋め合わせとして、この三人の人間を君に捧げよう……」


 竜が飛び上がったことで、ハルミアたちの視界に黒服の男たちが映った。男たちは三人とも竜の存在に驚き、畏怖している。足は震え、逃げることもできず後ろへとにじり寄るばかりだ。


「殺すなオズ! 生かして何が目的か――」


 ヴィータの叫びも虚しく、黒竜の口から無数の雷を帯びた閃光が発された。瞬く間に男たちの立っていた場所は白く染まり、地形を切り崩したように海へと落ちていく。閃光に触れた個所は皆削り取られ、煙が立ちその威力をまざまざと見せつけていた。


 黒竜は満足そうに鼻から息を吐き出す。またハルミアたちの周りに降り立つと、その身を縮めさせ人の形に――ヴィータと同じ年くらいの、初老の男性へと姿を変化させた。黒い髪を靡かせているが、瞳だけは竜のものと同じくぎらついた金色で、その金色が先程まで閃光を放っていた竜と同じ存在であると雄弁に語っていた。


「我が妻、待たせ……」


 初老の男性へと姿を変えた黒竜――オズが厳格な顔つきをやや綻ばせ、ヴィータへと近付く。しかし一歩近づいた瞬間ヴィータの平手打ちが炸裂した。完全に頬を直撃されたオズだったが、よろけることはなくただただ意味が分からないと立ち尽くす。


「殺すなって言っただろうが! なんで海に放った」

「しかし、やつらは君を殺そうとしていただろう」

「だから何で殺したか聞くって言っただろう! なんなんだお前は! 突然帰ってきて!」


 ヴィータが顔を真っ赤にしてオズを怒鳴りつける。ばしばしと胸板を叩く姿を見て、ハルミアたちは目を丸くした。ヴィータはひとしきりオズを叩くと、ハルミアたちの方に振り返った。


「……私の旦那だ。あんまり広めるんじゃないよ。……で、オズ。この薄幸そうな娘がオルディオン家の娘、で隣の神経質そうなのが婿。馬鹿そうな顔してんのが使用人だよ」

「ひどいっす! せっかく助けに来たのに!」

「馬鹿だろう! どうせ待ってれば死ぬ老人助けにこれから私の五倍六倍は生きる若者の身が危険になってどうすんだい! 大方ハルミアが主犯だろうが、婿もベスも尻に敷かれてないで止めな! 本当に二人揃って、死ぬところだったんだよ! この大馬鹿どもが!」


 盛大にヴィータがため息を吐く。そしてハルミアにもう一つ嫌味を言ってやろうとして、今の彼女の顔を見て言葉を止めた。


「何で、泣いてんだい。お前は本当に愚かな娘だねえ」


 ハルミアが、目から大粒の涙を何度も何度も、ぽろぽろと流していく。球体を作っては筋を作って流れていく涙を見て、ヴィータはハルミアの頭を撫でた。


「ほら、墓守の婆は生きてるよ。どうせそのうち死ぬ老人が生きてたくらいで泣くんじゃないよ」

「で、でも……ヴィータおばさま、生きててよかった……」

「ったく……ほらこういうのは婿養子の仕事だろう。突っ立ってるんじゃないよ」


 泣くハルミアをあやすヴィータがシリウスに声をかけながら、ハルミアを押し付ける。シリウスは目元を押さえるハルミアの腕を恐る恐る掴んでどかし、代わりにハンカチで拭ってやる。


 ヴィータは満足そうにして鼻で笑った後、一瞬三人から視線をそらし、「悪かったね」と呟いた。ベスが「え? なんて言ったんすか?」と聞き返すと、「ありがとうって言ってるんだよ」と言い返す。


「今日は世話になったね」


 ヴィータはそう言って、そっぽを向く。オズが「彼女にとって最上級のお礼を言っているんだ」と付け足し肘で腹部を打たれた。しかし彼は体勢を崩すことなく、そのままハルミアたちに頭を下げた。


「私からも礼を言う。このたびは我が妻を助けてもらい、感謝してもしきれない。この借りは必ず返そう。ありがとう、三人の人の子よ。まずはこれを……」


 オズが手を差し出し、左右に払うように振った。雨が降るように落ちる欠片は間違いなく伝説の品とされ、空想でしか描かれない竜の鱗で、ハルミアたち三人はまた言葉を失ったのだった。

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