15
オルディオンの街並みを、夕景が包んでいく。あれから結局シリウスとベス、そしてノイルは森の麓で食事をとり、屋敷に戻ることはなかった。門番には元々ベスが戻るのは昼過ぎになると伝えていた為に、それを門番から聞いていたハルミアは特に何か慌てることもなく一日領地に関する残った仕事をしたり、空いた時間は刺繍をするなどして過ごしていた。
窓の外からオルディオンの街並みを眺めていると、不意に屋敷を囲う塀の隙間から、ベスやシリウス、ノイルの三人が歩いているのを見かけて、ハルミアは足早に自分の部屋を出た。
シリウスが、何について怒っているのかわからない。けれど怒らせてしまったのもまた事実であり、まずは謝り、それから訳を聞こうとハルミアは屋敷の門へと向かう。するとちょうど三人が門をくぐっているところで、迎え出ていたハルミアを発見したシリウスは目をぱっと見開いた後、口をまっすぐ引き結んだ。
「ハルミア様!」
「我が妹よ!」
「おかえりなさいませ。皆さま」
立ち止まるシリウスを横切り、ノイルやベスがハルミアの元へ向かう。そして顔を見合わせにやりと笑った後、ハルミアの肩を叩いた。
「では、あとは二人で話してくださいっす」
ノイルもベスも、今度はシリウスの方へ振り返り手を動かしたりして何かを伝える。シリウスはしっしと手を振り、怒る仕草を見せた。何が何だかわからないハルミアはぽかんとして、やがてノイルとベスが離れていき、シリウスが近づいてきた。
「あの……」
「あっ、シリウス様、私、お話があって……」
同時に言葉を発してしまい、ハルミアは自分の口元に手を当てる。しかしシリウスは「なんです?」とばつの悪そうな顔で話すよう促した。
「えっと、今朝。私、シリウス様に失礼なことを、怒らせることをしてしまって、申し訳ございませんでした。ずっとそれが謝りたくて……」
「別に、怒らせることは何もしてませんけど」
不機嫌な声色で、シリウスが呟く。恐る恐る顔色を窺うハルミアに、シリウスはふいっと顔を横にそむけた。
「……別に……。……私こそ、突然怒ってすみませんでした。その、最近感情の制御がうまくできなくなっていて……、申し訳ございません」
シリウスが一言ひとこと、言葉を絞り出していく。しかし、どれほど待ってもハルミアからの言葉が返ってこない。焦れて顔をハルミアに向けると、彼女は一点を見つめ顔を青ざめさせていた。
尋常ではない様子に、シリウスも視線を向ける。辺りは変わらず橙の夕景に包まれているが、一点だけ。オルディオンの山の上にかつてないほどの巨大な暗雲が立ち込め、今まさに山を食らわんと包み込もうとしていた。
二人の様子を木陰からにやにや見つめていたベスやノイルも、異変に気づきオルディオンの山を見て愕然とする。屋敷から外を見ていたアンリも慌てて出てきた。
「あ、あれ、何すか?」
「俺もわからない。あんな雲。嵐だってあんなにならないぞ!」
慌てるベスとノイルを横目に、シリウスも暗雲を見る。シリウスが魔物討伐に出たときに見た瘴気よりもずっと黒が色濃い。あんな雲を起こせる魔物なんて存在しないはずで、今まで彼が読んできたどんな文献にも載っていない。嵐の可能性が高いが、気象や天候を計算してもあれほどまでの巨大な雲が現れ、山の上を覆うことはありえないことだった。
「ヴィータおばさまが……」
ハルミアが呟く。今日、ヴィータは山の上にいるはずなのだ。そして黒い雲に覆われているということは、ヴィータに危険が迫っているということ。最悪のことを想定して、ハルミアはその場に膝をついた。
「ハルミア様!?」
シリウスが慌ててハルミアを抱き起こそうとするが。「どうして、嫌……」と繰り返し、震えるばかりだ。
「しっかりしてくださいハルミア様、屋敷にいればきっと――」
「違うんです、今日、ヴィータおばさまが山に登っていて……」
ハルミアの言葉に、周りにいた者全員が言葉を失う。ハルミアは、今すぐヴィータを助けに駆け出してしまいたい気持ちだった。しかし、彼女に魔力はほとんどなく、その力を行使することはできない。ヴィータを助け出す前に、救助隊の世話になるか、死ぬ結末になる確率の方がずっと高いということを自身がよくわかっている。
「どうして、私は魔法が使えないの。どうして大切な人を、殺して――」
頭を抱えるハルミアを、アンリがすぐに支えに入った。
「ハルミア様。あなたは殺していません。あれは事故です」
そのやりとりを見て、シリウスはすぐにわかった。ハルミアは自分が魔力がほとんどない。事故の現場に居合わせたとき、魔法が使えなかった自分のせいで姉や両親が死んだと思っているのだと。
「いや、嫌。どうして――!」
「行きましょう。ハルミア様」
シリウスが、意を決して言葉を発した。ベスは「は?」と目を見開く。
「私は、ハルミア様に魔力の権限を譲渡している形ですが、元は国で一番の魔法士。嵐の中がなんですか。老人一人助け出すことくらい、やすやすと行って見せましょう」
「嵐の中は無理っすよ」
「それに旦那様、ハルミア様をお連れするなんて、自分が何を言っているのかわかっているのですか?」
「当然です。彼女には捧生の腕輪がある。そして私の胸には印がある。ハルミア様を連れて行かなければ、死にに行くのも同然ですよ」
地に手をつくハルミアの前でそっと膝をつき、シリウスはその手を差し出す。どうしていいか分からず動かぬハルミアに、「私を見てください」とそっと声をかけた。
ハルミアは、大きく目を見開く。まっすぐ自分に向けられる紺色の瞳は煌めいて、初めて出会った時の彼を彷彿とさせた。恐る恐る手に取ると、ぐっと力を入れられ引っ張り上げるように立たされる。
「大丈夫です。僕が助けますから」
シリウスが笑う。ハルミアは縋るように頷いたのだった。




