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(か、片付け……そ、掃除……!)
広間でのささやかな酒の席を終えたハルミアは、自室を忙しなく回遊していた。彼女の部屋は掃除婦が毎朝彼女が山へ向かう間にきちんと業務を行い整理されており、窓枠の隅やひびが入って壊れ置物と化した時計まで塵一つなく磨き上げられている。
そのことをよく分かっているハルミアは、掃除も片付けも意味がないことを思い出し、片手に持った布巾を机に置き、また手に取ることを繰り返していた。
「私は、ソファーで寝るといえど……」
いつもハルミアの部屋には、大きな二人掛けのソファーがある。左には黒の、右には桃色のクッションが置かれ、なだらかな曲線を描いているそれは、ハルミアの渾身の力により寝台から反対の位置にある壁に寄せられた。
心もとない気持ちで部屋の中を彷徨いていると、扉が控えめにノックされた。
「はい」
ハルミアが扉を開く。そしてノック音の主――大荷物を抱えたシリウスに、ぽかんと口を開けた。
「失礼します。今日からよろしくお願いしますね」
シリウスは開けられた扉を片手で押さえ、すり抜けるように入っていく。その手には大荷物が抱えられていて、驚きに停止したもののすぐに彼女は手伝おうと動くが、それはシリウスの手によってどすんと大きな音を立て部屋の中央に置かれた。
「し、シリウス様、そのお荷物は……」
「私の荷物です。あそこはノイル様のお部屋ですし、ここが夫婦の部屋になるのでしょう?なので荷物を全て持ってきました」
慌てるハルミアに涼やかな顔つきで言い放ったシリウスは、部屋の状況――不自然に背を向け壁に寄せられたソファを見て怪訝な顔をした。
「私は、模様替えの途中に来てしまいましたか」
「いえ。私はそこで寝ようと……」
「何故です? どんな問題で?」
シリウスは責める口調でハルミアに詰め寄った。彼女がノイルに自分の部屋で寝るよう伝えた時、シリウスの心はさざめきだった。落ち着かない感じがして、頭が痛み苛立ちばかり増してしまう。その原因も理解できず、ただただ顔を見ても声を聞いても、やり場のない怒りが沸いて、後悔をさせたいような、かといって離れられても嫌だという奇妙な感覚がしていた。
「えっと、シリウス様の眠りを……」
「初夜の際、僕はよく眠れていましたが」
それは、昏倒では。ハルミアが言い返せるはずもなく、口を噤む。シリウスは「ベッドは明日私が直しておきましょうね」と、自分の荷物からあれこれ出し始めた。主に刺繍箱と、糸、そして刺繍枠のついた縫いかけのものを点検して、また箱にしまった。
「では寝ましょうか」
ハルミアもシリウスも、眠る支度はできている。今だ扉の前から動けないハルミアを見て、シリウスは「どうぞ」と先に寝台に入るよう促した。
「何か問題でもありますか? ハルミア様」
「いえ……」
ハルミアは機械のような角ばった足取りで寝台に入った。シリウスの眠りを妨げないよう隅に寄ると、部屋のランプが消された。心臓の鼓動がうるさすぎないか不安に思っている間に、寝台がぎし、と音を立てて揺れる。伝わってきた振動にシリウスが寝台に入ったことを察したハルミアは、体の向きを完全に外側に向けた。
「ハルミア様」
「はっはい」
「ちょっとこっちに顔を向けていただけませんか。話があるので」
言われるがまま、ハルミアが振り返る。すると目と鼻の先にシリウスはいて、彼女は慌てて後ろ向きに転がり落ちそうになった。しかし寸前のところでシリウスがハルミアの腕を掴み、彼女は間一髪のところで難から逃れた。
「も、申し訳ございません」
「いえ。落ちそうで危ないので声をかけたのですが、危ないところでしたね。私はまだ余裕があるので、こちらに詰めても大丈夫ですよ」
「え、あ、ああ、ありがとうございます」
「では、どうぞ?」
シリウスは少しだけ端に寄って、ぽんぽん、と二人にできた隙間を叩く。ハルミアが躊躇いがちに僅かな移動をすると、「まだ全然余裕がありますけど」と寄るように促した。
「えっと……」
「落ちて、ハルバート医師を呼ぶのは面倒です。私はあの方、あまり好きではないので」
ハルバートは切り捨てるような物言いで冷たく、ちょっと言い方をどうにかできないものか。ということを使用人たちからハルミアは聞いていた。
なんとなく察したハルミアは恐る恐る距離を詰める。「もう大丈夫です」とシリウスに声をかければ、「そうですか」と期待はずれだったかのような声色で返事をされた。
「では、おやすみなさい」
「はい。シリウス様」
(シリウス様がおやすみと言ってくださったけれど、今日は絶対に眠れない)
ハルミアは目を閉じながら、シリウスの眠りを妨害しないよう息を顰める。動いている壁掛け時計の音がやけに大きく聞こえ、まだ肌寒い季節のはずなのに、掛け布から伝わる温度はやけに高く感じた。微かな呼吸音や布ずれさえもそうなってしまいそうで、触れれば切れてしまうピアノ線を張り巡らせているかのような緊張感がハルミアを襲う。
(明日は、少し森へ行く時間を早めようかしら……)
ハルミアは静かにそう決めて、瞳をぎゅっと閉じたのだった。
◇◇◇
翌日、ハルミアは一睡もすることなく朝を迎えた。隣のシリウスはといえば美しい陶器の作品のように眠り、胸が苦しくなるのに耐えながら部屋を出て着替えを終えると、彼女は廊下を足早に歩く。今日はいつも起きる時間よりもだいぶ早く、屋敷の中は使用人たちが朝の業務を粛々と行っていた。挨拶を交わしながら姉の部屋の前を差し掛かると扉が僅かに開いていた。中を見ると、ちょうどノイルが姉の部屋の鏡台の前で何かを話している。その表情は冷たく寂しげで、一歩踏み入れると彼はさっと顔を扉のほうへと向けた。
「お、おーう早いな我が妹よ!今丁度リゼッタに挨拶をしていたところなんだ!」
明るい笑顔に、憐憫の面影は見えない。ハルミアが近寄ると、ノイルは立ち上がった。
「おはようございます、ノイル様」
頭を下げ、部屋を見渡す。奇抜で派手な色味の家具でまとめられた姉の部屋に入るのは、久しぶりだった。彼女は「精神が引きずられる」とあまりこの部屋に入らないようハルバートに言い含められており、訪れないようにしている。
しかし雨が降った日にはどうしても焦がれるようにここに来て、ハルミアの部屋にある同じソファーに座り、いつも姉の座っていた左側にしばらく体を傾けるのだ。
「お前たち姉妹は、本当に仲が良かったよなあ。婚約者である俺は、普通ほかの令息に嫉妬を感じるものなのに、俺はいつもお前を羨ましく思うくらいだったぞ」
ノイルが窓の方へと歩いていき、ハルミアの顔も見ず語り掛ける。
「姉様は、私に数え切れない程……私に生きるすべてを与えてくださいました。感謝してもしきれません」
「俺も、あいつには感謝してる。だから礼を言うまで死なないでほしかったのに、なんで死んじまうんだろうな。あんまりいい奴だから、神様が欲しがったのかな」
ハルミアは目を伏せる。彼女の姉であるリゼッタは、間違いなくハルミアにとっての、絶対的で、最も身近な神様だった。神を信じず、未来を呪い、泥をすすりながら生きていた彼女にとっての未来が、希望こそがリゼッタだった。
「上手くいかないよな、この世界。どうでもいい、それこそ人を傷つけることしかしないような奴がさ、のうのうと生きてるんだから」
「それは、どういう……」
「国はどうやら魔族が沸いていること、隠蔽しようとしているらしい。挙句莫大な被害が出てるってのに、シンディー姫の祝い金には金をざぶざぶ使っておいて、王族の外の人間は無視らしいぞ。俺の家も少しは出資すればいいものをだんまりだ」
ノイルはがっくりと肩をさげ、両手を挙げた。その様子に、彼がここしばらくの間は魔物の討伐に単独に繰り出していた可能性を悟った。
「もしかして、魔物を討伐する過程で、姉様のもとへ……」
「そんな大層な理由じゃないぞ。旅の途中で出くわしただけだ。それに、自死だと地獄に落ちると言っても、所詮迷信だしな」
朝日を背に受けていることで、ノイルの顔は逆光によって見えない。リゼッタと彼は、妹であるハルミアから見て、本当に仲のいい婚約者同士であった。
快活で朗らか、やや風変わりなノイルと、物事をはっきりと言い、気位がやや高いものの心優しいリゼッタの相性は抜群で、その容姿もオルディオンの女王と称されるほど美しいリゼッタと野性味ある美丈夫のノイルは周囲から羨望の眼差しを集めながらも自分たちは気の向くままに過ごす、そんな二人がハルミアは好きだった。
「ノイル様……」
「俺、王族はちょっと汚いと思ってたんだが、そんなのどこの国も同じだと思っていた。でも、違う。この国は間違いなく腐ってる。一度、それこそ竜の怒りにでも触れて、めちゃくちゃにされてしまえばいい。リゼッタはきっと俺を見て怒るだろうけど、怒られたいくらいだ」
「ノイル様」
「怒られたい……でも、彼女は来てくれない。もう、いないから」
寂し気に笑うノイルに、ハルミアは姉の面影を見出した。姉は、ハルミアに優しくしていたが、叱ることもあった。ハルミアが「自分なんて、私なんて」という言葉を使うたびに、「卑下はするな」と厳しく厳しく言い含めた。そんな姉の最後の表情に似ていて、ハルミアは俯く。
「どうした? 我が妹」
「……今の、ノイル様の表情が、お姉様に、似て……」
ハルミアの目尻に涙が浮かぶ、その姿を見てノイルは一歩近づいた。その瞬間、「何をしてるんです」と冷たい声が響いた。ハルミアが振り返ると、シリウスが立っていた。涙を浮かべる彼女を見て、シリウスが目を見開く。
「何をされているんですか。ノイル様」
「何って、何も」
シリウスの問いかけに、ノイルは首を横に振る。しかしシリウスは「ハルミア様に何をされたんですか」とつづけた。
「シリウス様、私は何も」
「ではあなたはどうして泣いているんですか」
シリウスの言葉に、ハルミアはどう答えていいかわからない表情をした。その顔がノイルを庇っているようにみえ、シリウスの苛立ちは募る。
「どうして隠すのですか? 酷いことをされても……庇わなくてはならない理由が……?」
「それは違――」
「……もういいです。少し頭を冷やしてきます」
シリウスは、踵を返す。ハルミアが後を追うと「放っておいてください」と切り捨てる。
ハルミアは追いかけることも出来ず、ただただ立ち尽くしていた。




