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水が合う

「ようこそ、冥界シウカナルへ」


 鼻と鼻とが触れそうなほどの近距離での言葉にルカは思わずのけ反った。少し距離を置くと彼女の来ている着物の合わせからそれまでは気づくことのなかった長く豊満な胸の谷間が覗き、慌てて体ごと目を逸らしてしまった。


「私の家まではあと少し。さあ参りましょう!」


 八階層の岩場で休んでいた時とはまるで別人になったかのように溌溂とした様子のヴィルヘルミナ。やはりここが彼女のホームグラウンドであるということと関係があるのだろうか。


 一方のルカ達は「冥界へ来た」などと言われてもいまいち実感がわかない。日が暮れてもう夜になっていることもあるのかもしれない。岩で頭上まで囲まれた洞窟から出たことは確かなのだろうが、殺風景な周囲は先ほどと如何ほども変わったようには感じられない。


「さあさ、あそこが我が家になります。七人では少し狭いかもしれませんがどうぞ」


 小さくはないものの大きくもなく、しかしまあバラックといっても差し支えないようなボロ屋が遠目に映った。とはいうものの、最悪の場合は第八階層の玄室に泊まるしかないかと思っていたのだ。屋根があるだけでも上等といえば上等。


「あれは……もしかしたらマツの木じゃないですか?」


 ルカはヴィルヘルミナの家のそばに生えている大木に目ざとく気づいた。いや、冥界に下る坂道を歩いていた頃からずっと「それ」を探してキョロキョロと辺りを伺っていたのだ。彼にとっては一番の重大ごと。


「そうそう。そういえばマツヤニを取りに来たんでしたか。あいにく取り置きのマツヤニなどありませんが、木に切り傷でもつけておけばそのうちヤニが取れるでしょう」


 おあつらえ向き、としか言いようがないほどに都合よく、何やら寒々しくなる。


「それは助かります。しかし何から何まですみませんね。どうしてヴィルヘルミナ殿はこれほど私達に良くしてくれるので?」


 とうとうその「怪しさ」に耐えきれなくなってヴェルニーが問いかけた。相手は魔人(デーモン)で、しかも冥界の住人。敵対する理由がないと言っても、ほぼ一日中岩場で待っていたり、軒を貸してくれたりと、いくら何でも都合がよすぎる。


「なに、久しぶりの地上の人と話ができてうれしいのですよ。どうぞ何も気にせずこの私にもてなさせてください。おなかもすいているでしょう。料理など振舞いますよ。なんだったら……」


 つ……と白蛇のような指先をヴェルニーの胸元に這わせ、悩ましいと息を吐きかけながら紅の唇を震わせる。


「私の体をもってもてなさせて頂いても、よいのですよ」


 並の男であればこの吐息だけで篭絡するような嬉しい申し出ではあったが、しかしすでにある男に操を誓っているヴェルニーの心は揺るがなかった。


「ところで、冥界シウカナルとはもっと亡者が大勢うごめいているものかと思いましたが違うんですね。あまり人の気配がしない。てっきりアンデッドのようなものがいるのかと思っていましたが」


 自身の誘惑が効かないと分かるとヴィルヘルミナはヴェルニーに興味を無くしたかのように再び歩き始める。もう彼女の自宅もそう遠くない位置にまで来ている。


「そうですね……ここはシウカナルでもはずれのはずれ、ほんの入り口に過ぎない場所ですから。それに、アンデッドとシウカナルの亡者は全くの別物ですよ。ここにいるのは生前の姿の現身(うつしみ)のようなもの」


 一行は松の木の下までようやく移動してきた。ヴィルヘルミナは木の幹にぽんと手を当てて問いかける。


「何か瓶のようなものと……それから紐などはお持ちかしら?」


 ヤニを採取するのに使うのだろう。グローリエンがハッテンマイヤーに持ってもらっていた荷物から小さな瓶を取り出す。まだ少し中身が入っているようであるが。


「はちみつを入れてた瓶があるわ。まだちょっと残ってるけど……まあいいか。ルカくんもどうせなら甘い方がいいよね」


「自分が使うんじゃないからっていい加減過ぎません? 中身捨ててくださいよ」


 しかしグローリエンはルカの言葉を無視して瓶のくびれを紐でかけて松の木の幹に縛り付けた。それからナイフで幹をV字型に切り付けて、交差点が瓶の口のところに来るように調整する。


「こんな感じでいいのかしら?」


「上等上等。さて、それではヤニがたまる間うちの中で待っていただきましょうか」


 外からはバラックそのものといった感じの建屋であったものの、中は意外に清潔であった。臆せずこれだけの人間を招こうとするだけはある。一行はとりあえずリビングにある大机に着席し、ふう、と大きくため息をつく。


 まさかダンジョンの中でこのような休憩をとれる場所があるとは思いもよらなかった。いくら好きでダンジョン探索をやっているとはいえ、知らないうちに疲労は蓄積するものなのだ。


「ところで、マツヤニってのはそんなに早く溜まるもんでもねえだろう? どんくらいかかるんだ?」


 着席一番スケロクが尋ねる。「言われてみればそうだ」とルカもハッとした。


「二週間か、一か月もあればあの瓶がいっぱいになると思いますわ」


「そ、そんなに待てませんよ!」


 せいぜい一晩もすれば必要な量が集まるかとでも思っていたのだろう。ルカが慌てふためく。


「なあに、私は構いませんから、その間いくらでもここに寝泊まりしてくれればいいでしょう」


「そしていつかここに定住することになったりしてな。本来の目的をすでに達したにもかかわらずここに留まり続けるおめえみたいにな」


 口の端をゆがめてスケロクが意地悪そうに笑う。反対にルカはぞっとした表情を浮かべた。


「……何か勘違いなさってるようで。私がここに留まっているのは単にここの水があっただけのことにございます。いつでも好きな時に息子にも会えますしね」


「ここの水があった……ここの水を飲んだから、の間違いじゃねえのか?」


 何かを知っているようなスケロクの口ぶり。しかしヴィルヘルミナは特に何も告げずにキッチンに消えてしまった。


「さてどうする? ここに留まり続けてマツヤニがたまるまで待つのは俺はお勧めしねえな」


 スケロクは何かを感じ取ったようである。そしてルカも複雑な表情をしている。他のメンバーはみな押し黙っていたが、異様な空気を感じ取って顔に浮かべる表情は、判決を待つ罪人のそれである。


 それほど時を置かずしてヴィルヘルミナが戻ってきた。手には盆にのせたコップと、水差しを持っている。


「たくさん歩いて喉がお渇きでしょう。お水をお持ちしましたわ」


 一人一人の前に水の入ったコップが置かれたが、しかし先ほどのスケロクの言葉が引っかかる。


 沈黙に耐え切れずにシモネッタがコップに手を伸ばしたが、ルカがそれを止めた。


「この水を……飲んじゃダメです」

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