第12話.黒薔薇の屍術士
コツ、と靴の踵が床に当たって固い音を立てる。木扉を閉めれば、新手の冷たい気配はますます、喉に迫る様な不気味さを増し、全身の傷のためにふらついているシヴァは焦燥感にかられた。
「ぐすっ、リリー=ローズ、それ、早く捨ててきて、お願い」
床に転がったままぐずっていたらしい女が、嗚咽にくぐもった声でそう言う。
靴音を暗い部屋に響かせながら、恐らく女の言う“リリー=ローズ”であろう新手は蝋燭の明かりの中へ踏み込んできた。
小柄で、すらりとした身体の少女であった。
胸元に白いリボンを飾った黒い膝上丈のワンピースに、ひらひらとした装飾の多い白いエプロンを重ねたその姿から、この館の使用人であるのだろうと推測できる。
深い青色の髪は肩に触れるか触れないかの長さで真っ直ぐに切り揃えられ、エプロンと合わせたヘッドドレスを飾っていた。
シヴァの目を引いたのはその顔だ。
彼もあまり健康的ではない青褪めた白い肌をしているが、彼女の肌はそれ以上に、蝋燭の明かりの元で白を通り越して、若干灰色がかっている
そんな血色の悪すぎる肌色の小さな顔の目元には、縁が繊細なレースで飾られた黒い布が目隠しの様に巻かれており、どこか背徳的ながら、不気味といった様相を呈していた。
「……っ!!」
その気配、様子を観察してシヴァは気づいた。
(これは死体だ!!)
呼吸に肩を上下させない冷たい身体。肌の色が悪いのはその全身を温かな血潮が巡らないからで、目隠しをしていても歩けるのは見る必要がないからだ。
シヴァは台の足元に転がるテンペスタに手を伸ばした。死者ならばこれで倒せるはず。腕が痛もうと、傷が開こうと、弦を引け。
「っ、リリー=ローズッ!!」
女が叫ぶ。直後、ゆらゆらと漂う様に歩いていたメイドが、そのゆったりとした動作とは比べ物にならない勢いで床を蹴ってシヴァに飛びかかってきた。
伸びてきた腕が屈みかけていたシヴァの首を捉える。
その手の異様な冷たさと恐ろしいまでの力強さ。ゾッとしたシヴァをそのまま台の上に押し倒して、リリー=ローズは彼の身体を押さえ付けた。
「っ!」
喉を押さえられたため息が詰まる。シヴァは抵抗しようにも、全身の傷と、拘束のため、上手く動けない。
(くそっ……何とかしないと、まずい)
ぞっとする程冷たい死者の気配。これを操っている屍術士の魔力なのか、濃密な薔薇の香りが漂っている。
「生きているなんて酷いわ……あなたはとても綺麗なのに」
そう言いながら、女がゆらりと立ち上がった。灰色のマントが足下に落ちて、日に当たっていないのであろう白い肌が余すとこなく露になる。
「今、ここで、縊り殺して、みんなと同じにしてあげる」
「ぐっ……!!」
首を絞める力が強まった。圧迫される血管、血が溜まって頭部の傷が開く。どろりと温かな血が溢れて、シヴァは呻いた。
(こんなとこで、死んでられるかっ!!)
「っく、どきやが、れっ!!」
関節の柔らかさを利用して、左足をぐっと引いて、自分にのし掛かっているリリー=ローズの足の間を抜けるとその下腹部を思いっきり蹴り上げる。
ふわりと浮き上がるリリー=ローズへ、くるりと身を捻って右足での追撃。鋭い蹴りを脇腹に受けたリリー=ローズは吹っ飛んで床を転がった。
「っ、はぁ。こっちの言うことも、少しは聞けよ……」
「っ、リリー=ローズッ!」
「あの時扉を……冥界では門って言うのか……それを開いて、俺を地上に逃がしてくれたのはあんたなんだな」
「!!」
吹き飛ばされたリリー=ローズに駆け寄ろうとした女は――シヴァはこの女が屍術士ではないかと考え始めている――ハッとしてシヴァを振り返った。
白い乱れ髪が斜めにかかる顔。長いまつ毛に縁取られた暗紅色の目に、鬱々とした八の字を描く眉。
隈がある目の下から白い頬に伝う血涙の様な紅い一筋の紋様が印象的だ。
かなりの美人だった。その身に纏うのが腰まである緩やかにウェーブのかかった白い長髪だけでなければ、まじまじと見つめてしまっただろう。
「さっき、話してたろ。扉を開いて逃がしたって。今思えば、確かにあの時は変だった。冥界と地上を繋ぐ扉は、そう簡単には開かない。それが、イスグルアスから逃げる俺の前に、たまたま開くなんてこと、あるはずがないんだ」
「…………」
耐え難いと言った風情の嫌悪感が滲む紅い目で、しかし女はシヴァの話をじっと聞いていた。
「俺は、皇弟アラドリスの息子。実親と養親の仇をうつために冥界に戻ってきた。あんたは、あいつの敵か」
暗紅色の目が細くなる。油断していないことを示しているのか、黒薔薇の香の様な魔力が辺りにふうわりと満ちていた。
「……あの男は」
そして彼女はそう口を開いた。
ふらりと身体の向きを変え、蝋燭が載ったテーブルに近づいていく。
「あの男は、ティルトリア様を捨てたの」
そこでようやく目が慣れたのか、シヴァは明かりの向こうの暗がりに、一人がけのソファーがあって、そこに誰かが座っていることに気づいた。
「わたしを大切にしてくれたティルトリア様を。乱暴に、首が身体と離れたまま、この、ナズロアの荒野に捨てたのよ」
(ここはナズロアの荒野か! 冥界の東の最果てだ。皇宮から一番遠い!!)
シヴァは台に腰かけて溜め息を吐く。
もう、明かりの向こうに座る人影が誰なのかは分かっていた。
「あなたは、あの男を殺してくれる?」
そう言いながら、彼女はソファーの傍らに祈るように跪いた。
この館の女主人であるかの様に堂々として、冷たい痩躯に黒いドレスを纏った美しい屍。
(……悲劇の皇后、ティルトリア)
長い長い金の髪はハーフアップに結い上げられ、金の髪飾りと紅薔薇が華やかに飾り立てている。
その目元はリリー=ローズと同じく、レースの縁取りがある黒い目隠しで覆われていた。
ホルターネックの黒い紐が胸元で艶っぽくクロスしている。細い首には、恐らく斬首の痕跡を隠すためだろう、繊細な黒のレースのチョーカーが着けられていた。
肘掛けに載った細腕は華奢な肩が露で、袖口が大きく開き、たっぷりとした白いフリルが覗く華やかなデタッチド・スリーブに包まれている。
白花の様なフリルから覗く指先は、血色が悪いものの、美しく整えられ、爪はつややかであった。
「ティルトリア様の、仇をうってくれる?」
シヴァはこくりと頷いた。
「俺が死ぬかあいつが死ぬかだ。やってやるさ」
「……そう」
立ち上がった彼女は、暗紅色の目でシヴァを見た。それを藍色の目で見返して、シヴァはもう一度頷く。
「わたしはドローリア。皇宮で、かつて稀代の屍術士と呼ばれた、黒薔薇の屍術士よ」
「俺はシヴァ。今のところ生きてるけど、それは復讐のために許してくれよ」
ドローリアはその言葉に目を細めて微笑んだ。




