一日目 アシュトン・ガザードの失態
アシュトン・ガザードは人生最大とも言える過ちを犯してしまった。
「ガザード様、よろしければ少しお話ししませんか?」
吊り目がちの目を伏せ、ほんのり頬を赤く染めてそうアシュトンを誘ったのは、ひとつ年上の子爵令嬢、レイチェル・ハリスだ。
漆黒の髪に茶の目を持ち、真面目で冷静沈着、友人の令嬢たちとは親しげに会話をするのに男性には無愛想の根っからの男嫌いと噂されている。これまで舞踏会で何度か挨拶を交わしたことはあるが、親しく会話をしたことなどない。
彼女の態度から好かれていないことはわかっていたので、あまり関わらないようにしていた。
今日の舞踏会でも彼女とこうして話をするなど想像もしていなかった。次代のガザード子爵として、アシュトンは社交や結婚相手を探すために、気合いを入れて参加しただけなのに。
(まさか、こんなことになるとは……)
レイチェルの手にあるワイングラスを見やる。あれはアシュトンが飲むはずだった、惚れ薬入りのものだ。飲んだ直後に見た相手に惚れるため、誰の前で飲むか非常に悩んでいた。
そんな時に咳をしているレイチェルを見かけ、咄嗟にまだ口をつけてないからと考えなしに渡してしまった。
惚れ薬。明らかに胡散臭いそれをアシュトンにくれたのは、腐れ縁の友人バートだ。先日、薬師のご婦人を助けたお礼にもらったらしい。
安全性は高く、実際にバートが婚約者の前で飲んだが、問題はなかったとのこと。一層婚約者を好きになったので、効果はあるそうだ。
しかし、あの男は前から婚約者にベタ惚れしているので、ただの錯覚だと思うが。
せいぜい滋養強壮程度の効果しかないだろう。そう呆れながらも惚れ薬を飲もうとしたのは、心のどこかで恋に憧れる気持ちがあったから。
この国の貴族社会は、付添の者を同行させ純潔を守れば婚約前の恋愛は認められている。家格が釣り合っていれば、恋人と婚約し結婚に至ることもある。
アシュトンの友人にもそうして婚約した者も多く、友人たちの幸せそうな様子を見ていると、一度くらいは恋をしてみたくなったのだ。
「……無理ならば、良いのですが」
悲しそうに眉を下げるレイチェルに、アシュトンは慌てて口を開いた。
「わかりました。……少し、テラスに出ましょうか」
レイチェルの顔が綻び、アシュトンの胸が痛んだ。彼女はきっと恋した相手と幸せなひとときを過ごせると思っているはずだ。
テラスにはひとけがなく、聞かれたくない話をするにはちょうど良い。
アシュトンはレイチェルに洗いざらい打ち明けた。
惚れ薬に頼ろうとしたことはアシュトンにとって墓場に持っていきたいほど恥ずかしいことだった。
しかし、巻き込んだ以上話すべきだ。それに、真面目なレイチェルなら他言することはないだろうと信頼できたのも大きい。
「では、私の今のこの恋心は薬で作られたということですか?」
「はい。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。効果は一週間ほどでなくなります」
そうですかと返事をするレイチェルの声音は明らかに沈んでいた。自分の恋心が偽りだったと知ってがっかりしたのだろう。
「何か、お詫びをいたします。僕にできることでしたら何でもおっしゃってください」
「……でしたら、恋人としてデートをしてくださいませんか?」
アシュトンは驚いてレイチェルを見返す。嘘の感情を植え付けた相手とデートをしたいものだろうか。
アシュトンの疑問を察したのか、レイチェルは恥ずかしそうに微笑んだ。
「私、今まで恋をしたことがなかったんです。誰かに大きく心を動かされたこともなくて。だから、たとえ嘘だとしてもこの状況が楽しいんです」
惚れ薬まで飲んで恋をしたかったアシュトンにはレイチェルの気持ちが理解できた。
(もしかしたら、彼女も恋に憧れていたのだろうか?)
レイチェルは色恋には興味がなさそうに見えた。だが、周囲に気取らせないように隠していただけなのかもしれない。
アシュトンだって、恋に憧れていることを誰にも言ったことはない。何故か、友人たちにはバレてしまってはいるが。
「効果がきれるまでで構いません。それまでどうか恋人になっていただけませんか?」
彼女の申し出に躊躇うことなく頷いたのは、贖罪の念だけでなく、彼女の思いに共感したのもあったからだろう。
「僕で良ければ、喜んで努めさせていただきます」
こうして、アシュトンは一週間の間、レイチェルと恋人として過ごすことになったのだった。




