恐ろしい特訓
「無理……もう無理…………本当に無理……………………」
追加で走り続けること一時間と少し。一度は立ち上がったアイシャが、そう言って再び地面に倒れ込んだ。上半身をべったりと地面にくっつけ天高く尻を突き上げた姿勢は乙女にあるまじきはしたなさだが、もうそんなことを気にする余裕もない。
「ふむ、そろそろ本当に限界か……いいだろう、ではとりあえずここで停止とする」
そんなアイシャの様子に、ローズがそう言って足を止める。それに併せて全員がその場に止まり、スタンもまた荒い息を吐きながらぐったりと立ち止まった。
「ふぅ、ふぅ…………ここまで自分を追い込むのは久しぶりだな…………」
「ハハハ、私の見立てでは、スタン君はもう少しいけそうだと思うがね。とはいえここでスタン君だけ走らせ続けるのも効率が悪いし、今はそれで我慢してくれ。
ということで、アイシャはせめて仰向けに……スタン君も地面に座って体を楽にしてくれ。で、アイシャはエミリーが、スタン君はミムラが頼む」
「わかりました。さ、アイシャさん。手を出してください」
「了解。スタン、手を貸す」
「ぐはぁ、ぜはぁ…………何?」
「む、こうか?」
なんとか体を回転させたアイシャと、普通にその場に座り込んだスタン。二人の右手をエミリーとミムラがそれぞれ掴むと、ローズが改めて説明を始めた。
「では、今から君達の体に魔力を流し込み、無理矢理に動かす! その感覚を覚えてくれ」
「無理矢理って……それ、平気なの?」
「平気じゃないですよ? じゃあアイシャさん、いきますね?」
「ちょっと、笑顔でそんなこと言われても……うきょわっ!?」
優しい笑みを浮かべながら怖いことを平然と言ったエミリーが、アイシャの体に魔力を流し込む。するとその感覚に、アイシャが思わず変な声をあげた。
「何これ!? 痛……くはないけど…………ひぇっ!?」
「他人の魔力は異物ですからね。疲れ切ってる今じゃなければ、抵抗されてこんなことできないんですけど……」
「理屈とかどうでもいいから! 嫌嫌嫌嫌、何これ何これ!? 体の内側がウゾウゾする!?」
例えるならば、骨の中をムカデが這い回っているような感じ。触れることのできない場所を何かが無理矢理動き回る感じは、アイシャの生理的嫌悪感をこれでもかと掻き立ててくる。
「ちょっ、駄目! 本当に駄目! 何かもう吐きそうなんだけど!?」
「我慢してください。それよりほら、左手の指先に意識を向けてください」
「ひ、左手の指……うぇぇ?」
自分では何もしていないのに、アイシャの左手の指がピクピクと動き始める。それの感覚は無意識の痙攣や外部から動かされるのとは明らかに違い、自分のものではない力に自分の体が動かされるという事実が、アイシャに更なる混乱と不快感を覚えさせる。
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……色んな意味で気持ち悪いぃぃ!」
「この感覚を覚えて、自分で再現できるようになるのが魔力による身体制御の最初の一歩なんです。ここで覚えないと、覚えられるまで同じことをすることになりますよ?」
「そんなこと言われたって……うぐぐぐぐ…………」
気遣うような表情をしつつも魔力を注ぐことをやめないエミリーに、アイシャが心底辛そうに呻く。そんなアイシャの様子を見て、流石のスタンもちょっとだけ引いた。
「な、なあミムラよ。余もあんな感じになるのであろうか?」
「安心する。スタンはアイシャより元気だから、もっと辛い」
「安心要素が一つもないな……だが覚悟はできている、やってくれ」
「おおー……なら遠慮なく」
キラリと仮面を輝かせたスタンの言葉に、ミムラがスタンの右手を掴み、ぐっと魔力を込める。だが次の瞬間……
バチッ!
「きゃっ!?」
「ぬっ!?」
「ミムラ!? どうした!?」
スタンとミムラの繋いだ手から、突如として青白い閃光がほとばしる。その衝撃にミムラが思わず悲鳴をあげ、驚いたローズがすかさず声をかけてきた。だがミムラも何が起こったかわからず、戸惑いの表情を浮かべて首を横に振る。
「わ、わからない。スタンの体に魔力を流そうとしたら、突然強烈な抵抗を感じてはじき返された……」
「はじき返す? それは一体……?」
「あっ!? あー、すまぬ。それはおそらく余の方の問題だ」
その言葉に思い当たることがあり、スタンは申し訳なさそうにそう告げると、仮面の額をコツコツと叩いて、設定画面を起動した。スタンの仮面から二〇センチほど前に、青白い光る画面が映し出される。
「えーと……これだな。再設定するまで生体防衛機構を完全解除せよ」
『命令確認。認証実行……生体認証・光彩認証・声紋認証・魂魄認証終了。念のため認証コードを追加入力してください』
「うむ」
画面に映し出された〇から九までの数字の羅列に触れ、一一二八六〇と入力する。ちなみにこの数字は「いいファラオ」の語呂合わせである。
『コード確認。警告:生体防衛機構を解除すると、ファラオの身体に重大な被害が及ぶ可能性があります。本当に解除しますか?』
「解除する」
『設定完了。生体防衛機構を停止します』
フォォンという小さな音と同時に、スタンの仮面から輝きが失われていく。そうしてスタンが必要な作業を終わらせると、それをポカンと見ていたミムラが我慢できずに声をかけてきた。
「す、スタン? 今のは何?」
「ん? ああ、余の被るファラオの仮面は、余の身体に入り込む異物を自動的に排除するように設定されているのだ。無論全てを勝手に排除してしまっては困ることもある故、余が意識して取り込めば例外として処理されるようになってるのだが……今回は余が魔力というものを正しく認識できていなかったせいで、ミムラの魔力をはじいてしまったのだろう。
だが今、それを停止させた。これで問題なく魔力が送り込めるはずだ。すまなかったな」
「いや、それはいい……けど…………」
ミムラの目は、スタンの仮面に釘付けになって動かない。魔法の術式とも違う謎の光の窓で設定を変えられる魔導具など、この世界のどこにも存在しないのだから無理もない。
だがそんなミムラの様子に、ローズが軽く咳払いをしてから声をかける。
「ゴホン! あー、ミムラ? 驚く気持ちは私も同じだが、これ以上スタン君を休ませてしまうと、魔力が通らなくなってしまうのではないか?」
「あっ!? じゃあスタン、やる」
「うむ、頼むぞ」
再びスタンの手を取ると、ミムラが魔力を込め始める。すると今度は抵抗なく魔力がスタンの体を通っていき、スタンのなかにも今まで感じたことのない違和感が生じてくる。
「む……これは確かに、不快というか……何であろうな? ファラオの語彙を以てしても、適当な表現が思い浮かばぬ」
「スタン、できるだけ力を抜く。でないとその分多く魔力を注がないとだから、体の負担も不快感も強くなる」
「そう言われてもな……なるほど、故に疲れさせてから行うのか」
力を抜けと言われても、意識して抜ける力には限界がある。だから強制的に力の入らない状態に追い込んでからこれをやるのだと理解したスタンだったが、とはいえファラオとして常に気を張って生きてきたスタンに、人前での完全な脱力は難しい。
「むっ、ぐっ…………これはなかなか…………」
「頑張る! ほら、この感じ!」
「アイシャさんも、頑張ってください!」
「うぎぎぎぎぎぎぎぎ……」
ピクピク動く指の感覚に仮面を揺らすスタンと、これ以上ないほどに顔をしかめてうなり続けるアイシャ。そんな二人の特訓は、まだまだ始まったばかりだ。





