ファラオの教訓
「ファラオ…………」
ほんの三ヶ月前。伯爵は同じ人物から同じ名乗りを受けた。だがその時伯爵が感じたのは、年端もいかぬ若者が、言葉の重みもわからず適当に振り回している……そんな印象だ。
だが今、伯爵の前に立つ男はどうであろうか? 落ち込んでいた民を奮い立たせ、評判の悪い、無能とこき下ろされていた下級貴族の心を掴み、誰が見ても先がないはずだった領地をあっという間に復興してしまった。
その黄金の仮面は、正に暗がりを照らす太陽。そういう存在を呼び現す言葉こそが……
「そう、か。君がファラオか…………」
「うむん? 最初からそう言っておるではないか。それがどうかしたのか?」
感慨深く言う伯爵に、スタンは不思議そうに仮面を傾ける。自分の値踏みも納得も、誰憚ることなく己を王だと名乗れる者にとっては取るに足らないことなのだという事実に、伯爵は思わず苦笑してから言葉を続ける。
「いや、何でもない……なあ、スタン君。私に仕えてみる気はないか?」
「何だと? それは――」
「あー、やっと解放された! おーい、スターン!」
伯爵の突然の申し出にスタンが答えるより先に、スタンのように崇拝されているというわけではないが、より身近な存在として結構な人気者になっていたアイシャが、漸く人混みから出てくる。だがそこで目の当たりにした光景に、アイシャの体がピキッと固まった。
「あ、あれ? 領主様!? じゃない! いや、違わないけど! えっと……伯爵様! な、何かアタシ、お邪魔でしたか……?」
「いや、構わんよ。というか、アイシャ君も聞いておきなさい。もう一度繰り返すが……スタン君、私に仕える気はないか? もし君にその気があるなら、君を準男爵に叙し、伯爵領にある町を一つ、君に任せてもいいと思っている」
「うぇぇ!? ちょっ、スタン! アンタ貴族になるの!?」
全く感情を隠すことなく驚くアイシャに、伯爵は何処か微笑ましげな気配を漂わせつつ更に言葉を続ける。
「それに、もしスタン君が望むならば、従者としてアイシャ君を連れてきてもいい。その場合アイシャ君には騎士爵を与えよう」
「んがっ!?」
その言葉に、アイシャは年頃の娘にあるまじき形相で完全に動きを止めた。
騎士爵は、生まれに関係なく大きな功績を挙げた者ならばそれなりに叙される可能性のある爵位だ。貴族としての年金は出るが領地が与えられることはなく、また一代限りで子供に爵位を継がせることもできない。昇爵もまずないため、事実上「平民に与えられる最上位の報酬」という感じである。
だが準男爵は違う。こちらも一代限りで継承のできない爵位だが、準男爵は男爵に……つまり永代の貴族に昇爵する可能性がある。騎士爵が貴族ごっこだとすれば、準男爵は貴族見習いという扱いで、階級としては一つしか違わないのだが、その一つは城の城壁より分厚い隔たりがあるのだ。
「えっ、えっ!? スタンはわかるけど、アタシまでそんな、何で!?」
とは言え、騎士爵でも普通に凄い。驚き戸惑うアイシャに、しかし伯爵はやや冷たい口調で告げる。
「妙な勘違いをされると困るので、正直に言っておこう。アイシャ君を騎士爵とする理由は、スタン君への配慮だけだ。スタン君を配下とすることができるなら、アイシャ君の面倒を見るくらいは安いものだということだよ。
それに騎士爵ならば、スタン君が昇爵して男爵になったとしても、従者のみならず妻として迎えることもできるだろう。どうだねスタン君、悪い話ではないと思うが?」
「えぇ……?」
伯爵に見つめられ、アイシャに何か言いたげな眼差しを向けられ……しかしファラオたるスタンの仮面には一点の曇りも生まれない。たとえその地位が侯爵や辺境伯であったとしても、その答えは遙か昔から決まっている。
「断る! 余はサンプーン王国のファラオであるぞ? そんな余に仕えよとは、伯爵殿はサンプーン王国をアステリア王国の属国になれと言うおつもりか?」
「その設定は、この期に及んでもまだ重要なのか? 現にサンプーンなどという国は、何処にも――」
伯爵とて遊んでいたわけではない。この三ヶ月でより広い範囲の情報を集めたが、海の向こうの別大陸まで手を広げても、サンプーン王国なる国は存在しなかった。だからこそ食い下がる伯爵に、スタンはバッと広げた手を突き出してその言葉を遮る。
「そこまでだ、伯爵殿。余は別に、伯爵殿に悪感情を抱いているわけではない。先程の伯爵殿の提案も、『ありもせぬ国の王を名乗る、得体の知れない旅の若者』に対してであれば過分なほどのものであったことも理解できている。
だがそれとこれとは話が別だ。三五〇〇万の民を率いるサンプーン王国のファラオとして、我が国を蔑ろにするようなことを言われては……余の方も引けなくなってしまうからな」
それは実に静かな語り。仮面の下の表情は見えずとも、そこに怒りが浮かんでいるとは思えない。だが突き出された手から発せられる覇気は、伯爵にまるで自分が水底にいるかのような息苦しさを覚えさせた。
「うっ、くっ……!?」
「そうだ伯爵殿、このような逸話を知っておるか? 空に輝く太陽は、いつの時代も万人に恵みを与えるものであるが……古代コンポタミア文明において、それを独占したいと願った者がいたのだ。
その者は大地の恵みであるトウモロコーンの丈夫な葉を集めて縫い付け翼と為し、空に飛び立ち太陽に手を伸ばしたが……強い光を受けたことで葉に残っていた花から新たなトウモロコーンが実り、その重みで大地へと落下してしまうのだ。
欲をかいて手を伸ばし、ほんの一時誰より強い恩恵をその手にしたにも拘わらず、男は落ちた。利を求めるは人の性なれど、分を超えた利を得てしまえばその重みに押しつぶされる。伯爵殿は……領地全てを押しつぶすほどの、黄金の山がお望みか?」
無機質な仮面の瞳、その奥から覗く真なるファラオの眼光に、伯爵の呼吸が一瞬止まる。その威圧が収まると、伯爵はその場でよろけて一歩後ずさってしまった。
「…………いや、そんなものは望まん」
「ああ、それがいい。この男爵領がこれだけ急速な発展を遂げて平気なのは、元が過剰に押さえつけられていたからだ。普通に栄えてるところで同じ事をしても同じ結果にはならぬし、同じ結果になるほどの何かをしてしまえば、そこに住まう民はもはや他では生きられぬほどに堕落の沼に嵌まってしまう。
未来を求めて伸ばした手の先を、確かな輝きで照らし出す。ファラオとは導であり、依存先ではないのだからな」
「う、む……ふぅぅ…………わかった、残念だがスタン君を招くのは諦めよう。だが何か礼はさせてくれ。私にできることならば、ある程度までは配慮しよう」
底知れぬスタンの正体に、伯爵は大きく息を吐いて落ち着きを取り戻してからそう告げた。と言ってもそこにあるのはさっきまでの伯爵家の沽券がどうなどということではなく、こんな相手に「感謝」などという白紙の借りを作ったままにするのは恐ろして仕方がないという気持ちだが。
そしてそんな伯爵を前に、スタンは僅かに考えてから口を開く。
「そうだな……であればマルギッタの町の冒険者ギルド、ギルドマスターのエディス殿に、余の欲する情報を開示するように口添えを願えるか?」
「情報の開示? その内容によっては難しいと思うが……」
「であればまず伯爵殿がエディス殿から情報の内容を聞いたうえで、それを余に話しても大丈夫か判断すればよいだろう。余としても権力を使って無理に命じよなどと言うつもりはないしな」
「わかった。そういうことなら請け負おう」
「おお、それはよかった! 余達はあと数日滞在したらマルギッタまで戻るつもりであるから、宜しく頼むぞ! では行くぞアイシャよ」
「あ、うん……ねえ、何かアタシの知らないところでアタシが貴族になれたりなれなかったりした感じなんだけど、どうなってるわけ?」
「ファラッ!? そ、それは……あれだ。余としても譲れないものがあるというか、そちが栄達を目指していたというのであれば残念だったかも知れぬが……」
「まあ、別にいいけど。どう考えたってアタシがお貴族様になんて向いてるわけないしね。でもそういうのを決めるときは、一応一言くらい相談してくれてもよくない?」
「す、すまぬ……」
伯爵の前を、スタンとアイシャが雑談を交わしながら去って行く。年の近い娘に怒られ背中をションボリさせる姿は、先程まで王者の威風を振りまいていた相手と同じだとはとても思えない。
(見聞の対価は高くついたか。だがまだ破産はしていない。無理にこちら側に組み込むよりも、適切な距離をおいて付き合う方が得か?)
スタンが本物の王であろうとなかろうと、その内に王の魂が宿っているのは確実。だがそんな相手であっても、貴族であれば値踏みし、利用する方法を考えることをやめられない。
そしてそんな伯爵の気配を、スタンは背中で感じている。
「ん? どうしたのスタン?」
「いや、何でもない。単にいいようにあしらわれるだけで終わるほど、ファラオは甘くない……それだけだ」
「? 何それ?」
不思議そうな顔をするアイシャを横に、スタンは今日もキラリと仮面を輝かせるのだった。





