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これは恋なんだけど  作者: 空谷陸夢
Story 29. 始まりのライン
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「俺じゃない。彼女が録画したやつだ」

「ああ、なるほどね」



俺の答えを聞いた春日が、にやにやとした笑みを浮かべる。



「残念だったな。一緒に見れなくて」



未だタイトルの横にnewの文字が出ているのを目ざとく見つける春日を睨みつけても、春日はその反応が面白いらしく、にやにやとした笑みは止まらない。

その反応が面倒くさくなって、空になったグラスに新しいビールを注ぐ。一杯になったそれの半分を一気に飲んだところで、ソファの隣に置いていた鞄から微か振動音が聞こえた。俺が反応するより早く、春日が先に動いて鞄の中から携帯を探り出す。



「おい」



俺の牽制を無視して、鞄から取り出した携帯を操作する春日。村瀬も興味があるらしく、覗きこむようにして身体を春日の方に寄せている。少し操作してから、春日が小さく舌打ちをして、携帯をこっちに放り投げてきた。



「あの子からじゃなかった。面白くねー」



慌てて携帯をキャッチすると、春日が言葉通りの表情をしてグラスに残ったビールを一気に飲み干す。そんな春日に呆れるも、俺も少しだけ期待していた分、気落ちはする。振動音の原因は、仕事関係のメールだった。小さな溜め息をつきながら、携帯のメール画面を閉じる。

俺のほんの少しの気落ちすら見落とす気はないのか、春日が低く笑う声がした。視線を上げれば、こっちを見て口の端を上げている春日と目が合う。



「そんなに会いたいか。あの子と」



残りのビールを飲み干し、ソファに身を沈めて、「ああ」と答える。



「会いたいよ」



俺の答えに、村瀬も春日も意外そうな顔を向けてきた。身体を起こし、グラスをテーブルに置いて、蓋の空いていない缶ビールを取る。それを持ったままもう一度ソファに深く座り、グラスにあけずに缶を傾ける。



「特別なことがない限り、週末は一緒にいたんだ。いきなり会わなくなったら、寂しくはなる。今の状況作ったのも自分だって分かってるけど、さっさと終わればいいのにって思ってるさ」

「ふうん」



自分で聞いてきたくせに、春日は意外なほどあっさりとした返事をする。その顔には、先ほどのようなにやにやとした笑みは浮かんでおらず、どこか面白くなさそうな顔にも見える。意味が分からないと思って村瀬を見ると、村瀬も同じような顔をして肩をすくめていた。春日は録画リストを画面から消し、通常の番組に戻して、またころころとチャンネルを変えだす。



「ま、あの子のことはいいとして。行くわけ? 何とかって大学」

「まだ決めてないって言っただろ」



ようやく一つの番組に落ち着いたらしい春日が、新しいビールをグラスに注ぎながら言う。ソファに深く座ったまま答えた俺に、村瀬が目を開いてこっちを見てくる。



「なんだよ。何とかって大学って」

「知らねーのか? こいつ、ヨーロッパの大学からこっちに来ないかって言われてんだよ」

「は? なんだよ、それ。聞いてないぞ」



余計なことを思う前に、春日がぺらぺらと話し出して、村瀬が問い詰めるような顔でこっちを振り向く。それに溜め息をつきつつ、経緯を話し、結局答えが決まっていない俺に村瀬が励ましを、春日がそれを上回る嫌味を送ってきた。





***




その週の土曜日、昨日の金曜日に返信されてきたメールを読んで、溜め息をついた。目の前のテーブルで、先ほど注文したコーヒーの湯気が揺れている。

ここは、万里子の実家から程近い喫茶店で、今日は話し合いをするためにここに来ていた。先週は万里子の実家に出向いていたんだが、今日そこに行った時に万里子に会うことを拒絶された。義母が気を利かせてこの喫茶店を教えてくれ、後から万里子を向かわせると言ってくれたのだ。

その間に、昨日の彼女からの返信を読んでいた。



『大丈夫だよ。行ってらっしゃい』



昨日の金曜日も会えないとメールした時の返信だ。本当に、言葉通りに大丈夫なんだろうか。そんな心配をしても今の俺には何もできないというのに、そう思わずにはいられなかった。自分ができないことを理由に、古賀という彼に本当なら頼みたくないことを頼み、自分は彼女と向き合えないでいる。向き合うという意味なら、今ここにいることこそが彼女と向き合うためにやっていることなんだろうが、それでも、彼女と会って安心させてあげられない自分が歯痒い。

溜め息を堪えて携帯を鞄に仕舞い、コーヒーのカップを手に取った。飲みながら、腕時計を確認する。ここに来てから、20分ほど時間が経っていた。来るんだろうかと懸念した時、店のドアベルが鳴った。カップをテーブルに置きながらドアの方を向くと、固い表情の万里子がこっちに気がついて歩いてくるのが見える。

俺の座っているところまで来て一旦立ち止り、目を合わせることなく俺の向かい側の席に腰を下ろした。注文を聞きにきた店員にコーヒーを注文し、鞄を隣の椅子に置いている。



「来てくれてありがとう」

「……お母さんが、うるさかったから」



渋々といった風に答える万里子だったが、来てくれたことが嬉しく、小さく笑うだけで返す。

コーヒーは数分もしないうちに運ばれてきて、店員が奥に行ったことを確認してから本題に入った。



「考えは、変わらないか?」



尋ねても、万里子は黙っている。固く唇を結び、何も答えようとしない。だけど、それが万里子の答えのようで、小さく溜め息をついて「そうか」と返す。



「残念だけど、俺も変わらない。これからの生活が、万里子とは考えられないんだ」



何度も繰り返してきた言葉。聞き入れられなかったとしても、俺の正直な気持ちだから、変えられようもない。だけど、また喧嘩のようになって話し合いを終わらせることも、お互いが疲弊するまで同じことを言うことにも疲れてきた。

嫌いになったわけじゃない。お互いのこれからの生活に、お互いが描けないだけだ。俺はもちろん、万里子もそうだろう。離婚を嫌がる万里子に、じゃあこれからどうしたいのか、どうして離婚が嫌なのか尋ねても、曖昧な答えしか返ってこない。それだけ、万里子自身もこれから先のことや離婚が嫌な原因が分からなくなってきているんだと思う。初めは、離れていく俺に寂しさを感じていたと思う。だけど、今はそれよりも、ただ意地になっているだけなのかもしれない。



「万里、」



呼びかけても、万里子は顔を上げない。気にせずに、先を続けた。



「俺は、万里との今までの生活全部を否定してるわけじゃない。楽しいこともあったし、腹の立つこともあった。それは二人が生活してきた跡だ。万里には、感謝してる。俺が研究に没頭できたのも、簡単に出張で家を空けることができたのも、万里がいてくれたからだ。だけど、二人の間に溝があったのも事実だ。気付いてるだろ?」



万里子が、一度縦に動きそうになった首をぎこちなく横に振り、それをかき消すかのように今度は勢いよく首を振った。



「一昨年、俺がどんな風だったか、万里は覚えてる?」



この質問に、万里子がようやく顔を上げた。質問の意図と答えを求めるように、こっちを見ている。それに小さく笑って、一口だけコーヒーを飲む。



「一昨年まで、論文や研究がぜんぜん評価されてなかったんだ。ずっとぼーっとしてて、楽しいこともあったけど、感情の起伏は今よりずっと低かったと思う。その前の年から准教授になってて、同じ時期くらいから万里は子供が欲しがってた。俺は自然に出来たらって思ってたけど、万里は違ってて、その違いに戸惑ってたこともある」



そこで言葉を切って、視線を万里子に向ける。万里子が、驚いているような悲しんでいるような顔でこっちを見ていた。






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