3
それから、先輩との距離は一気に縮んで。会えば話すし、時間があればご飯も一緒に食べた。その中でも、まだ時々先輩の話の中に、雄大さんはいた。雄大さんは、本当に正直にすべてを話したらしい。相手の人は年上の院生で、いつからその人を気になっていたかまで、すべてを。
サークルというものは、時に面倒なものでもある。夏休みには、メンバー全員参加の合宿があった。もちろん、先輩も雄大さんも参加。先輩と雄大さんの別れを知った他のみんなに気を使わせまいと、先輩はいつも通りに、本当にいつも通りに過ごしていた。何の躊躇もなく雄大さんとやり取りをして、何の躊躇もなく合宿を取り仕切って。誰もかれもが、先輩は大丈夫だと思っていた。
『頑張りましたね』
合宿から帰ってきた時、俺が伝えた言葉。先輩は、それを聞いた瞬間、今までの頑張りが嘘のように、泣き出した。
きれいな恋愛だと信じて疑わない奴や、許されなくても止められないなどとほざく奴らの影で、先輩はあんなにも涙を流した。
***
いつからか、宮瀬ちゃんや古賀に対して『どうでもいい』という気持ちと『腹が立つ』という気持ちがごっちゃになって、それが、あの日に吐き出されていた。
「ぽち、練習しないの?」
先輩の声に、はっとなる。まだベンチに座ったままでいる俺とは違い、先輩はラケット片手に俺の前に立っていた。服は、来た時の私服のまんまだ。
「しんどいから、いいです」
「何言ってんの。若いくせに」
俺の答えに先輩が笑って、俺も同じように笑みを返す。先輩が軽くラケットを振って、コートの方に歩き出す。先輩の後ろ姿を見送る横で、また金網の扉が開いた。俺も先輩も、扉の方を向く。
「あ、」
入ってきた人が俺、というより先輩を見て、声をあげる。
「雄大も、練習?」
コートに入ってきた雄大さんから先輩に目を戻すより早く、先輩が雄大さんに向かって声をかけていた。その声は、どこまでも自然だった。先輩はまだ雄大さんのことを忘れられていなかったり、なんて雰囲気は、その言葉のどこにも感じられない。雄大さんもその言葉をその通りに受け取って、いつものように笑顔を返していた。
「うん。最近身体なまってきてるからな」
「またそんなこと言って」
自然に、何のわだかまりもないように話す二人。雄大さんは持っていた鞄を先輩の鞄の隣に置いて、その向こうに座っている俺に目を向けた。
「犬居も練習か?」
「や、違います」
雄大さんの質問に首を横に振って答え、ふいっと先輩の方を向いた。そして、『やっぱり』と思う。先輩は、あの、悲しさを隠すような顔で雄大さんを見ていた。雄大さんが見ていない時の先輩は、いつも、こんなに泣きそうな顔をする。
どうして、どうして、分かってやれないんだ。雄大さんは。先輩が、今でもまだ、雄大さんの行為に傷付いてるってことを。
「先輩、行こう」
いきなり立ち上がって言った俺に、先輩は「え?」と聞き返す。意味の分かってない先輩を無視して、自分の鞄と先輩の鞄を手に取った。雄大さんも、何だという顔をしている。二人分の鞄を手にした俺に、雄大さんが何かを言いそうになった。それを、睨んで止めさせる。一瞬言い淀んだ雄大さんを放置して、鞄を持ったまま、先輩のところまで歩いていく。
「え、なに。どうしたの」
目の前まで来て先輩の手を取った俺に、先輩も混乱していた。その混乱すらも無視して、今度は扉の方に戻る。
「ちょ、どうしたの。ぽち」
「犬居、何やってるんだ」
二人同時に言葉を発してきて、耐えられなくなった俺は、扉の手前で止まり、くるっと二人を振り返った。
「何やってるんだはこっちのセリフでしょう! 何やってんですか、雄大さんは。自分のしたことで、先輩が傷付いてないと思ってるんですか? もう平気だと思ってるんですか? 先輩も、何で平気な振りするんですか。浮気されて、それが本気だって言われて、平気なわけないんでしょう? だったら、そう言ってやったらいいじゃないですか。態度で示したらいいじゃないですか。顔も見たくないんだったら、見なきゃいいんですよ。泣きたかったら、気の済むまで泣けばいいじゃないですか」
いきなり怒鳴り散らした俺に、雄大さんは固まったまま動かなくなった。手を掴んだ先の先輩の顔から、どんどんとさっきまでの平気な顔がなくなっていく。
「行こう、先輩」
もう一度促して手を引けば、先輩はゆっくりと頷き、俺の後についてきた。コートを出た後ろで、ガシャンと扉が閉まる。
そのままキャンパスを少し歩いて、メイン広場の噴水前まで来た。
「ありがとう」
後ろから先輩の声が聞こえて、歩いていた足を止める。振り向いた先にいる先輩は、泣きそうな顔を隠すことなく、それでも笑みを浮かべていた。この笑みは、作られたものじゃない。感謝の意味が入った笑顔だ。
「ぽちのおかげで、何かやる気出た。当分許してやんない。あんなやつ」
本当にいつも通りの先輩に戻って、俺にも笑みが浮かんでくる。
「ご入り用の時はいつでもどうぞ」
俺の言葉に先輩が笑って、俺も同じように笑った。
先輩が俺の手をほどき、「ん」と手を差し出してくる。その手が鞄を指しているのだと気付き、持っていた鞄を先輩に手渡した。
「いぬいー!」
鞄が先輩の手に渡ったところで、右手側から松木の声がした。そのあまりの大きさに、噴水の周りにいた何人かが松木の方を向く。それから、呼ばれたのが俺だということに気がついて、今度は俺の方を向いてきた。あの、バカ。
「何だよ。学校来てるなら連絡しろよ。つーか、メールしただろ」
「うっさい」
目の前に来た早々、ぐちぐちと文句を垂れる松木。面倒くさくなって一言返した頃には、視線が隣の先輩にいっていたものだから、もっと腹が立つ。
「あ、若菜せんぱい。こんにちはーっす」
「こんちは。元気だねー。いつも」
さっきまでの泣きそうな顔はどこにいったのか、今の先輩の顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
松木も、先輩に何度か会っていた。というか、学校でのほとんどを俺と古賀と松木の三人でいるから、必然的に俺と先輩がすれ違う時に他の二人も会うことになる。
「そういやさ、古賀って学校来てんの?」
先輩と一通りの挨拶を終えた松木が聞いてくる。『古賀』という名前にさっきのやり取りを思い出して、怒りやら何やらといった気持ちの悪い感情がぐるぐると胸の中を回るのを感じる。
「さあ? なんで?」
自分の中ではいずり回る感情を無視して、さらっと嘘をついた。俺の答えを聞いて、松木が「おかしいな」と首をひねる。
「さっき古賀っぽい奴見たんだけど、違ったのかな。声掛けても無反応だったし」
「ふーん。無反応なら、違うんじゃない?」
そうかなあ、と未だ首をひねる松木。
たぶん、松木が見たのは本当に古賀だ。けど、古賀がそれを無視した。松木が自分といれば、俺が気まずくなるとでも思ったんだろう。そういう、変なことに考えが回る奴だ。
「3時間目になれば来るだろ。それまで何か飲もうぜ。先輩も行こう」
「いいの?」
「ぜんぜんいいです。行きましょー」
俺の代わりに松木が先輩の質問に答えて、腕を上にあげながら、反対の手で先輩の腕を引っ張ってカフェテリアに向かっていく。松木のテンションに先輩も楽しそうに笑っていて、俺も自然と笑っていた。
古賀は、きっと3時間目になれば、普通にしている。松木に心配を掛けまいと、そうする。そういうところが古賀らしいとは思いつつ、それが原因で美香ちゃんを悲しませてもいるんだ。
古賀と顔を合わせる3時間目を憂鬱に思いながら、楽しそうに先を歩く先輩と松木を追いかけた。




