1
「先生、明日も来ないんですか?」
研究室のデスクで帰り支度をしていると、院生の木田がソファから自分の荷物を取りながら聞いてきた。他の院生も自分たちの荷物をまとめたり、コートを羽織ったりしている。
「ああ。金曜日は来ないって言ってるだろ」
椅子の背に掛けてあったコートを取ってそれを羽織りながら答えれば、木田が不満の声をあげる。
「もー。どうせ春休みでヒマなんだから来てくださいよ。俺、論文見てほしいんですって」
「あー。私も見てほしい!」
「勝手に暇だって決めるなよ」
木田の言葉に数人の院生が賛成の手を上げ出して、こっちは苦笑いを漏らす。
「何で学期が終わったのに金曜だけ来ないんですか」
「俺だってそれなりに用事があるよ。ほら、早く出ろ。鍵閉めるから」
木田や他の院生が文句をこぼす。院生たちを追い出すようにして研究室を閉め、彼らと一緒に棟の外へと向かう。
キャンパス内を歩いてそれぞれバス停や駐輪場に向かう途中でも、木田や他の院生はぶつくさと不満を漏らす。そんな木田たちの声は無視して、「じゃあ来週」と自分の車が止まっている駐車場へと向かった。
「俺、明日も来るんで、気が変わったら来て下さいよー!」
車に乗り込む寸前、木田が駐輪場から叫んだ。返事の代わりに手を上げて、さっさと車に乗り込む。
院生たちからああして毎週のように金曜日も来いとせっつかれ、内心まいったなと思う。今学期は彼女の大学で講義をしていたせいもあって、金曜日は研究室に顔を出していなかった。本来なら学期が終了した今は時間に余裕もあるので、行こうと思えば行ける。だが、金曜日は唯一彼女と会っている日でもあって、俺自身それを外したくはなかった。そんな理由を院生に言えるわけもなく、適当に誤魔化して今日まで来てるわけだが。春休みだというのに、それなりに研究室に顔を出す自分の院生たちを考えて、真面目なのは良いんだけどと複雑な気持ちになる。そうして一息ついてから、車のエンジンをかけた。
新しく借りたマンションは、大学から車で三十分ほどのところだ。それなりに近いといっても、大学の最寄り駅を挟んで反対側にあるので、知り合いに会うなんてことはまずない。近くの店で夕飯の買い物を済ませて、住宅地の方へと入っていく。マンションの入り口が見えてきて、駐車場となっている一階部分に車を入れた。その時に、エントランスの前で誰かがコンクリートブロックに座っている気がしたけど、誰かを待っているんだろうと決めつけ、特に気にすることもなかった。車を自分の駐車スペースに止め、荷物と一緒にエントランスへと向かう。エントランスまで来て、そこにいたのが誰だかようやく分かった。予想もしてなかった人物に、思わず足が止まる。向こうも歩いてきた俺に気がついたよう
で、ゆっくりとブロックから立ち上がった。
「なんで、ここに?」
近付きながら問えば、彼女――春希は困ったように首を傾げた。
「古賀さんから、教えてもらった」
いつもかついでいるリュックの肩ひもを両手で握って、こっちを見上げて彼女は言った。
確かに、古賀という彼にはここのことを教えてある。そうしたのは、彼女が何か吹っ切れたとき、彼に真っ先にそれを言うと思ったからで、そうすれば彼の口からここのことが彼女に伝わると思ったからだ。そうは思っていたが、こんなに早く彼女が現れるとは思っていなくて、未だ少し困惑してしまう。
「全部、聞いたから。古賀さんから」
彼女の言葉に「そっか」としか返せず、それが自分の驚き具合を物語っていた。
「入っても、いい?」
彼女はこちらを見上げて、そう尋ねた。その顔からは不安の表情が見てとれる。それを見て、自分の中にあった困惑が少しずつとれていった。何も考えずに、彼女はここに来たわけじゃない。古賀という彼も、考えなしにこのことを伝えるはずもない。
不安に揺れる彼女を安心させるよう笑みを浮かべ、「いいよ」と頷いた。
エントランスにあるオートロックを開錠すると、目の前の自動ドアが開く。彼女の先に立ってマンション内に入り、エレベーターのボタンを押した。エレベーターを待つ間、横に立つ彼女を見れば、未だ不安げな表情をしている。荷物を片手で持って、空いた手で彼女の手を取った。彼女がぱっとこちらを見上げてくる。それに笑みを返し、ちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。
6階でエレベーターを降り、彼女の手を引いて角部屋になっている自分の部屋へと進む。
「適当に座ってていいよ」
鍵を開けて、まず彼女をリビングへと通した。自分はリビングと続いているキッチンへと入っていき、買ってきたものを冷蔵庫へと仕舞う。一通り片付けたところで何か飲むかと尋ねようと対面になっているキッチンから顔を出すと、リュックも下ろさず、コートも脱がずな状態でリビングの入り口の方で立ったままでいる彼女が見えた。
「どうしたの?」
キッチンから出て彼女のそばに立って聞けば、彼女はまたしても困ったように笑う。
「ん。けっこう揃ってるんだなあって思って」
リビングを見渡して彼女は言った。
「ああ。まあ、入居してそれなりに経ってるからね」
鞄を対面キッチンになっているテーブルに置いて、俺も同じようにリビングを見渡して彼女の言葉に答える。リビングのものはさすがに元の家から持ってこれるものもなく、ほとんどが新しく買ったものばかりだ。リビングと続き部屋になっている寝室兼書斎は、デスクや棚だけ自分の書斎からそのまま持ってきてある。ベッドは新しいが、部屋に備え付けのウォークインクローゼットがあったのでその分の支出は出さずに済んだ。
そのことを言うか言うまいかと頭で考えていると、とんと身体に小さな衝撃を感じた。見下ろせば、彼女が抱きついてきている。驚きはしたが、彼女がこれほど自分から触れてくることなどあまりなく、離すことはせずに片手で髪に撫でるように触れた。
「わか、れた。彼氏と」
「え?」
顔を胸に埋めたまま、彼女が呟くようにして言った。内容は理解したものの、反射的に聞き返してしまう。彼女は顔を上げ、少しだけ俺から距離をとった。背中に回されていた手が、ぎゅっと俺のコートを握りしめている。
「別れたの。彼氏と」
「えっと、いつ?」
「一昨日。いろいろ揉めたけど、やっと終わった」
「そう、なんだ」
彼女からその言葉を聞いて、嬉しく思う自分がいた。彼氏がいるままでも構わないと言ったのは自分だが、彼女がその彼氏と離れたと聞いて、彼女に触れられるのが俺だけだと思うとやはり嬉しくなる。
「友達にね、あっちが浮気してるって聞かされて、何か吹っ切れちゃった。もう、いいやって。で、円満とはいえないけど、ちゃんと別れた」
そう言う彼女の顔はすっきりとしていて、俺の方も笑みが漏れてしまう。だけど、彼女は視線を下げてその顔を隠す。
「それで、その日のうちに永井さんに言おうと思ったんだけど、いろいろ考えちゃって、言えなかった。私ばっかり楽になって、それが永井さんにプラスになると思えなくて」
「そんなことないのに」
彼女が言っているのは、当たり前に俺と万里子の問題のことだ。自分が別れたことを伝えて、俺に負担が掛かると思ったんだろう。彼女がそう考えても仕方ないと思うが、俺はそんなこと気にはしない。むしろ、彼女からそれを聞けば喜んでいただろうと思う。
「私、永井さんのこと考えてるつもりだったけど、古賀さんから永井さんのこと聞いて、やっぱり自分のことばっかりだなって思って。永井さんは、ちゃんと考えててくれたのに、私はそれに気付かないでずっと変にぐらぐらしてて。ごめ……」
彼女が最後の言葉を言い切る前に、唇を重ねてそれを防いだ。ゆっくりと彼女から離れて、頬を撫でる。
「謝る必要なんてないよ。君からの『ごめん』はもう聞きたくない」
「あるよ」
泣きそうな顔で、彼女は首を横に振った。




