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目の前に立つ人を見て、酔いが一気に醒めていく感じがする。
「な、なにやってんの? ここで」
「君こそ、何やってるの?」
珍しく私の目の前に立つ人も――永井さんも、私と同じように混乱している。
「今日、飲み会だって言ったじゃん」
「え、ここで?」
「うん」
夕方に会ったときに飲み会のことを話していたので、永井さんも今日のことは知っている。ただ、場所がこことは知らなかったのだけど。
「ていうか、永井さんがここで何してんの?」
私は、たぶん、この場で最もな質問をした。永井さんとは、いつもの大学の近くの商業施設で別れたし、永井さんの家は二つ隣の県だ。私には、今永井さんがここにいる理由がまったく見当もつかない。
「いや。君と別れたあと、あそこで知り合いの教授に会って、一緒に飲まないかって誘われたんだ。他にも何人か来るからって言われて」
「あ、そうなんだ」
永井さんの言葉に納得して何回か頷く。納得したものの、こんなところで会うとは思ってなかったから、未だに混乱が抜けきらない。さっきまで永井さんが話題に挙がっていたんだから余計にだ。
永井さんの方はだいぶ気持ちが落ち着いたらしく、今はいつも通りの表情になっている。代わりに、今度は少し眉をひそめて私を見下ろしてきた。そして、手の甲を私の頬にそっと当てる。
「だいぶ飲んだでしょ?」
「え? あ、そう、かも」
「かもじゃなくて、飲んでるよ。顔が熱い」
言われて、触れられていない方の頬に自分の手を当てる。確かに、少し熱いかもしれない。
永井さんは私の頬から手を離して呆れたように息をついた。
「自覚してないなら少しペース落としなよ?」
「うん」
また、だ。永井さんはこんな風に、私との距離を詰めてくる。過保護にも思えるこの気遣いが、物理的にも精神的にも、永井さんとの距離を狭めている気がした。
永井さんの言葉に頷きながら、気付かれないように視線を永井さんから外す。
「宮瀬? 何やってんだ?」
そろそろこの場から離れようと思ったとき、永井さんの後ろから古賀さんの声が聞こえた。永井さんが少し脇にどいて、私から古賀さんを見えるようにしてくれる。
「え? 別に? トイレ行こうと思って」
「ふーん」
古賀さんは私の言葉に相槌を打って、私の近くまで来る。永井さんの隣まで来て、ちらっと永井さんのことを見たけど、特に何をするでもなく「どうも」とだけ言ってホールの方へと戻っていった。
「バイトの人?」
「うん」
永井さんの言葉に頷くと、永井さんは「そっか」と言って古賀さんが歩いていったホールの方を見ていた。けれど、それも少しの間だけで、すぐに私の方に向き直る。
「じゃあね。ちゃんと気をつけて飲むんだよ」
「分かった」
そう言って、永井さんは自分の席へと戻っていった。
せっかく、今日はもう何も考えないでいようと思っていたのに、早い段階でその思いも壊されてしまった。それでも、これ以上はもう何もないだろうと考えなおして、当初の目的のトイレに向かうことにした。
トイレから戻ってくると、既に酔いの回っているメンバーが何人かいた。永井さんのことで騒いでいた女の先生のうち一人が、酎ハイのジョッキを片手に他の先生と彼氏との愚痴を言っている。男の方を見れば、唯一彼女がいる男の先生に向かってぎゃあぎゃあと何やら文句を言っていた。
自分の席に戻り、残っていた酎ハイを一気に飲む。ちょうど来ていた店員さんに今と同じものを頼んで、後ろの壁に寄りかかった。
「さっきの人、永井さん?」
壁に寄りかかって携帯をチェックしていると、隣から古賀さんが尋ねてくる。
「うん、そうだよ。何か、学校帰りに知り合いに会ったらしくて、連れて来られたんだって」
「へえ」
古賀さんは適当に相槌を打ちながら、料理を口に運ぶ。私も何か食べようと携帯を置いて、箸を手にとった。目の前にあった揚げ物類に箸をつけた時、テーブルに置いたばかりの携帯のバイブが振動した。テーブルの振動に気付いた周りの何人かが私の携帯を見るも、ほとんどがすぐに自分たちの会話に戻った。携帯は私と古賀さんの間に置かれていて、私は手にとった揚げ物を小皿に移してから携帯の画面を覗き込んだ。古賀さんも同じように、ちらっと私の携帯を見ている。画面に表示されている番号を見た瞬間、反射的にばんっと手で画面を覆ってしまった。その行動に驚いた何人かが、どうしたというようにこちらを見てくる。
「何でもない」
周りの人にそう言いながら、携帯を手に立ち上がろうとした。が、酔いが回ったのか、立ち上がる途中で思いっきりよろけてしまい、古賀さんの方に倒れ込んでしまう。古賀さんが慌てたように私を受け止めてくれた。
「おい、大丈夫か?」
「うん。ちょっと、電話してくる」
周りの、特に女の先生たちが心配そうに私を見てきたが、私は何ともないというように笑ってその場を立った。
酔いの回る頭でホールをなるだけ急いで突っ切る。さっき永井さんと話した場所も通り過ぎて、その先にある透明のドアを開いた。その先は階段になっていて、上に行けば別の店へと、下に行くと外に出れるようになっている。私はその踊り場に出て未だに鳴り続けている携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ、春希? 俺だけど……』
その声を聞いて、思わず溜め息が出そうになるのをぐっとこらえた。
電話の相手は、地球の向こう側にいる彼氏からだった。今日は飲み会があるから電話できないとあらかじめ言っておいたのに。
「なに?」
元から電話は好きじゃない。彼氏の今の近況を聞いたって、楽しいわけもないんだから、電話も楽しく続くわけがない。それに、今日はできない理由も伝えてある。それなのに、それくらいの約束も守ってくれない電話の向こうの彼氏に苛立って、それが口調にも表れてしまう。
『いや、今大丈夫かなと思って……』
「今日は飲み会だからできないって言った」
『そうだけど……』
そうだけども何もない。できないものはできないし、それ以上に電話なんかしたくない。
入り口のドアの横にある壁に寄りかかって、電話を持っていない方の手で額を押さえた。急いで来たからか、頭の中がぐるぐるする。
『最近、ぜんぜん電話してくれないじゃん』
「……前にしたくないって言ったし、その理由も言ったよね」
『でも、俺はしたいし。春希の声が聞けなくてさみしいよ』
『じゃあ、留学なんか行かなければよかった』。そんな言葉が出そうになるのを頑張ってこらえる。何がさみしいだ。人が頑張っていたものを『残念だったね』とだけ言い、自分はちゃっかり私の夢を自分のもののようにして言って勝手に行ってしまい、挙句の果てに『さみしい』だなんて。意味が分からない。
いらいらを抑えようと、こめかみを指でぐーっと押す。
「とにかく、今は無理」
『まだ飲み会なの?』
彼氏の非難めいた言葉に、更にいらっとする。
「まだ始まったばかりだよ。誰かがバーに行ったりするのと同じで、私も飲み会ぐらいあるの」
『俺はみんなが連れてってくれたから……』
「私も、みんなが気を使って誘ってくれる。いちいち私がどこに行くかで文句言わないで」
自分では最大限に苛立ちを抑えたつもりだった。それでも、言葉の節々に苛立ちが混じっていることが、自分でも分かる。おそらく、彼氏にも分かっただろう。彼氏はしばらく黙ったあと、『分かった』と言って電話を終わらせた。
私も携帯のボタンを押して、通話を断ち切る。そのまま、携帯を両手で持ってゆっくりとその場にしゃがんだ。顔を両腕の間に伏せる。
もう嫌だ。何でこんな時に限って電話なんて来るんだろう。楽しい時間のはずが、一気に冷めた気分になる。何で分かってくれないんだろう。今は電話も、メールもしたくない。連絡なんて取り合いたくない。黙って何もないようにこの期間が過ぎてほしい。連絡があるたびに、行けたはずの自分の夢を思い出す。そして、やっぱり行けなかったんだという今の自分を見て、どうしようもない気分になるんだ。
ずっと顔を伏せてそんなことを考える。もう少ししたら、さっきのように戻れる。そう自分に言い聞かせた。
けど、そんな考えを壊すかのようにドアが勢いよく開かれる音がした。
「大丈夫?」
私が顔を上げるより早く、永井さんの声が聞こえてきた。ゆっくり顔を上げると、そこには心配したような顔の永井さんが立っていた。
「うん、大丈夫」
私は大きく息をついて立ち上がり、そう答える。永井さんが近付いてきて、ぎゅっと眉を寄せて私を見下ろす。
「大丈夫じゃないでしょ。そんな泣きそうな顔して」
「まあ、うん。そうだけど、大丈夫だよ」
曖昧に笑って答えると、永井さんの顔が更に険しくなった。そして、私の手に握られた携帯に目をやった。
「電話?」
「うん。ちょっとね」
だめだ。今は会話する余裕なんてない。酔いが回ってるし、さっきの電話でいらいらしてるし、早く席に戻ってしまいたい。けど、永井さんはそれを分かっているかのように、私とドアの間に立って行く手を阻んでいる。そして、私の方をじっと見ろしている。
止めてほしい。今はこれ以上混乱したくない。
「宮瀬? 大丈夫か?」
私が永井さんの視線に目を彷徨わせていると、永井さんの後ろのドアから古賀さんが顔を出してきた。
「古賀さん、」
古賀さんの顔を見た瞬間、自分でも分かるくらい身体の力が抜けた。永井さんも振りかえっていて、古賀さんの方を向いている。古賀さんは永井さんの顔を見たあと、私の方を見て、それから私の携帯に視線を移した。
「ごめん、古賀さん。ちょっと、下行ってくるから、みんなに言っといて」
そう言って肩をすくめると、古賀さんは一瞬だけど眉をひそめた。
「すぐに行くから、下のベンチで待ってろ」
「……うん」
私が頷くのを見て、古賀さんはすぐに店の中に引き返した。
永井さんを見上げると、永井さんも私の方に視線を戻していて、じっとこちらを見ている。私はそれに曖昧に笑って「ごめん」とだけ言い、階段を下りていった。




