がらにもなく
どうして、こんなことになったんだろう。
目の前で楽しそうに話しながらお鍋をつつく彰ちゃんと真田さん、私の隣で「これもどうぞ」なんて言いながらお肉を取ってくれる彰ちゃんのお母さんを見ながら、ぼんやりと考える。
そもそもの始まりは、お昼頃のことだった。
今日は土曜日で、いつもなら永井さんと一緒にいるわけで、午前中から彰ちゃんがバイトしているカフェには行くことはない。だけど、今日は永井さんが学会に行かなければならず、会うことはなかった。前もって言われていたことだけど、いつもなら予定のある土曜日にひまを持て余した私は、まだ余裕があるにも関わらず、レポート作成のためにパソコンと資料を持って彰ちゃんのバイトしているカフェに行ったのだ。
レポート作成も進んだお昼頃、バイトが終わった彰ちゃんが私の座るテーブルにやってきた。いつもは来ない日に私が来たことが不思議だったらしい。永井さんに用事があることを簡単に話し、ついでに成績が伸び悩み中だという彰ちゃんの勉強の手伝いもしていると、突然彰ちゃんが言った。
『うちにご飯食べに来ませんか?』
聞けば、今日はお父さんがおらず、お母さんと彰ちゃんと真田さんの三人でご飯を食べるとのこと。とはいっても、ほとんど面識のない人と初対面の人と夕飯を共にするなんてこと、人見知りの私にできるわけもなく、丁重にお断りした。初めは。いきなり人数が増えると、お母さんが大変だからと。
が、ここでは彰ちゃんの方が上手だった。
『大丈夫ですよ。お母さん、今日はお鍋にするって言ってたから、そこまできっちり計算してないと思います』
『あ、そう』
「はい」と元気よく返事する彰ちゃんに、気の抜けた返事しかできなかった。
でも、『お鍋』と聞いて、行きたい気持ちが出てきたのも事実で。残念ながら、一人暮らしをしている今では滅多にお鍋を食べることがなかった。友達とやることはあるものの、そこまで頻繁にではない。加えて、気候はもう本格的に寒くなっている。カフェの外に目を向けても、コートを着ている人ばかりだ。
知らない家に行くことへの回避の気持ちとお鍋を食べたいという欲求が戦って、結果として、欲求が勝った。
ああ、なんだ。結局、自分の欲求に負けたんじゃないか。なんて、ようやく、今のこの状況を飲み込めてきた。
飲み込めたことで、やっと、久しぶりのお鍋の味も美味しく感じられてくるし、会話にも気を配る余裕ができてきた。
不思議なことに、彰ちゃんはよく知らない私に好意の目を向けていて、お母さんと私が初対面だということも気にせずに、お母さんに向かって私がカフェでどれだけ勉強しているかを聞かせていた。お母さんもお母さんで、「そうなの」と疑うこともせずに私に「すごいわ」なんて言葉を掛けてくる。それから真田さんが建築関係の仕事をしていることを知って、今は郊外のアウトレットモールの建設にも関わっているらしいことを聞いた。
彰ちゃんのお父さんは真田さんのことは知っているものの、簡単に認めてしまうのは癪だと思ってるということも知れた。それに対して、お母さんが「意地になってるだけよ」と気にも掛けていないことも。
「明日はちょっと遠いところに行くんです」
「へえ。どこ行くの?」
夕飯も終わりかけになってきた頃、彰ちゃんが楽しそうに言った。どうやら、彰ちゃんと真田さんは明日デートするらしい。
「二つ隣の県なんですけど、駅ビルに有名なパティシエの支店ができたみたいで。二人で行ってきます」
「お土産買ってくるね」と彰ちゃんがお母さんに続けて伝える。
「ああ。そういえば、一時期すごい行列ができてたときあったなあ。今もけっこう並んでるよ」
彰ちゃんの言っている支店は、たぶん、永井さんの住んでる県にできた駅ビルのことだろう。二、三週間程前に永井さんと出掛けた駅ビルですごい行列を見かけたことをある。中に入ることはしなかったけど、後で調べたら新しいお店がオープンしたことを知った。そのことを思い出して、何にも考えずにそれを口にする。
「春希さん、行ったことあるんですか?」
「へ?」
きょとんとして問われた言葉に、はっとなる。
「あ、ううん。行ったことはないけど、知り合いと見かけたことがあったから」
「ああ、そうなんですか」
半分本当のことを言えば、彰ちゃんは納得して、明日の予定を真田さんと相談し始める。それにほっとして取り皿に残っていた野菜を口に含んだ。
別に永井さんとのことを話すのが嫌とかではなくて、何となく、気恥ずかしいだけだった。特別親しいというわけでもない彰ちゃんや真田さんに簡単に話せるほど、永井さんとの仲を実感できてもいないし。ましてや、初対面のお母さんもいる中で、恋人のことなんか話せない。
それでも、目の前で楽しそうに話す彰ちゃんや真田さんを見ていると、少しだけ、永井さんに会いたくなった。
***
近くまで送っていくという真田さんや、危ないからと止めようとする彰ちゃんやお母さんを説得して、一人で原付で家まで帰ってきたのは9時を少し過ぎていたころ。それからお風呂に入って、髪を乾かして、ぼんやりとテレビを見ていたら、時間は10時半に差しかかっていた。
二人掛けのソファに転がった携帯を視界の端に捉えて、少し迷ったあと、それに手を伸ばす。アドレス帳から永井さんの番号を表示させて、いざ、という時にまた迷った。
ただ声が聞きたいと思ったことなんて、今まで一度もなかった。元から、電話はあまり好きじゃない。メールや電話をするのは、連絡事がある時だけだ。はっきりいって、元彼と付き合っていたときは、向こうが逆に『声が聞きたくて』と掛けてきたのをうっとうしいと思っていたくらい。
「なんでかなあ……」
仲の良い彰ちゃんと真田さんを見たからか、たまたまそういう時に永井さんといなかったからなのか、どうしても、永井さんの声が聞きたくなった。欲をいえば、会いたくもなった。
それからうだうだと五分程迷っていたものの、どうせ悩んだままならと、思いきって発信ボタンを押した。
『もしもし?』
二、三回のコール音の後、永井さんの少し驚いたような声が通話口から聞こえてきた。
「永井さん? 今、大丈夫?」
『うん。大丈夫だけど、どうしたの? 珍しいね』
私の性格なんてお見通しらしく、率直な言葉に少し笑ってしまう。すぐそばにあったチャンネルを手にとって、テレビの音量を下げる。
「んー。ちょっと、声聞きたくなって」
『ええ? ほんとに珍しいね。何かあった?』
「ううん。何にもないけど、聞きたくなった」
『ほんとに?』
「うん」
『なら、嬉しいね』
電話の向こうの永井さんがおかしそうに笑う。だけど、私の言葉を疑ってるようではなかった。
「学会、どうだった?」
『うまくいったよ。っていっても、今回は大規模なものじゃなかったし、学会そのものよりも開催場所に行くので迷って大変だったけど』
永井さんの言葉に、今度は私が笑う。
今回の学会は郊外の大学で行われたものらしく、それも山の上に建っているとかで、ナビをつけても大変だったらしい。
『そっちは? 何してたの?』
「ん? 勉強して、彰ちゃんと会って、彰ちゃんの家でご飯食べてきた」
『ほんとに?』
「ほんとに」
またしても、永井さんが笑い声をあげる。普段、私がどれだけ人見知りかを知っているから、ほとんど知らない人の家に行ったことが意外みたいで、面白いみたいだ。「お疲れ」と言いながらも、まだ笑っている。
『来週、どこか行きたいところある?』
ひとしきり笑ってから、突然永井さんが尋ねてきた。
「え、特にはないけど。なんで?」
『今週は会えなかったから、どこか連れてってあげようかと思って』
いつも通りの優しい口調で言われて、思わず笑みが浮かぶ。
会えなかったといっても、それは前もって知らされていたし、その前の金曜日には会ってくれていたのに。
「行きたいところはないけど、」
『けど?』
一旦言葉を切った私に、永井さんが続きを促してくる。少し間を置いて、もう一度口を開く。
「二人でいたい」
言ってから、電話の向こうで永井さんの言葉が止まる。どうしたのかと思っていると、すぐに通話口から永井さんが苦笑いしているような声が聞こえてきた。
『ほんとに、たまに嬉しいこと言ってくれるよね』
「たまにって」
『ポイント押さえてくるって言った方がいい?』
「なにそれ」
『電話も、嬉しいしね』
茶化すような口調が、突然優しいそれになる。そうやってストレートに言われてしまうと、何だか自分のしたことが急に恥ずかしく思えてきた。
ぽんっと思い出したのが、学校の授業前に「この間ねえ」なんて言いながら嬉しそうに惚気る女の子たち。たいてい、そういう時、私は『よくやるなあ』なんて感心とも呆れともとれることを思っていた。
『少しずつでいいよ。そういうの慣れてくのも』
「人を変人奇人みたいに言うのやめてください」
『変人奇人とまではいかないけど、十分変わった子だとは思ってるから。まあ、そういうところも好きだからいいけど』
「どうもありがとうございます」
『どういたしまして』
くすくすと控えめにだけど、おかしそうに笑う永井さん。私の方はいきなりそんなこと言われて憮然となっている。
『来週は、ゆっくりしようか。俺も、会いたくなった』
憮然としたまま永井さんの笑い声を聞いていると、それが止んで、ふと優しい声でそう言われた。さっきまでの憮然とした気持ちは呆気なくどこかに飛んでいく。
「うん。会いたいよ。私も」
そう返せば、電話の向こうで永井さんが優しく笑った気がした。
声だけで寂しいのが解消されるなら、電話もなかなか良いものなのかもしれないと思った今日この頃。




