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ばさっと、テーブルから資料が落ちた。
誘いのあった大学から送られてきた、詳細の資料だ。床に落ちたそれに溜め息をついて、乱雑にリビングのテーブルに投げる。テレビの横に置いてある卓上カレンダーを見て、また溜め息が漏れた。
彼女と話してから、三週間が経っていた。彼女からの連絡は、ない。
彼女は彼を選んだんだろうか。まだ、迷っているんだろうか。そんな答えの出てこない考えをいつだって頭の隅で考えながら、この三週間を過ごしてきた。今日は金曜日で、前までなら、夜のこんな時間は彼女と二人ソファに並んでテレビを見ていた。一緒にカフェに行って、夕飯の支度をして、それを一緒に食べて。今まで当たり前になっていたものが急に生活の一部から消えてしまって、何ともいえない空虚感に襲われる日が続いていた。この部屋は、こんなに広かっただろうか。
何度も考えたことを考えるなと自分に溜め息をついて、キッチンに行き、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。タブを開けて、一口飲む。独特の苦みがして、逆に頭が冴えていく気がした。これで、三本目だ。一人の時にここまで飲むなんて、相当やられている。
考えても仕方のないことだと無理やり彼女のことを追いやって、今度の学会の資料でも作ろうと書斎の方に足を向ける。リビングまで戻った時、玄関のチャイムが鳴った。彼女かとも思ったが、すぐにその考えを打ち消す。どうせ、何かの勧誘だろう。無視して書斎に行こうとして、今度は控えめに玄関のドアがノックされた。
「しつこいな」
一言呟いて、ビールを対面カウンターに置き、玄関へと向かう。覗き穴で向こうを確認することもせず、やや乱暴にドアを開いて、そこにいた人間に目を見開いた。
「は、るき」
いつものコートに、リュックを背負った彼女が、そこにいた。いきなり開かれたドアに驚きつつも、その目は泣きそうになっていた。
混乱とアルコールで上手いこと頭が回らないながらも、彼女を部屋の中に入れる。彼女も「お邪魔します」と、俺の後についてきた。
「どうしたの?」
リビングまで来て、彼女を振り返る。振り返った先にいる彼女の目が、さっきよりも泣きそうになっていた。どうしたのかと思い名前を呼ぶと、その目が今度は俺に向けられる。
「行くの?」
「え?」
「だいがく……」
泣きそうな声で出された言葉に、はっとなって後ろを振り向く。さっき投げた資料が、テーブルの上に広がるようにして乗っていた。それを見ただけでどうしてそのことが分かったのかは分からないが、彼女が混乱していくのだけは見当がつく。説明をしようともう一度彼女を振り返ろうとして、その前に後ろから軽い衝撃が伝わった。服を軽く掴まれ、たぶん顔を背中に押し付けている。
「行かないで……」
「春希?」
ほとんど泣いているような声だった。名前を呼ぶと、さらにぎゅっと服を掴まれる。
「行かな、で……。行ってほしくない。そばにいてほしい。永井さんと、いたい……」
声も身体も震わせて伝えられる言葉に、何を言えばいいか分からなくなる。次に出された言葉で、やっと身体が動いた。
「永井さんが、好きなの」
瞬間、服を掴んでいる彼女の腕を取って、自分の方に引き寄せた。両腕を彼女の背中に回して、強く抱きしめる。震える彼女の手は、俺の胸に添えられていた。
「おねが……。勝手だって分かってる。でも、行ってほしくない」
「行かないよ」
抱き締めたまま答えを返せば、彼女がゆっくりと顔を上げた。彼女の目から、涙が伝わっている。それを、嬉しく思った。あれほど自分の感情を隠していた彼女が、今は泣いて俺に訴えている。それが嬉しくて、知らず知らずのうちに笑みが漏れてくる。
「でも、」
彼女の目が、俺の後ろにいく。もしかしなくても、その視線の先にあるのは、あの資料だ。片手を彼女の背中から離し、頬に添えて彼女の視線をこっちに戻す。
「その話なら断ったから。あれは、行き違いで来たんだよ。俺は、君から離れたりなんてしない」
彼女の涙は止まらない。本当かと、目で問うようにして俺を見上げている。それに微笑んで、頷く。
「君と一緒にいたいっていう思いもあったし、まだこっちで研究できることもある。行くなら中途半端に行くんじゃなくて、もっと知識をつけてから行くよ」
伝えた答えに、彼女が「よかった」と顔を伏せた。頭を俺の胸に当てて身を寄せてくる。応えるように、俺も彼女の身体を抱き締めた。
「……俺が、好きだって言ったよね」
少しの間抱き締め合って、彼女が落ち着いた頃に、問い掛けた。彼女は少し間を置いて頷く。それからゆっくり顔を上げて、俺との間に隙間を作った。それでも、彼女の手は俺に触れたままだ。
「ずっと、ずっと頼ってきたのは古賀さんだった。永井さんと会ってからも、頼るのはいつも古賀さんだった。でも、それだけじゃだめなの。会いたくて、会えなくなるって思って苦しくなるのは、永井さんなの」
最後の方でまた泣き声になって、それでも彼女は思いを告げてくれた。誰かに手を引いてもらったわけじゃない。彼女自身が出した答えだ。それが、嬉しい。
「会えなくなったりなんてしないよ。俺は、春希のそばにいるから」
また溢れる彼女の涙を手で拭って、彼女に笑いかける。そのままその手を頬に滑らせ、ゆっくりと撫でた。彼女の目は潤んでいるが、もう涙を溢れさせてはいない。じっと、俺を見ている。俺も彼女の目を見る。頬に触れていた手を彼女の頭に回して、ゆっくりと近付けた。
重なった唇から、彼女を感じる。触れたくて、触れたくて、仕方がなかった。離れてもまたすぐに重ねて、離したくなくて、もっと彼女を引き寄せた。邪魔な彼女の鞄を下ろして、これ以上ないくらい彼女を抱き締める。彼女の腕がゆっくり俺の首に回って、それに応えてくれる。
「すき。永井さんが、好き。永井さんじゃなきゃ、やだ」
「今ここでそれは、すごい殺し文句だね」
「だって、今言わないと、どっか行っちゃいそうなんだもん」
合間に言われた言葉に、少し距離をとって、苦笑いしてしまう。思いを全部表すかのような言葉で、彼女は回している腕にさらに力をこめた。その行動からも彼女の思いが伝わってきて、どうしようもなくなる。
あけた距離をもう一度なくして、止めていた枷を外して、衝動に任せて、何度も彼女と唇を重ねた。
堪える彼女の声も、上がる彼女の呼吸も、どれもこれも手放したくはない。少しも放したくないと、深く、深く、彼女を求めた。




