091話:プロローグ
英国の騒動を経て日本に戻ってきた頃が、年末である。正確にはクリスマスなどの様々なイベントがあったのだが、落ち着いたのは年末。もう次の年が顔を見せ始めようとしている頃合いだった。
そうして訪れた新年。煉夜は、たまったアドベンチャーゲームを消化しながら年明けを迎えた。特に好きなブランドから新作が出ていたので、煉夜は「Ctrl」キーを押したり離したりを繰り返して、画面とにらめっこしていたために、新年を迎えたのに気づかなかったほどである。
そんな新年には、司中八家の恒例行事とも言えるものがある。新年の挨拶回りである。京都司中八家は、【楯無】の武田家を除いて、大抵が表向きの事業を行っている。その表向きの事業に関する挨拶回りがあるのだ。また、裏の方面でも政府側や様々な伝手に挨拶回りをしなくてはならない。
さらに雪白家では、今回解決した天城寺家の召喚未遂事件や英国王室とのつながり、その件での政府への貸しなどから、裏方面での挨拶に来るものが増えることもあって、寝正月などもってのほかの大忙しな正月になっていた。
分家筋とはいえ、雪白家の人間である煉夜は、家にいるとわざわざ挨拶に来る人間がいることが煩わしくてしょうがなかった。しかし、わざわざ挨拶にくる人を無碍にするのは申し訳ないので、軽い対応はしていた。
そんな生活がいい加減鬱陶しくなった煉夜は、ついに家を出て散歩にでた。実は火邑が最初の火からきいの家に泊まりに行っているのだ。流石に分家とはいえ、兄妹のどちらもいないのは外聞が悪いと思い、留まっていたのだが、限界が来たのだ。
冷え込みの強い寒空の下、煉夜は小さくため息を吐いた。吐いた息が白く、冬を実感させる。
「はぁ、ったく、いつの時代、どこの世界も、お偉いさんのやることは変わらないなぁ」
煉夜が居た世界でも挨拶回りという名のごますりは頻繁に行われていたし、挨拶をさせるために貴族が訪問して回るというのもよくあった。どこの時代、どこの世界でもやることは変わらないのだと、人間の知能は環境に依存するらしいことに嘆いた。
「さて、と、久々に、その辺を歩き回るとするか」
散歩という行為について、煉夜は嫌いではないと答えるだろう。むしろ、どちらかといえば好きな部類に入る。そもそも、向こうの世界では、車や電車の様な交通手段はなく、基本的に歩きか馬という移動になっていた。馬に乗れないわけではないが、何かと厄介ごとに巻き込まれることの多い煉夜と【創生の魔女】は、馬を避けていた。
煉夜の持つ聖剣アストルティは、刀身の長さの関係上、騎乗時に使うよりは普通に使う方がいい。それに慣れた馬ならまだしも、普通の馬だと煉夜や【創生の魔女】の使う魔法の強さに驚き暴れたり逃げたりする。
そんな状況なら歩きで行動したほうがいいのだ。幸いなことに、移動用の魔法も幾つかある。英国でウェールズを探索したような身体強化で十分に馬以上の成果が出せた。普通なら魔力か肉体が限界を迎えるので真似はできないが、煉夜と【創生の魔女】はそれが可能だったのだ。
そうして歩くことが多かった煉夜にとって歩くことは苦ではない。それに、街の探索などはいざという時の逃げる経路の確保などの意味でもよく行っていたが、向こうならではの発見やその街ならではの発見などがあって、煉夜の趣味の一つでもあった。
ましてや、向こうの世界の様に、街や都市が壁で囲まれていて、狭い空間で区切られたものではなく、断続的に街並みが続いている日本の街は、煉夜にとって逆に目新しいものがある。
「まあ、戦争もなけりゃ、魔物もいない、そして、海っていう絶対の壁に囲まれてるのがデカいんだろうな」
日本において、陸続きの大陸にある国との違いは、周囲を海に囲まれていることである。それにより、直接大規模な軍隊が侵攻してくるということはなく、来るとしたら空か海からである。
空から来るにしろ、海から来るにしろ、飛行機や船の乗員の限界がある。それによって、大規模な軍隊を一気に投入するということが難しいのだ。
戦国時代の様に、各々の国という支配地を持っている状態では、高い位置に城を建てることや御堀などが必要であった。
しかし、江戸時代以降の国内戦争が激減した統一国家において、一揆や犯罪者などはあるものの、常に戦争をしているわけではないので、壁で囲まれるようなことはなかった。
日本において、地方と都市という言葉があるが、ヨーロッパにおける地方と都市とは別種の概念になってしまっているのもこれが関係している。
ヨーロッパにおいて、地方と都市は明確に区別されている。都市は壁で囲い、他国からの侵攻に耐えうるものにする守りを強固にしていたが、農村の様な地方は壁の外に会ったのだ。これが完全な区別である。
日本においては、地方都市などという言葉あるように、その境目は曖昧である。東京という都市の中にも地方や都会が存在するように、酷く曖昧なのだ。
「まあ、平和ボケなんだろうな」
煉夜はそう呟いた。煉夜がそう思うだけのことが実際にこの日本では起こっていた。この国を守るべき存在である陰陽師が、己が意地と一時の感情だけで、国を滅ぼしかねないものを召喚しようとしたり、古い家の長が家の秘宝のために他家に強襲をしかけたり。
意地は確かに必要だ。家や一族を大事に思うのも大事なことだろう。しかし、向こうでは無謀としか言えないものだった。特に国を危機にさらすのは無謀とかそういうレベルではない。
「いや、この場合は、俺が世間知らずってことになるんだろうけど」
世間とのずれという意味では、煉夜が一般世間とずれているので、世間知らずということになる。
「……ッ、イブライエ?」
知覚領域に入ったそれに思わず煉夜は声を漏らす。イーブラ=イブライエの反応に、思わず眉根を寄せざるを得なかった。
「んな、アホな。ここは日本だぞ、それも、この現代で、イブライエが存在するはずがねぇ!」
イーブラ=イブライエ……幻界幽定街道。煉夜ですら2、3度見たことがあるくらいの珍しい現象である。
「ファグネス卿でもいんのかよ……!」
魔力を脚に込め、イーブラ=イブライエに向かって駆けだした。無数の気配に思わず舌打ちをする。
幻界幽定街道・イーブラ=イブライエは、いわば霊界や幽界、死者の世界との通路みたいなものである。正確に表現すると異なるのだが、簡単に言えばそういうものである。煉夜の感じた無数の気配は、霊魂の類か幽霊などの魔物化した霊魂かである。そして、イーブラ=イブライエが開かれているときに大抵出現するのが魔物化した霊魂なのだ。
だからこそ煉夜は舌打ちをした。
「手持ちの道具じゃ不十分かッ……、チッ」
監視さえなければどうにかする手は無数にあるが、流石に監視を誤魔化しながらどうにかするのは難しい。
「せめてアストルティがあればな……」
スファムルドラの聖剣アストルティはその名の通り聖剣であるため、邪悪な魂を浄化するくらいの芸当はできる。しかし、その肝心の聖剣は煉夜の自室に置いたままである。取りに戻っている暇はない。
「言ってても仕方がないか。とりあえず行くっきゃないな」
そんなことを言っているうちに、イーブラ=イブライエは近くなっていた。もう、目前というところで奇妙な感覚に襲われる。
まるで周辺の空間が別離しているかのように、歪んだ。先ほどまで疾走していた一般的な住宅街の道ではなく、まるで禍々しい地獄の道の様な趣の、暗くおどろどろしい場所だった。別離された空間に入った所為か、煉夜についていた監視の式は全て、隔離されている。
つまり、煉夜は位相のズレたイーブラ=イブライエに侵食された空間に入り込んだのだ。式たちは、現実世界において、煉夜のいる位置を監視しているが、位相がズレた位置にいるために、式には何も映っていない。
「侵食が進んでるってことは、ファグネス卿よりも高位の悪霊か?!」
何が起きているのか、煉夜でもつかめず歯噛みする。そして、知覚領域内の霊体に光の魔法をとにかくぶっ放した。
辺りを光の魔法が満たす中、ただ、そこに一人の人物がいた。煉夜はソレがこのイーブラ=イブライエを顕現させていると推測した。
「人……か?」
思わずつぶやいた。ローブで顔や性別は分からないものの、幽霊というよりは人間に見えた。人為的にイーブラ=イブライエを開くことが可能なのかが煉夜の知らないことだが、この現状において、状況証拠的に怪しいのは目の前のローブの人物であることは間違いない。
「……お前、強い、な」
ローブがそう言ったように聞こえた。掠れた声で、男女の判別は難しいが、女性ではないかと思しき声。そして、跳んでくる攻撃。
「……チッ」
予想以上に鋭い攻撃が、煉夜の胸を裂く。幸いにも、幻想武装の宝石の鎖により弾かれ、煉夜自体にはダメージはほとんど通っていないが、頑強な鎖が弾け、宝石は下方に落下する。
「予想、以上、だ。決めた、お前、に」
その瞬間、イーブラ=イブライエの侵食が止まり、まるで巻き戻しの様に世界が狭まっていく。そんな中、眩い光と共に、煉夜は意識を奪われる。
どのくらい気を失っていたのか、煉夜は目を開ける。地面に伏していたようで、敵の気配を感知しながら、どうにか立ち上がる。
(ん、何だ、これ)
そんな煉夜を途方もない違和感が襲う。重心が安定しないのだ。人にはそれぞれ重心がある。人は無意識にそれを調整し、立ったり動いたりと行動するわけである。その重心がおかしいのだ。煉夜はおよそ数百の時をその体で過ごした。だから、重心が取れないはずがない。
ブロック塀に手をかけ、どうにか立つ。そうして感じたのは、重心だけではない違和感。視点、感覚、その他諸々が今までと違う。
人間は多少、身長が伸びることはあっても急激に変化することはない。つまり、感覚として、自分の視点の高さというのはおおむね無意識に掴んでいるものである。それが異なる。それが意味するのは急激に背が伸びたか、縮んだかである。およそ特別な事情が無い限り、背が縮むなどという珍事は起こらないので、普通は背が伸びたはずなのだが、煉夜においては違った。
手の形、大きさ、指の太さ、爪の長さ、腕の長さ、その他諸々、手だけでもこれだけの違いがある。そして、何よりも、骨格そのものが変化していない限りありえない感覚。
「……どうなってんだよ、おい」
その体は紛れもなく、女性のものだった。




