085話:英国物語其ノ参・唄涙鷲美鳥の秘密
長野県の山奥、そこには妖怪が棲むと言われていた。一般に妖怪のたまり場といえば、四国の狸、京都の天狗に、遠野の河童などである。無論、四国には狸妖怪が多いというだけで狸の妖怪しかいないというわけではない。京都も、それこそ伝承でいえば様々な妖怪の伝聞がある。遠野もメジャーなのが河童なだけで座敷童など様々な妖怪が民話や物語として残されている。
この長野の妖怪は、それは大きく、そして、美しい、白い狐だと言われていた。一般的に狐の妖怪と言えば、野干や妖狐と言われるものだ。九尾や天狐の狐なども知られているが、どちらかといえば、それらは侵攻の対象であり、神の遣いであったり神そのものだったりとして書かれることが多い。
白面金毛九尾。白い顔に金色の毛並みの、九つの尾を持つ狐。また、白面ではなく玉面と呼ばれることもある。「白は美しさの象徴である」とされる場合もある。日本における三大妖怪の一匹として数えられることもある。
九尾とは所謂「妖狐」の一種であり、そこから「天狐」、「善狐」、「空狐」、「仙狐」などの神格化した狐が存在している。
また、白い狐というのは「白狐」という神道系の善狐が有名である。稲荷大社やお稲荷様と呼ばれる神社に祀られている多くがこの白狐である。
長野にある神社、雷隠神社所属の八巫女三席である唄涙鷲美鳥は、その妖怪と呼ばれているものが何かを調べ、妖怪なら退治し、神ならば社を立てて、丁重に祀れという密命を受けて、山奥までやってきた。
人っ子一人いない、というよりも、人も近づかぬようなうっそうとした樹海。木々で空もまともに見えない酷い場所であった。とても日本とは思えない場所で、なおかつ、その雰囲気は全てを飲み込むようであり、逆に言えば、怪しくも神々しい。
美鳥はまるで結界に囚われたかのような感覚に陥った。けっして人が足を踏み入れてはいけないテリトリーに入ってしまったかのような、自分が異物である感覚。
しかし彼女は臆さなかった。いわゆる八巫女三席のプライドともいうものだろうか。この頃の彼女は、後の彼女が不気味に思うほどに「雷隠神社」というものを妄信していた。信仰深いと言えば聞こえはいいが、彼女の場合は普通ではないのだ。
「巫女として礼節を持ち、巫女として人に恥を見せぬように、巫女として……」
雷隠神社にある八巫女の掟。これらの巫女に関する掟が二百三十九存在し、今もまだ増え続けている。そして、これらを全て厳粛に守る者こそが八巫女なのである。
「さて、この先……ですね」
元来気の強い、そのうえ、少々乱雑な美鳥なのだが、巫女として過ごす上では、常に敬語であり、なおかつ、相手を尊重させなくてはならない、これもまた掟である。
「伊沼様と筆頭が、わたくしの専用武装まで持ちだすということは、この先の狐は相当な存在であるのでしょう」
雷隠神社八巫女はそれぞれに固有の武装を持つ。就任と同時に、神社が神より、その神格を付与された武装が贈られるのだ。神格付与術式を使う美鳥にとっては、神格が付与されているものとの相性がよく、文字通りの切り札と言えるものだ。
うっそうとした森の先、一部が開けているのか、光が漏れ溢れていることに美鳥は気づく。そして、決意を固め、そこへと歩き出した。
そして、美鳥はそれと対面した瞬間に気付く。けっして敵わない、と。人が相手にしていい存在ではない、と。
「む、人か。我に何か用か……?」
ピリピリと肌を焦がすような、神の気配。神格を扱う美鳥だからこそ、その破格の存在感に圧倒されていた。
神なる獣、だからこそ、神獣。目の前にいるそれは、神獣と呼ぶにふさわしく、そして、間違いなく神気を纏った神なる存在であった。
「なに用だ、と聞いているのだが」
美鳥は、そこで初めて、この神獣が口にしているのが鳴き声ではなく、明確な言語なのだと気づいた。知らない言葉だが、それが言語であるようだった。
「そうか、言葉が分からない、か。仕方がないな。我が魔法を使うのもいつ振りか……」
圧倒的で、巨大な、美しい狐が、軽く言霊を唱える。その瞬間に、美鳥の何かが明確に変わった。
「これで言葉も通じるだろう。しかし、また人間、黒髪黒目とは嫌なものだ。前に見かけたのもそうだったから、この辺のものはそうなのか?」
愚痴るようにつぶやく彼にとって、黒髪黒目という存在は珍しい存在であり、その中でも、ある人物にはトラウマがあった。
「日本では、大体の人間が黒か茶色の髪を持って生まれます。瞳も黒か茶色ですね」
美鳥は目の前のこれの機嫌を損ねてはならないと、疑問に対して答えを出した。
「なるほど、異界だからということか……。いや、意味合い的には地域で髪色や瞳色が違うのか。向こうではどうだったか。人間のことなど気にしていなかったからな」
白い狐は「異界」といった。美鳥は眉根を寄せる。異界、つまり異世界。異なる世界。そんなものが存在するのか、否か。
「我は神獣白猛幽孤。向こうでは数少ない生き残りだ」
神獣、そう聞いた瞬間に、美鳥は理解する。この目の前の存在は、本物である、と。神獣とは、所謂、霊獣や聖獣とも日本では呼ばれている存在で、瑞兆……つまりいいことの現れとされることが多い。鳳凰であったり麒麟であったり、白澤や鸞、龍、九尾の狐などが有名である。
「数少ない……神獣ほどの存在が脅かされるなど、神の怒りか、大地の怒りか」
神獣、神の気を帯びた存在が脅かされるということは、それほどの脅威があるということに他ならない。普通は、神獣よりも上位の存在、つまり、自然であったり、神であったりするわけだ。
「否、人である」
目の前の神獣は、否定し、「人である」と答えた。人が神獣を脅かす。普通ではない。少なくとも、美鳥はそう思った。なぜならば、目の前にしただけで、神獣から発せられる神気に当てられ、すくんでしまうからだ。人が神に逆らうことはできない。本能がそれを知っている。
「身の丈は普通の人間だ。我らに比べればはるかに小さい、普通の人間。黒い髪に黒い瞳、黄金の剣を扱う、そいつの名は――」
黒い髪に黒い瞳、通りで美鳥の髪色を、瞳の色を見て、嫌なものというわけである。
「獣狩りのレンヤ。レンヤ・ユキシロという男だ」
レンヤ・ユキシロ。まるで日本人の様な名前に美鳥は思わず眉根を寄せる。されど、目の前の存在は異界のもの。異界にも日本と同様の名前付けをする習慣のある国があるのだろう、と納得した。
雪白、京都司中八家の名前ではあるものの、美鳥はその名前を知らない。そもそも、雷隠神社系列の巫女である美鳥は、天月神社や九浄天神等の神社系列には明るいが、京都の名家など知らなくてもいいことだったのだ。
「我のいた異界に伝わる六人の魔女の一人、【創生の魔女】の眷属であった奴は、数多の神獣、超獣、幻獣を屠った。まさに怪物……我らの天敵といってもいい」
数多の獣を屠る獣の天敵、獣狩りのレンヤ。神獣を前に立ち向かおうと思う、その精神を美鳥は異常だと思う。
神と呼ばれる存在に対して、本能が、体が、無意識が、勝手に、怖れを為して立ち向かおうとするなどという考えが沸かないようになる。神気と呼ばれるものに対して、刃向かうなどありえないのだ。
しかし、煉夜は、そんなものを気にしない。相手が神獣だろうが、神だろうが、前に立つ。かつて神獣銀猛雷狗に立ち向かったように、かつて日之宮鳳奈に立ち向かったように。異端ではあるが、しかし、六人の魔女もまた、神へと叛逆を試みたものとして知られている。
「獣狩りも、六人の魔女も、八人の聖女も、老騎士も、獣刻者も、あの世界にはおかしいな者が多いのだ。まるで運命を弄り回されているかのようにな」
どこか達観したように言うイミルドゥーサ。
それから数か月もの間、美鳥は神獣白猛幽孤と共に過ごした。異界とはどのような場所で、どんなものがあるのか。どんな歴史を歩んできたのか。人間がどんなものなのか。神に仕える存在とは何か。
数多の疑問を投げかけては、その答えを貰う。そんな日々を過ごしていくうちに、美鳥は本来の自分を取り戻していく。今の美鳥があるのもイミルドゥーサのおかげといっても過言ではなかった。
しかし、別れの時というのは訪れるものである。美しき白い狐は、美鳥に言う。
「我の寿命も、もうじき尽きる。我は、この周辺一帯を守護結界に封じて、眠りにつくだろう。人と呼ばれるものが近づくこともできないようにする。獣狩りのレンヤが持つ体質のようなものがなければ、何人も近づけないだろう。
我が尽き果てても、この結界は消えることが無いだろう。我の亡骸は、強い魔力と仙力、そして、神気を帯びているからな。一般人がうかつに触れば、大変なことになる。それを防ぐためだ、許せ」
それが美鳥とイミルドゥーサの最後の会話である。神獣の亡骸というのは、氷漬けにされた神獣銀猛雷狗の様な例外を除いて、死後、その亡骸からは、強い魔力と種族によっては仙力、呪力、などと神気を放つ。それがなくなるのは相当な年月がいる。そして、それが人々や土地に影響を与えることもある。木々が生い茂り、火山が噴火し、……一見災害の様なそれではあるが、木々が増えるのは自然が増えることであり、火山が噴火するのは大地が広がることでもある。そして、人々は、強い魔力を帯びる形で、強力な魔力を得るが、普通は体が耐え切れずに死んでしまう。
それゆえに、イミルドゥーサのように魔法の使える神獣は、自らの亡骸を悪用されないように結界を張って果てることもあるのだ。
そうして、彼と別れた美鳥は、巫女職を辞した。一応、席も残っているが、彼女は戻る気などなかった。
「これが、アタシの歩んできた道よ。その後、異界に関する情報を求めて、この英国のMTRSまで流れ着いたってわけ。それで獣狩り、異界について聞かせて貰えない?」
美鳥は滔々と煉夜のことを知っていた経緯を話した。そして、煉夜にそう問いかける。目の前にいるのが、彼の言っていた天敵であろうと、今は情報を求めて、そう問うのだった。




