057話:赤い館
赤々と、もくもくと、熱々と、――火の手があがっていた。しだいに紅々と、煙々と、それは広がっていく。躑躅ヶ崎館は火の海に呑まれようとしていた。炎が、煙が視界を奪っていく。全てを赤色と灰色が染め上げていく。狂ったように、赤く、赤く、赤く、赤く、ひたすらに赤く。気づけば、もう、煙の灰色は失せ、炎の赤が残った。しかし、その奥に見えるのは、炎ではない赤だった。派手で映える赤、豪華で美しい赤、飛び散る血の様な赤。様々な赤が詰め込まれていた。
「何、龍太郎、火でも噴いた?!」
鳳奈が龍太郎にそんなことを言う。いくら龍太郎でも、このような木造のものがあるところでそうそう火を噴くことはない。つまりは、龍太郎以外の何かが、この炎を起こしたのである。燃え滾る、この赤い炎を。
「――躑躅ヶ崎館が……、燃えて……いない?」
姫毬の言葉に全員が、……煉夜を除く全員が周囲を見回した。これだけ火の手が上がって炎も煙も出ているにも関わらず、どこにも引火していない。それどころか、煤すらついていないのだ。
――おかしい、そう思った瞬間、世界は変貌する。
目の前の光景が赤く塗り替えられ、そして、気が付けば、そこは広間だった。奥にある扉との関係からホワイエの様でもあるその空間は、全てが赤々としている。調度品の一つから床、壁、天井まで、全てが赤を基調としたもので染まっていた。
だからこそ、そんな中にポツリと存在している赤以外の自分たちが異端に思えて仕方がなかった。普通ならば、これだけ赤に塗れた部屋がおかしいと思うものだが、あまりにも赤すぎて、感覚が狂っているのだ、と。
赤い手すりに赤い螺旋階段、むろん、段鼻から踏面からなにからなにまで赤であり、光の加減では段の境目など見えないだろう。赤いシャンデリアからは赤い光が広がっている。その光はライトのものでも、蝋燭の様なものでもなく、不思議な赤みを帯びた魔法の様な光だった。
先ほどまでは躑躅ヶ崎館の内部とはいえ、外にいたはずなのに、そこは完全に洋館の中であった。世界を塗り替える、そんな力を龍太郎と鳳奈は1つしか知らなかった。
「これは暗転魔法……いえ、そんなレベルじゃない。空間を世界ごと完全に書き換えるなんて、間違いないわ。限定結界……!」
限定結界、魔法の最奥。これを持つ、持たないというのは、全てその個人の資質、運命による。後天的に何らかの事情で習得するということは絶対にありえない超常の技なのである。もっとも、煉夜のこれに関しては、「限定結界に似て非なるなにか」であって限定結界ではないのだが。
「ようこそ、赤き館へ。歓迎いたしますわ」
そうにこやかに微笑みながら赤い螺旋階段を下りてくる女性がいた。真っ赤なドレスに身を包み、真っ赤なハイヒールがこつこつと音を立てていた。
その姿に、龍太郎、鳳奈、姫毬、紅階、信姫はあっけにとられていた。だからだろうか、周囲から1名、姿が消えたのに気づいていないのは。その空間は、彼女の登場で圧倒的に空気が変わった。気品が満ちたとでもいえばいいか。彼女からにじみ出る高貴さに当てられて、その場の全員が思わず膝をついてしまいそうになる。そんな空気を破ったのは……
――ズルッ!
他でもない彼女自身だった。真っ赤なドレスの真っ赤な裾が真っ赤なハイヒールの真っ赤なヒール部分に引っ掛かり、真っ赤な踏面の真っ赤な段鼻が見えず、見事に踏み外して、真っ赤な階段をそのままズルズルと滑り落ちていく。面白いように螺旋階段をぐるぐると回りながら。
空気が凍った。真っ赤なドレスに身を包んだ彼女の顔が、ドレスよりも真っ赤に染まっていく。辺りが静寂に包まれた。全員何を言っていいのか分からない状態だった。その静寂を打ち破るように彼女は叫ぶ。
「ちょっと、メイドも執事も、主人が階段から転落しているっていうのにどうして助けに来てくれないんですの!」
気づけば彼女の傍には、真っ赤なメイド服に身を包んだ幼さの残るメイドがいた。その横には、真っ赤な執事服に身を包んだ煉夜の姿もある。そこで全員が、煉夜がいつの間にかそばからいなくなっていたことに気付く。そして、幼げなメイドは言う。
「お嬢様が階段から転げ落ちる様が面白かったので観賞していました」
にっこりと曇りない笑顔で、あっけらかんとそう言った。その言葉に彼女は「まあ」と感嘆の声を上げる。そして、笑う。
「面白かったんですの?そうでしたか、そうでしたか。では、もう一回……っておバカさん!メイドの職務放棄もいいところですわ!」
何だこの茶番は、とこの場にいる人々は思った。しかしながら、龍太郎と鳳奈の夫婦漫才を見させられていた煉夜も同じような気分だったのだから龍太郎も鳳奈も人のことは言えない。もっとも、どちらの漫才を見させられている信姫、姫毬、紅階はもはや飽き飽きした顔をしていたし、文句を言う権利もあろう。
「というか、レンヤ。貴方も助けなさいな。ワタクシの執事なのだから!執事なのだから!」
なぜ二回言うのか、と煉夜が若干眉根を寄せたが、愛想笑いをする。女性は、その愛想笑いに溜息を吐いて、そして、パチンと指を鳴らした。
気が付けば、女性の後ろには真っ赤で豪華な椅子が、その横には真っ赤なサイドテーブルが用意されていた。そして、煉夜が真っ赤なティーカップに真っ赤な紅茶を注ぐ。
「っんん!あー、あー。よし。イルヴァ、薔薇を」
何やら発声練習をした女性は、メイドにそう言った。メイドはさっと籠いっぱいの薔薇を取り出した。青い薔薇の花を。
「って、なんで青なんですの?!薔薇といったら普通赤でしょう?!……というよりも青い薔薇など初めて見たのですけれど、本当に薔薇なんですの、それ?」
興味津々といった様子で女性は青い薔薇を一つつまみあげる。至って普通の薔薇の様に見えた。女性は煉夜に問う。
「ワタクシ、青い薔薇は初めて見ましたけれど、本当にあるものなのかしら?」
その質問に、煉夜は肩を竦めながら、かつてプレイした主人公が女装して妹の代わりに学園に通うゲームで得た知識を思い出しながら答える。
「自分の世界にはありますが、人間が遺伝子組み換えを行って作り出したもの、つまりはホムンクルスなどと同様ですね」
なるほど、と彼女は頷いた。そして、しばらく観察した後に、ふっと息を吹きかける。気が付けば、メイドが持っていた青い薔薇は全て赤薔薇へと変貌していた。
「興味深いけれど、やはり薔薇は赤に限りますわね」
そんな風に言う彼女に対して、メイドは先ほどと変わらない満面の笑みで女性に皮肉っぽく言うのだった。
「僭越ながらお嬢様は薔薇に限らずとも赤に限るのではないでしょうか」
言葉でこそ疑問形ではあるものの、断言しているようなものだった。そして、この空間を見れば言わずもがな、その通りであった。
「当然ですわ。いえ、それよりも薔薇ですわ。イルヴァ、薔薇を」
彼女の言葉に、メイドは面倒臭そうに溜息を吐いて、籠の中に手を入れ、薔薇をまきあげる。上から赤い薔薇の花弁が降り注ぐ中、彼女は優雅に足を組みながら言う。
「初めまして、ワタクシは、アンリエット=ヴィルネス、王都に住まうことを許された中枢貴族が1つ、ヴィルネス家の当主を務めておりますわ。あらためて、よくぞこの赤き館へいらっしゃいました。本当ならば、お茶の1杯や2杯でも出して差し上げたいのですが、そういうわけにもいかないのでしょう、レンヤ」
苦笑する煉夜。そして、アンリエットは煉夜の方を振り向き微笑んで、そして、語りかける。不敵に、お嬢様然とした態度で。
「レンヤが呼んだということはっぷ、っぺ、えっほえっほ、はぁ……、レンヤが呼んだということはイタ、イタタタ、ちょっと、イルヴァ、ちょっと!」
喋っていた途中で顔の角度を変えた瞬間、アンリエットの口の中に花びらが入り込む。そして、それを出そうと悪戦苦闘していると、今度は薔薇が茎ごと振ってきた。棘が刺さるのか、流石に悲鳴を上げる。
「いつまで薔薇を撒いていますの貴方は。ワタクシの自己紹介のところまででいいのですよ薔薇は。というかなぜ棘のついた状態の薔薇を降らすんですの!アホなんですの?」
ひとしきりメイドに注意を終えてから、体勢を立て直し、アンリエットはは再び喋り出す。メイドは最後に手に持っていた籠を放った。
「それで、レンヤが呼んだということは――へぅっ……、何をするんですの、何をするんですの!木籠とはいえ、普通に痛いですわよ!」
頭を押さえながら思わず立ち上がったアンリエット。木籠をメイドに渡して再び座りなおした。そしてようやくしゃべり始める。
「それで、レンヤが呼んだという……んー、」
途中までしゃべってアンリエットは体をもぞもぞと動かし始める。そして、立ち上がって、ドレスの裾などを少し摘み上げ、また、胸元、背中に手を入れてもぞもぞと動く。どうやら、先ほどまで撒いていた薔薇の花弁がドレスの中に入り、先ほど立ち上がった時に奥まで入り込んで、それがむず痒かったようだ。
「よし、っと」
一通り払い終えたのか、アンリエットは、再び椅子に腰を掛け、脚を組む。脚の組み方が決まらないようで、何度か逆に組み替えたりしながら、しばし時間をかけ、ようやく話を始める。
「それで、レンヤが呼んだということは……、あー、えっと、なんでしたかしら?」
ここまで無駄な行動が多すぎたせいか、何を言おうとしたか忘れたらしく、気が付けばメイドが龍太郎たちの近くまで来て、かがんでカンペを見せている。赤いスケッチブックに濃い赤で書かれた、何とも読みにくいカンペである。
「そうでした、そうでした。こほん、それで、レンヤが呼んだということは、貴方がたの中には敵がいらっしゃるということですので、基本的に敵となる方をおもてなしするわけにはいきませんので、紅茶はお出しできません」
そういうアンリエットに対して、メイドは立ち上がり、カンペのスケッチブックをどこかに放り投げて言う。
「ではコーヒーか、果実のジュースでもお出ししましょうか」
相変わらずの満面の笑みで、微塵も悪びれることなく、そんな風にいうのだった。アンリエットも笑顔で返す。
「そうですわね、とれたての林檎やドラゴンフルーツもあることですしね……って紅茶はお出しできないというのは別に紅茶が出せないということではありませんから他の飲み物もお出ししなくていいんですのよ!」
傍観者全員が「何なのだろうか、このノリツッコミは」、と真剣に思ったが、本人たちには漫才のつもりは微塵もないようだ。いや、メイドの方はあるのかもしれない。
「では、果実のシャーベットでもお出ししましょう。新鮮な林檎をそのまま使って」
メイドが言う。それにアンリエットは頷いて、しばし、林檎のシャーベットの味を想像したのか、じゅるりと涎をたらしてから言う。
「ええ、いいですわねシャーベット。キンキンに冷えたシャーベットをかきこんだ後くる頭痛もまた乙なものです……って、飲み物じゃないからいいというわけではありませんわよ!もてなすことはできない、という話ですわよ!」
そして、アンリエットは「もう」と文句を漏らしながらも、フィンガースナップを鳴らす。その瞬間に、龍太郎と鳳奈の足元に真っ赤な魔法陣が生じる。
「どうやら敵はそのお2人のようですわね。[炎々赤館]においては、レンヤが敵と認識したものだけが攻撃の対象となるのですから。……それにしても身内が相も変わらず女ばかりなのは多少腹が立ちますわね」
そんな風に言いながら、アンリエットはそっと目を閉じる。瞬間、龍太郎と鳳奈は炎に包まれた。地獄の業火よりも熱いのではないかと思うほどの炎に。もしも、その身が人以上のそれではなかったなら一瞬で消し炭と化すほどの炎。
「赤き館……沙友里が言っていたあれだとするなら、どういうことなの?」
信姫はぼそりと呟いた。周りの光景に圧倒されて今まで口にしなかったが、ここにきて、ついにそれを口にしたのだ。それに耳聡く反応したのは小柄なメイドだった。
「おや、サユリ・インゴットと御面識があるのですか。彼女はなんと言っていましたか?」
その質問に、詳細を聞いていたわけではない信姫は、あの時の言葉を思い出しながら、沙友里の言葉を繰り返す。
「ワタシが煉夜と沙友里の関係を聞いたときに『まあ、赤い館の一件以来、多少は親密になったとも言えるけれど『恋人』が死んだ男とそのまま恋仲になるほどウチは鬼畜じゃないのよさ』って言っていたかしら」
その再現された口調は間違いなく沙友里のものであったのでメイドは納得したが、問題は「恋人」の部分であった。
「恋人……それはつまり自分のことでしょうねぇ」
しみじみといった雰囲気で言うメイドに、思わずアンリエットは反応する。流石にそれは聞き逃せなかったのである。
「ちょっと待ちなさいなイルヴァ。ワタクシを差し置いて貴方がレンヤの恋人ですって?そんなわけが有りませんわ。絶対にワタクシのことですわ!」
そんなやりとりを聞いていた煉夜は、沙友里に対して報復することを決意していた。ため息を飲み込んで、2人を見ていると、
「人を焼きながらする話じゃないと思うんだよな~、まあ、このくらいの仕打ちは慣れてるからいいんだけどよ」
「いや、あんたはそうかも知んないけどこっちは人生っつーか神生初体験よ。いくら焼けないっていっても嫌なモンは嫌ね」
炎で燃えている2人は平然としていた。信姫と姫毬は「なんで平然としてるの」というような顔をしていたが、紅階は当然、他の3人は別に気にした様子はなかった。
「てか、こんなんじゃ、俺たちは倒せないけど、どうするんだよ」
と、龍太郎が言った瞬間だった。ズプリと久しく味わったことのない、何かに刺されるという感覚が次々に襲ってきたのだ。
「な、なにこれ……、全身に刀が刺さったみたいな、痛み」
鳳奈は初めて味わう感覚に、思わず倒れそうになる。そこに次いでやってくるのが殴打される感覚である。
「やべぇ、神とか次元とか、そういうの関係なしに、全身に痛覚情報として入り込んできやがる。頭がおかしくなるぞ、こんなん」
龍太郎の言葉の後も、斬られる感覚、踏まれる感覚、様々な感覚が龍太郎と鳳奈を襲う。それは、もはや、拷問といっても過言ではない、否、拷問以上の何かであった。
「んだよ、これ。強ぇとか弱ぇとかそういう話じゃねぇわ」
龍太郎はついにギブアップする。鳳奈も、もはや限界であった。いくら神とは言えど、流石に耐えきれないようだった。そうしてギブアップした2人にアンリエットは言う。
「これは、ワタクシとイルヴァが受けた痛みそのものなのですわ。ワタクシとイルヴァが死したその時の記憶そのもの」
死した記憶そのもの、それを聞いた瞬間に、龍太郎と鳳奈、紅階、信姫はぞっとした。姫毬だけはなぜか反応を見せなかった。
「死した記憶そのもの、だと、そんな訳ねぇだろ。死んだ人間はおおよそが魂は白紙に戻される。ごく一部の転生するような偶然が産んだ存在もいなくはないが、死した人間そのものが限定結界として存在し続けるなんて聞いたことが無いぞ!」
「そうね、あくまで記憶としての存在を再現する、つまり、その当時の存在を作り出すような固有結界は存在しているけれど、本人そのものっていうのはあり得ないわ。それじゃあまるで……」
「人の魂を、空間そのものを、ものとして封じ込めているみたい、ですな」
龍太郎、鳳奈、紅階がそう言った。だが、本来、それはあり得ないことだった。人の魂を思いのまま縛るなどという真似はできないのだ。死霊使いなどと呼ばれる存在もいないことはないが、あれは対価を払った契約の末にできるものだ。煉夜も対価を払ったのならおかしくはないが、この空間を縛るには煉夜一人の一生を対価にしても足りない。つまりありえないのだ。
「死んだ人と永遠に一緒に居られる……」
信姫は、煉夜と戦おうとしたときに煉夜が言っていた言葉を思い出していた。魂を縛り付け、永遠に共にあろうとした、煉夜の業。それを信姫は悟ったのだ。
「ワタクシたちは、ワタクシたち自身で、レンヤと共にあることを願ったのですわ。だからこそ、ワタクシたちはレンヤの魂に共にあるの。永久に」
赤き館、ヴィルネス家。その空間を、魂を、そのものとして幻想武装イリュージャ・アルージエとして煉夜の魂に刻み込んだのだ。沙友里の言っていたティーカップなどの武装は、この赤き館の魂から引っ張ってきたものに過ぎない。
徐々に、赤き館の空間が赤い光となって消え始める。幻想武装が解け始めているのだ。
「レンヤ、それでは、また、いつでも呼び出して結構ですわよ」
そんな風に笑うアンリエットとペコリと頭を下げるメイド。その姿は、儚い赤い光となって煉夜へと帰っていく。
「煉夜、お前はやっぱりすごい奴だな。単純な魔力、魔法、剣による戦い、そして、今の特殊な限定結界。局の方でも引けを取らないし、うちに来ても十分にやれる。そのうち、どっかの組織から誘いが来るかも知れねぇな。ま、うちから誘うなら、『天候色彩』から接触があるかもしれんから話だけは聞いてやってくれ」
龍太郎は、クラスアップを解除しながらそう言った。どうやらもう戦う気は完全にないようだった。
「あ、そだ、信姫ちゃん、こっちが月日の盗賊として依頼されていたものは貰ってもいい?」
鳳奈が信姫に問う。そして、信姫は思い出す。何を回収されたのか全く聞いていなかった。信姫は鳳奈に問う。
「てか、結局、そっちが回収したのってなんだったの?」
信姫の質問に対して、鳳奈は懐から七枚で構成された鉄扇を取り出した。これこそが「七ツ枷ノ扇」である。それを見た信姫は当然首をかしげる。何せ知らないものなのだから当然である。武田信玄は、「七ツ枷ノ扇」について特に何も残さなかったがゆえに誰も隠し場所を知らず、次第に子孫に伝わることはなくなっていった。故に、信姫はそれが何なのかを全く知らないのである。
「……ナニソレ?いらないからあげるわよ」
だからこんなにもあっさりと決めてしまえるのであった。しかしながら、信姫は知っていても同じように渡しただろう。そんな風に事件が終息へと向かっていく。しかしながら残された問題はいくつかある。
「ん~、でも、困ったわよね。これで月日の盗賊としての仕事の方はいいにしても、日輪月光の方はパーじゃない?」
龍太郎と鳳奈の本来の目的は佐野紅階を捕まえ、処罰を降すことだ。それに対して紅階はあっけらかんと、気にしていないように言う。
「それは大丈夫ですな。そもそも、何度か言おうとしたのですが」
と、紅階がそこまで言った時だった、煉夜は不気味な気配を感じて振り返る。不気味、何とも形容しがたい、2つの存在が同時にそこにあるかのような気配であった。
「どうやら遅かったみたい、ですね。紅階、御無事で何より、鳳奈、龍太郎君、久しぶりですね」
爽やかな笑みを浮かべる女性、見た目通りの年齢ではないのであろう、その気配は武道の達人を思わせる、と煉夜は感じた。しかしながら、それと同時に神秘な気配も漂うのがどことなく怪しく不気味であった。
「明津灘の姐御!」
「姐御は辞めてくださいと言っているでしょう龍太郎君。まったく、君って子は……」
ため息を吐きたそうにする女性。「明津灘の姐御」、そのフレーズは、躑躅ヶ崎館で煉夜と龍太郎たちが対面したときにも出ていたものだった。
「それで守劔先輩、どうかしたんですか?この件はこちらに任せるんじゃなかったんですか?」
馬鹿な龍太郎を放って、鳳奈が守劔に問いかける。守劔は、やや苦笑し、龍太郎を軽くにらんだ。
「はぁ……龍太郎君は、元第二師団だから通じると思っていたんですが、やはりポンコツでしたね。全てを察してもらいたかったんですけど」
ポンコツ呼ばわりされた龍太郎は、へこみながらも何故そんなふうに言われるのかを必死に考えた。そして、……
「あ、諜報部の『あなた方にお任せします』は『こちらで全て秘密裏に終わらせる』の隠語だったっけ?」
龍太郎は思い出したことを口にする。全てはその一言で解決した。紅階の処分の問題は全て守劔が解決していたのである。だからこそ、紅階は鳳奈から守劔が「あなた方にお任せします」と言っていたのを聞いて、それでも来ている龍太郎と鳳奈に「勉強不足」と言ったのである。
「まあ、鳳奈は来てすぐに第六師団の副団長だから第一師団とのかかわりが薄いので仕方がないでしょうけど、龍太郎君は擁護のしようがありません」
守劔が「採点するなら0点です」と言いたげに肩を竦めた。一方で、その渦中にいるはずの紅階は、守劔が現れてしばらくした後に姿を消していた。その理由も残った問題の1つのためである。
「少々席を外してもうしわけありませぬ、信雪様をお連れしました」
紅階が小脇に抱えて連れてきた青年、というには若干若い、高校生と中学生の間くらいの年頃の少年。武田信雪、信姫の弟で、今回人質となっていた。
「あ、信雪、元気そうじゃない。怪我もないっぽいし、大丈夫そうね」
信姫は弟の無事を確認して、ホッとする。正直、弟の無事が心配の大部分を占めていただけあって、信姫はようやく肩の荷が下りた気分だった。
「まあ、なんとか、ね。そういう姉上は……男連れ?」
煉夜と信姫を交互に見ながら信雪はそう言った。まあ、京都からこの山梨くんだりまで一緒にやってくることを考えるとそう思われても当然なのかもしれない。
「はぁあ、ここまで来て、盗賊の仕事しかまともに達成してないってのがなぁ~、面倒だな~。とっとと依頼人にあって帰ろ」
「そうね。くたくただわ。……流石に【桜吹雪の魔女】は帰ってるわよね?会いたくないんだけれど」
こうして、躑躅ヶ崎館の悲劇は、喜劇として幕を閉じる。しばしの談笑が夜空いっぱいに溢れるほどに。




