035話:無伝の姫君其ノ弐
信姫は果し合いまでの数時間をいかに潰すか考え、適当な喫茶店にでも入って休憩でもすることにした。学校の周辺にあるどの喫茶店に入るか考えあぐねていると、信姫の鼻孔をコーヒーの香りがくすぐった。時には行き当たりばったりもいいか、と彼女は匂いの方へと歩みを進めた。
その店にたどり着くのにはやや時間がかかったが、それでも10分やそこらの時間だった。少し入り組んだ路地裏にあるため中々たどり着くのは難しい場所で、信姫はなぜこのような場所で店を開いているのか疑問に思った。もっとも、どこに喫茶店があろうが関係ないので、すぐに考えるのを辞める。
――カランカラン
小粋なベルの音が人のいない店内に響いた。否、人はいた。店主と思われる男と学生くらいの年齢と思われる女性がカウンターの向こうにいた。それだけだった。昼時の喫茶店である、主婦が女子会をするなり、誰かが待ち合わせに使うなり、暇つぶしに使うなり、満員と言わずともそれなりに人が居てもおかしくないであろう時間に、その喫茶店には客と呼べるものは存在しなかった。否、この瞬間、店に入った信姫だけだった。
「いらっしゃいませぇ」
少し気に抜けるような声で出迎えた女性に対して、本気でこの店の生末が気になる信姫だったが、煉夜との戦闘を考えれば、京都から一件の喫茶店が閑古鳥の鳴き声に悩まされていることなど知ったことではなかった。
「お一人様でよろしいでしょうか」
どう見ても信姫1人なのにあえて聞くのはマニュアル対応だな、と信姫は女性をそんな風に評価した。だが、女性の視線を見て、それが間違いだということに気付く。
「いえ、二人よ」
女性がただものではないことを悟った信姫は口角を上げる。煉夜だけじゃない、次のターゲットを見つけた、そんな顔をしていた。一方、店主と思しき男性は、その会話の意味が分かっていないようだった。
「それにしても、貴方、見えているのね」
そんな風に言う信姫に対して、女性は、静かに薄ら笑いながら、信姫の後ろにいる彼を視認する。
「見慣れたものなのよさ。特に賞金首軍団と一緒に居れば嫌でもみるものなのよさね」
店員としてではなく、素で彼女はそう返した。「賞金首軍団」なる聞きなれない集団の名前に信姫が首をかしげる中、彼が信姫に囁く。
「この女子、先の雪白煉夜という餓鬼と同じ匂いがするのう」
その言葉に信姫が思わず斜め後方を振り返りそうになる。偶然入った店に煉夜と同じ匂いがし、なおかつ、彼を視認できる人間がいる、それが偶然とは思えなかったからだ。
「そういえば、先の面会中、貴方様は何処へ?」
煉夜ならば彼のことも視認できたはず。だが、あの場に彼はいなかった。だが、彼は煉夜の匂いを知っていた。つまり、あの場にもいたことになる。
「あの男、儂を牽制しておったからな、出るに出れんかった。まあ、男自身が牽制していたのか、中の何者かが牽制したのかは分からんがな」
その発言の意味が分からず首をかしげる信姫。そして、視線を女性の方へと戻した。女性は、彼と信姫の話が終わるのを見計らって、席に誘導する。
「ご注文が決まったらお呼びください」
そんなマニュアル対応をして、離れていく女性を見ながら、信姫はため息を吐いた。こんなにも異様な存在が溢れる京都という都市、流石は日本の中心だった場所、と感心する。霊脈しかり、京都は異形を集めやすい。
「この店、いつもこんな感じなの?」
客の無さが凄く、貸し切っているような感覚に陥る信姫は、それに耐えきれず、女性と店主に問いかけた。
「ええ、まあ」
店主は苦々しげな顔で笑う。経営も難しいのだろう。逆に、よくこのような場所に店を構えて、これだけ人が来ないにも関わらず続けようと思うものだ、とそんなことを思ってしまう。嫌ならい辞めればいい。無理ならたためばいい。ダメなら場所を変えればいい。
「なんでこんなところで、客も来ない店を続けているんだ、っていう顔をしているさね。別に簡単なはなしなのよ。趣味みたいなもんだからさね。別にお金がいらないとか道楽とかそういうことではなくね」
肩を竦めながらそんなことを言う女性のことが妙に気に入った信姫は、その心地のいい答えに笑みを浮かべて問う。
「面白いことを言うわね。貴方、名前は?」
そんな信姫に対して、流れるように彼女は言葉を返す。別に斜に構えているわけでも、妙な意図があるわけでもないが、女性の癖の様なものだった。
「名前を尋ねる時は先に自分から名乗るものだと思うのさね」
その発言はあくまで自分が信頼できる相手なのかを確かめるために使われるもので、向こうの世界での彼女の癖だ。
「そうね。ワタシは無伝信姫よ。改めて、貴方の名前は?」
悪意ある者は言いよどむ。それゆえに、何の迷いもなく名乗った信姫に対して、彼女は信用できると判断し、名乗る。
「ウチはサユリ・インゴ……じゃない、入神沙友里なのよさ」
かつての名前を言いそうになる癖を未だに直せない沙友里は、サユリ・インゴットと名乗りそうになってしまった。
「沙友里、ね。貴方とはいい友達になれそうだわ。ただ、親子での経営なら、貴方を誘って遊びに行くのは中々難しそうだけれど」
苦笑しながらそんなことを言う信姫に対して、沙友里はあくまで友人としての態度で、笑いながら言う。
「ああ、バイトがいるからたまになら大丈夫なのよさ」
その言葉に信姫は「へぇ」と意外そうに声を漏らした。実際、家族経営で、しかも今のままでいいという状況なのにも関わらず、バイトは雇っている。バイトに払う給金は足りるのだろうか、と、要らぬことを考えた。
「ま、レンヤなら給料を上げろだの前借したいだの言わないし、見合った仕事もするから文句はないのよさ」
だが、信姫野思考も、沙友里の言葉で停止した。煉夜。特に珍しい名前というわけではないが、沙友里が呼び捨てにする年代や仲になりそうな見た目の高校生程度でこの辺に煉夜が数人もいるとは信姫には思えなかった。
もっとも、沙友里は見た目通りの年齢ではないので、大抵、どんな年齢でも呼び捨てにする。ただし、懇意にしてくれる上客を除く。
「れんや、というと、雪白煉夜のことかしら?」
信姫の言葉に、沙友里はキョトンとして、そして、信姫の着ている制服に目をやった。水姫が着ているのと同じ制服なために、その制服が煉夜と同じ高校のものであると推測するのには差して時間がかからなかった。
「そういえば、信姫、学校はどうしたのよさ」
自分と比べると若干年下っぽい沙友里に呼び捨てにされたのにはムスっときたが、友人なので許そうと信姫は密かに思う。実際、年齢上でいえば、信姫のほうが明らかに年下のであるが、彼女はそれに気づくだけの審美眼はなかった。
「ワタシは19よ。高校はないわ」
制服着ておいて何を言っているんだろう、という雰囲気がそこはかとなく出ていたが、本人の大人っぽさから、どうにも22歳くらいに見えるので、高校生ではないことは確かなのだろうと沙友里とマスターは判断した。
「浪人ってやつ?大変ね」
全然違うのだが、信姫は否定すると話がややこしくなるためツッコむのを控えた。そして、代わりに、聞きたいことを聞く。
「それで、雪白煉夜と貴方はどういう関係なの、沙友里?」
それに関してはマスターも若干気になることが有ったので、止めずに耳を立てた。どうにも沙友里と煉夜は知り合いの様であった。それに煉夜が来てから沙友里が帰ってきたことを思うと、2人に何かあるのではと勘繰るのも無理はないだろう。
「別に、あいつとは客と店員、もしくは店員とアルバイトというくらいの関係さね。いつだって、ね。誓って言うけれど恋人とかそういう近しい関係にはなったこともないし、なりたいと思ったこともないさね。まあ、赤い館の一件以来、多少は親密になったとも言えるけれど『恋人』が死んだ男とそのまま恋仲になるほどウチは鬼畜じゃないのよさ」
恋人が死んだ、その聞いたことのない新しい情報に、信姫は思わず目を見開いてしまった。聞き耳を立てていたマスターすらも、思わずコップを落としそうになる話だった。
「恋人……?雪白煉夜には恋人がいたのかしら?」
歩き巫女たる自分の部下たちからも一切、そのような情報が得られなかった。死んだというならなおさらだ。生きていて隠し続けることはできるとしても、死ねば必ずどこかに何かが残る。歩き巫女がそれを見落とすはずがない。特に姫毬ともあろうものが見落とすなどありえない、そう信姫は考えた。
「あー、どうなのかしら。ウチが勝手に思っていただけだけれどね、レンヤは間違いなくあいつらに惚れてたのよさ。だから、赤い館の一件があった後、あいつを慰めることぐらいはしたのよ。丁度、ユリファもいない時期だったし。まあ、膝くらいは貸してやった、それだけなのよさ」
恋人かどうかは分からない、だが、周囲が恋人と思うぐらい親密な間柄だったなら必ず情報が、噂が、残るはず。それを見つけるのが歩き巫女である。だが、見つけられていない。ならば、それを知っている沙友里とは何者なのか、信姫はますますそれが気になった。
「膝を貸すってなによ。胸を貸すとか肩を貸すとかじゃないの?」
「膝枕ぐらいはするってことなのよさ」
そんなふうに信姫は沙友里を探りながら、煉夜との果し合いまでの時間を喫茶店で過ごすのだった。そして、ますます煉夜の謎は深まる一方である。




