346話:血色の記憶・其ノ陸
それを偶然として片付けるのは簡単な話だが、しかして、その偶然に理由はある。吟河の一族が風水や地風に長けるのだから羽ゐ奈も当然、それなりに風水や地風、地脈、霊脈に長けている。
風水、地風、場や地の流れを読むことであるそれらに長け、地脈や霊脈を感じているということは魔力の流れの機微に敏感であるということだ。月の金属を操る力は魔法ではなく体質であるため、魔力の流れを感じられないから足元からの攻撃を許したが、血を蒸発させたのは魔法である。そして、あの魔法で血が蒸発したのは半ば副作用的な部分がある。
本来は鉄が溶ける温度、融点1538度近くまで上昇させることで、鉄を一ヶ所に固め槍として撃ち放つためのもの。槍自体は不格好でもいいので、別に実際、その1583度まで上げているわけではないのかもしれないし、鉄自体がそうなればいいだけで、血そのものをその温度まで上昇させたわけではない。
しかして、魔法自体が鉄に作用したことは間違いない。であるならば、撃ち放つのが魔法でなくとも、ある程度は魔力の流れでどこから攻撃が来るのか分からなくもない。
もっとも、少しズレれば胴体を槍で射抜かれて串刺しになっていたことを考えれば、危険な賭けであったことは間違いないが。
「全身やけどだらけですよ、まったく……」
高温の蒸気をまともにくらった羽ゐ奈の身体はやけどまみれであったが、それでも何とか、攻撃を防ぎきっていた。そして、月は気温が一気に上がった羽ゐ奈の周囲に水銀を近づけることができないので、次なる魔法を撃つ態勢に入っていた。
水銀は近づけただけで蒸発するだろう。それゆえに、どれだけ炎熱系の魔法で管理したところで気化はする。
「――爆ぜろ炎花、
――生じろ熱風、
――囲え煉炎、
――這え蛇焔、
――結び閉じ込めよ。
――赫爆連花」
月の放った魔法が、羽ゐ奈を囲うように襲う。炎の渦。まるでそれに閉じ込められるかのようであったが、しかし、この程度の魔法は羽ゐ奈に効果はない。
「――境界をなぞれ、
――辿境、廻門、隣郭、
――全と一、一と全、
――越境せよ、隣接せよ、
――閉鎖し、間隙を開け。
――廻隣門・封廻」
まとわりつく炎の渦と空気の境をずらし、それにより空気の供給を失った炎は燃えるための燃料がなくなり、燃え果てた。
魔力でつくられた炎というものにはいくつか種類があり、魔力を燃料にして込められた魔力がなくなるまで燃えるものもある。しかし大抵は、魔法で火を生み出す、発火させるというものであり、それらは空気無くして燃えることはできない。魔力そのものが火となり、込められた魔力が尽きるまで燃えるのは稀で、魔力変換資質が火であるようなケースくらいである。
しかし、こうして対処されることくらいは、月にも分かっていた。1度、高温の炎熱系魔法を使ってしまった以上、水銀の気化どころか血液の気化すら避けられなくなる場合もあり、体質の制限でもある。つまり先ほどの鉄の槍は止めの一撃であり、本来ならば、あそこで終わる予定だったということになる。
「いない……、どこへ……」
だからこその繋ぎであり、目くらましのための炎の魔法なのだ。消されることを承知で、仕掛け、その隙に、月は羽ゐ奈の死角へ移動した。
水銀を足場に、圧力で打ち上げる。ようは、上へ跳んだのだ。人間の視界における視野は60度と言われている。60度コーン説。上下左右含め60度のコーン上に視野があるとされる説である。ましてや、この近距離である。目くらましのうちに上に打ちあがった月は、羽ゐ奈からすれば視界から消えたように見える。
そして、人間の動きから考えれば上へ移動するということはあまりない。無意識にそれが働いて、視界から消えた瞬間に、瞬時に上を見上げるということはほとんどできない。いくら脳で理解していても。
「っ!」
羽ゐ奈の頭上から大量の血液が降り注ぐ。血はさらに視界を奪う。だが、これは目くらましなどではない。
「――亡者蠢く地獄の底、
――火吹き、刃咲き、血は煮えて、
――人を天へ召してもなお、
――生まれ変わらば悪ではないと、
――断じし者よ、地獄へ落つる。
――『焦熱地獄・鉄鑊処・極熱沸水』」
血が、羽ゐ奈を囲み、その外側から鉄が塊、釜のような形へ形成されていく。内部の血は沸騰しながらその空間を満たす。地獄の巨釜。以前、猪苗浮素が使っていたものは、地獄そのものを指し示す暗喩的な意味合いが込められた魔道具の類に過ぎなかったが、この場合は異なる。
地獄、こと八熱地獄。あるいは八大地獄。八つの地獄に分かれ、それらが更に十六の小地獄に分かれる。それらは罪ごとに裁かれ、落ちる場所。
焦熱地獄は殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄言、邪見により落ちる地獄であり、中でも鉄鑊処は、殺人を正当化しようとしたものが落ちる小地獄である。赤銅煮えたぎる巨釜で釜茹でにされたり、蛇入りの釜で煮えられたりする。全部で6つの巨釜があり、「平等受苦無力無救」、「火常熱沸」、「鋸葉水生」、「極利刀鬘」、「極熱沸水」、「多饒悪蛇」という。
月の使った技の元になっているのが5つ目の釜である「極熱沸水」。それまでの4つの釜は赤銅で煮えられたり、刃のついたカツラをかぶせられて赤銅で煮えられたりするが、5つ目は熱湯である。
「こんなもので倒せると思っているのですか」
そういいながら羽ゐ奈は自身と高温の血液の境界をズラしたが、結局のところ、真空で死ぬか、息も出来ずに高温の血液で身をゆで上げられながら死ぬかの二択を迫られているだけであることに気づくのは、そう時間のかかることではなかった。
真空中であり、呪文の詠唱もまともにできない中、それでも羽ゐ奈には切り札的な手段はあった。無詠唱で発動できる唯一の「隣境」の魔法。
(――廻隣門・境口)
それは小さなズレ。ズレの中でズラすというのも、また珍妙な話であるが、とにかく、ズラしたところから取り出したのは、「詠唱」であった。
あらかじめ唱えたものをズレの中に閉じ込めた。真空中で空気として伝播しなかったそれが、効力を発揮する。
世界の中での境界ズラし。「廻隣門・間廻橋」である。もっとも、それでズラせる距離は込められた魔力に依存するため、今の魔力ではたかが十数メートル移動するのでやっとだろう。
しかし、今はそれでいい。それだけ距離を稼げれば、この地獄の釜から抜け出せる。
「焦熱地獄って八大地獄の1つだよな。日本の地獄的考え方だが、周月が使っていていいのか?」
雷司がふとつぶやくように言った。煉夜はあまり日本における地獄などについて詳しくはないので、「そうなのか?」と返したが。
「仏教の思想的にも地獄は存在するが、六道の1つ、地獄道に通じるものだな。死んだら天国に行くか地獄に落ちるかってのは日本的思想だ」
六道輪廻。その辺りは煉夜も知っている。もっとも、正確な思想まで知っているわけではないが。
「神道とまじりあって、日本では独特の宗教観念になったんだよな。でも閻魔大王とかその辺りは、元の仏教にもいるんじゃなかったか?」
閻魔王、死後の裁判における裁判長ともされる存在であり、日本では、その判決により天国、地獄が決まり、罪状によって落ちる地獄も決められるとされる。
「月は元々がそっちの出身とは言っても、放浪して、生きるも死ぬも分からない、今を生きるので精いっぱいな状況で生きていたからね。学もなかったし。今の死生観、いわゆる天国と地獄的な考えも一緒に日本に行ってから身についたものよ」
神にもすがるというが、幼い頃に行き場を失った月は学も無く、今日を生きる、今を生きるのに精いっぱいで、そんなことすら考えなかったという。死んだらどこに行く、などという考えは、今を生きられるからこそ考えられる。それゆえに当時の月には、さほど向こうの宗教観念に染まらなかった。
「まあそれに、あの魔法は継承したものだからね。月の固有魔法じゃないし、魔法の名前や呪文も貰い物だよ」
月たちの世界では、魔法は1人につき1つであったが、師弟での継承などがあるように、同系統の魔法使いは、似たような魔法を使うことができる。あまりに独特な魔法過ぎて、全てを1人で考えて使っていたものもいなくはないが、炎熱系統ならばそれこそ炎魔家を筆頭に腐るほどいた。
月の魔法に近い炎熱系の魔法使いがいるのも当然と言えば当然なのだろう。
「魔法の継承か。そうか日本人から継承すれば、そりゃ、日本的な概念に基づく呪文でもおかしくはないか」
概念、あるいは意味。魔法の呪文に込められたものである。魔法とは、魔力を呪文や陣、儀式などで構成して変換しているものである。だから、式さえ成立すれば魔法は発動する。そして、その式が短いもので、より威力を出すために呪文に別の意味を取り入れたり、陣に別の要素を加えたりする。それが概念の付与、あるいは意味付けである。
炎熱系ならば地獄の業火や太陽、悪魔、天使、様々なものからそれらを行える。
この場合は、地獄という概念。それも焦熱地獄、鉄鑊処、極熱沸水のどれも実際に宗教の概念として知られているものだ。それはすなわち、イメージが強固である。結びつけがしやすい。宗教的要素を入れることができる。
「『獄炎の魔女』を自称していたから、一応、炎熱系の魔法にもたしなみがあったみたいで、頼み込んで教えてもらったの。あいにく、『白雪の魔女』には炎熱系の感覚は教えられても技能、技法は教えられなかったから」
普通は「感覚」を教えるのが最も難しいのだが、夢に作用する力を持つナキアは逆にそこは得意としていた。
「しかし、その言い方からすると『獄炎の魔女』というのは正しい名乗りではないのか。その二つ名で『一応、炎熱系の魔法にもたしなみがあった』とは言わんだろうし」
それにナキアが苦笑した頃、月と羽ゐ奈の方にも動きがある。羽ゐ奈が突如、月の目前に出現したのだ。息も絶え絶え、魔力欠乏により意識も飛びかけの状態で、だが。




