343話:血色の記憶・其ノ参
「隣境」とは「隣り合う」、「境界」を意味する「空間系魔法」に付けられた名前である。隣り合う境界、物と物が隣り合うとき、そこには境界が発生する。境界を操るといえば聞こえはいいが、「隣境」という魔法にそこまでの力はない。
せいぜい、境界をズラす程度のことしかできない。隣り合う状況からズラす程度の些細なことしか。
世界に接する自身の境界をズラせば、確かに位相の移動で異界へ行くことは可能だが、あくまで位相がズレるために、その際に生じるズレのねじれや障害は計り知れない。三縞の「輪廻」や「境界の魔女」などの超常の存在から比べれば二段も三段も落ちた格下の能力である。
「えと、まとめると、火邑ちゃんはナキアっていう魔女の生まれ変わりで、そのナキアと周月がかつて一緒に過ごしていたころに殺した相手の仲間である吟河羽ゐ奈ってのが今回の事件を仕組んだってわけね」
月乃が現状をまとめるように、ここまでの話をまとめた。煉夜たちが話すナキアや月の話に対して、状況が見えなかった雷司たちが質問して、それを煉夜が説明したのをまとめたのが今の発言である。
「概ねはそういうことだな」
かなり端折った説明ではあるが、要点は押さえている。まあ、雷司たちからすれば、雷司の父を含め、身内に転生者は多くいる。そのため、世界的に……、時空間に数多ある世界的に極めて珍しいとされる「転生者」というものに対して、雷司たちはかなり寛容である。
「しかし、父さんたちが追っているであろう吟河羽ゐ奈っていう魔女だが、どの程度の実力なんだ。それによっては、ここまで来るという可能性もある。父さんたちも忙しいみたいだから追っ手に人数は避けないだろうし」
その疑問に対して、答えを知っているナキアと月の2人は揃って「うーん」と微妙な返事をする。
「正直に言って、ウィーナの実力を具体的にどの程度と表現できないよ。だって、そもそも魔法自体攻撃系じゃないし、不便な魔法だから。それだったらノリトの方がよっぽど戦闘向きで戦いにはなったと思うし」
あくまで「羽ゐ奈に比べて」という言葉が前に付くが、祝詞の方がまだ戦闘向きである。しかし、その実、「詩風」の魔法というのは風魔法であると同時に「言霊」の魔法でもあり、直接的な攻撃魔法に向いているわけではない。ただ、一応、攻撃にも使えるというだけである。それに比べて羽ゐ奈の魔法は、それ自体を攻撃に使うというのは難しい。結果的に攻撃になるというのは無きにしも非ずだが、ほとんどはそれすらも難しい。
「ただ追っ手をまいたり、追っ手から逃げたり、っていうのは割と得意だと思うから、全力で逃亡すればここに来る可能性はあると思うわ。もっとも、そんな状態だとまともな戦闘にすらならないでしょうけど」
世界と自分の境界をズラすという規模の魔法に必要な魔力量は相当なものになる。隣り合う境界面は人間の表面積分だが、干渉をする領域は、世界そのものになる。
例えば、水槽に水を入れて、その中に人形を沈める。水槽が世界、人形が魔法の使用者だとすると、人形は水槽内の水との境界をズラすことで、位相を移動する。その際には必ず水槽内の水そのものに干渉しないといけないのだ。水槽から人形を取り出すときに水に触れずに取り出すことができないように。
そして、この場合は、今の水槽から別の水槽へと移動するので、移動した先の世界にも干渉しなくてはならない。
世界2つに干渉するだけの魔力がどれほどの量になるのか、想像してもしきれないほどであろう。
「不本意な逃亡だとすれば、ほとんど魔力が残っていない状態でこっちに来るということか。しかし、ここまで周到に計画を立てているんだ。あらかじめどこかに魔力を貯蔵しているくらいのことはしていてもおかしくないと思うが」
魔力を貯蔵するという方法がないわけではない。あるいは、月乃が行っていたようにあらかじめ魔法をストックしておくという手もある。用意周到ならばいくらでも手はあるのだろう。
「風水系に特化している一族なら、地脈や霊脈の境界を操ってそこから魔力を引き出すということも可能だろうしな。それを定期的にどこかに貯めておけばそのくらいできても不思議じゃないな。というか、そうでもないと世界を渡るほどの魔法の行使はできないだろ」
通常の人間が持つ魔力では、とてもではないが、世界2つに干渉するような魔法は不可能だ。それこそ煉夜でも難しい。
だからこそ「輪廻」と呼ばれる魔法が特別視されるのである。不可能であるはずの時空に干渉する力を持つ魔法、それを血として継承する一族。逆に言えば「隣境」という魔法は、その不可能とされる力に足を踏み入れている特異な魔法であるというのは事実である。
だが、それを使うには重すぎる仕様なのだ。
「ただ、その吟河羽ゐ奈ってのも運がないわよね。よりにもよって、周月が逃げた世界がこの世界だったばっかりに」
月乃が冗談めかしたようにそのようにつぶやいた。月の「異回廊」は行き先を選択できないので、この世界にたどり着いたのは偶然である。
「でも【氷の女王】は、まるでこの世界にいることを知っているように現れたわ。ナキアが雪白火邑として転生することもあらかじめ知っていたような口ぶりだったし、もしかしたら偶然じゃないのかもしれないわね」
と、月が言った瞬間に、雷司が固まった。月乃は【氷の女王】という異名は知っていても、それがどの程度の相手なのかはよく分からなかったので、「ふーん」という感じで流したが、雷司はそうもいかなかった。そもそも、月を追って、すぐにこの世界に入った以上、月がこの世界に来て、雷司たちが来るまでの間に【氷の女王】に接触したのでなければ、自分たちが全く気配を察知できないうちにやってきたことになるというのも理解できる。
「こ、【氷の女王】だと?!
あ、会ったのか……。あの【氷の女王】に。しかし、あれは一種の天災のような存在だと聞いている。伯母さんが『あの子は全てにおいて天才だった』と言っていたから俺たちの感知域に入らなかったのも納得できるが、そんな大物がこの世界に来ていたとは……」
雷司の伯母は、かつて、その【氷の女王】と共にあった存在の転生体の1人でもある。だからこそ、その存在や天才と評されるだけの才については聞いていた。
「ああ、ありゃダメだ。これから先、どれだけ鍛えようとも、どれだけ凄い力を得ようとも一切届く気がしなかった。比べる気にもならないくらいに桁違いな存在だな」
肩を竦めて煉夜は苦笑いした。それは冗談でも何でもなく心底思ったことである。それに対して雷司は「そりゃそうだ」と笑う。
「【氷の女王】なんかと比べりゃ俺たちなんてひよっこもいいところだ。煉夜ですらな」
それこそ天賦の才というものもあるのかもしれないが、経験や修羅場を潜り抜けた数が段違いである。白城事件を機に、植野春夏に拾われて、それからあらゆる才を磨き、あらゆる顔を持ち、あらゆる偉業を成し遂げた彼女の経験値は、煉夜や雷司のそれとは比べものにならないほどに濃密で、長い年月によってなされた。二代目天辰流篠之宮神、二代目烈火隊一門、ニブルヘイムの女王、……数多の役職に、数多の二つ名、それらは伊達や酔狂で与えられたものでは決してない。
才に驕ったわけでもなく、力に驕ったわけでもない。その才を遺憾なく発揮し、全てを尽くして死に、それでもなおこの世にとどまるという異端なことをやってのける。それほどの存在である。
「まあ、【氷の女王】は何というか……、普通は知らないことを知っていてもおかしくない存在だからなあ……。それで偶然必然云々は一概に言えないし」
悠久聖典を読み解く存在と長年ペアを組んでいただけあって、「人が知り得ない過去や未来を知る存在」であることは間違いない。特に「確定未来」とされる事象については。
「あらかじめ決まっていたとして、それをウィーナが知っていた理由も定かじゃないし、そもそも考えるだけ無駄なんじゃない?」
情報もない中で考えるだけ無駄というのは火邑らしいというかナキアの考え方なのだろう。いろいろと考えがちな煉夜や雷司とは対照的である。
「そりゃそうだが……」
雷司はやや呆れたように言っていたが、煉夜は「まあそうだろうな」とつぶやいた。
それは、本能的なものだった。【氷の女王】を感知したときと同じように、長年の経験則、あるいは第六感、本能、表現は様々だが、煉夜は「感知できないはずのそれ」を確かに感じ取り、その空間ごと切り裂くべく刃を向けた。
「っ!!」
切っ先が向かう先は、何もない壁……のはずだった。だが、そこに何かを捕らえる。壁に向かって切り付けたはずなのに、そこには存在しないはずの何かが確実にそこにある。
「……この奇襲が見破られたのは初めてですよ。どうしてわかったんです?」
童顔の女性、一目見て男性の目を引く、かわいらしい顔立ちをしているその女性こそ、吟河羽ゐ奈である。息を切らし、膝に手をつくようにしながら、よく通る声でそのように問いかけた。
しかし、問いかけられた側の煉夜も、正直なところ、なぜわかったのかと言われれば「勘」としか言いようなかった。
「直感だ。あるいは、気取れないはずの殺気を感じ取ってしまったか。まあ、明確な答えは俺自身も持っていない」
そういいながらも煉夜の視線は、何が起こったのかを理解するべく、自身が刃を向けた壁の方を見ていた。
「どういうことなのお兄ちゃん。今のは位相を越えてきたとかそういうのじゃなくてもっと別の何か……」
実際に、世界の境界を越えてきたのだったら、いくら何でも事象に起こる気配、変動が小さすぎる。世界全体に作用するそれが世界の果ての果てならばともかく、今目の前で起きて、気が付ないほど油断していたつもりはなかった。
「隣境……、隣り合う境界、なるほどな。しかし、まあ、無茶をする。数歩間違えば誰にも気づかれることなく死んでいたかもしれないというのに、それを奇襲のためだけにやってのけるか」
呆れたように、あるいは、ある意味で感心したように、煉夜はそういった。それで、何をやったのかが煉夜に気づかれたことを悟ったのだろう。羽ゐ奈は煉夜から目を逸らした。




