303話:見確めの儀・其ノ一「開演」
見確めの儀は京都の心部から少し離れた位置にある府営施設に偽装された司中八家所有の会場で行われる。偽装というのも言い方が悪いが、要するに普段は府営の施設として運営されている司中八家が資金を出している施設が使われるというだけの話だ。
普段は室内競技場のような扱いをしているのだろうか、1階は直接競技エリアに、2階は観客エリアにと動線が完全に分けられている。
儀式を行う場は、縦25メートル、横10メートル……およそテニスコート1面分くらいの広さ、といったところだろう。儀式はその両端に立った状態から始まる。
開会式というわけではないが、儀式に参加する11人とそれから稲荷九十九が儀式の場に、そして、それ以外の関係者が観客席にいた。
「なんで九十九がいるんだ?」
と純粋な疑問を抱いたが、それに答えたのは煉夜の近くを陣取っていた八千代である。陣取るというよりは話しかけるきっかけをつかみ損ねて右往左往していただけだが。
「審判は稲荷家の式神なのよ」
式神の召喚などの召喚術は確かに稲荷家の十八番である。しかしながら、術者と召喚された対象というのは必然的に強く結ばれるものである。
「贔屓とかないよな、というか九十九の式神が審判なのか」
わかってはいるがあえて「贔屓」の有無について問う。もっとも、本当に贔屓があったとしても普通はそれを素直に言わないであろうから答えはどっちにせよ決まっている。
「あるわけないでしょ。それにあれはお姉ちゃんの式じゃなくて、稲荷家の式よ。稲荷一休が契約したらしくて、本人が居なくても召喚できる理由は『稲荷一休ではなく稲荷家と契約したから』って本人?本猫?が言ってたわ」
そこで煉夜の眉根がピクリと反応を示す。嫌な予感がした。「稲荷一休」にそして「本猫」つまり「猫」という表現。それについて煉夜は心当たりしかなかった。
「それでは、この『見確めの儀』の審判を務めていただく方を召喚します」
しかし、煉夜がそのことを八千代に確認する前に、九十九がその審判を召喚する。陣から這い出るように召喚される「もの」。その大きさは猫と表現するには大きく、大型犬ほどはある大きさであろう。そして何よりも特徴的なのは、1本しかないはずの尾が2本生えていることであろうか。
そう、「猫又」と呼ばれる妖怪の類である。数十年、あるいは数百年生きた老いた猫がなるとされる妖怪の一種で知能を有し、また人型になれるとされることもある。
「にゃっ、呼び出されたということは『見確めの儀』かにゃ。にゃにゃにゃ、ということはお前さん、九十九ちゃんかにゃ、大きくにゃったにゃあー」
まるで取って付けたような「にゃ」という語尾で話す猫又。前回の「見確めの儀」は桐馬が17歳の頃なので6年前になる。九十九もその当時は七雲と同じ13歳になる歳であった。それを考えれば大きくなったというのは当たり前であろう。小学生あるいは中学一年生から大学一年生の年齢ともなると成長期や思春期を挟むことで身体的にも、また化粧や衣類などの類で見ても大きく変わっているものである。
「お久しぶりです。もう6年も経ちましたので」
ペコリと頭を下げる九十九を満足気に眺める猫又は、今年の参加者がどのような人物たちなのかと見まわそうとして、探知を広げた瞬間に見知った、それも強大な力があり目をひん剥いた。出雲での水姫の探知範囲について説明したときにも触れたが、陰陽術における探知は能動的なものであるため、探知すると決めて、探知の力を使って初めて探知できるので、常にというような状態でもなければ、探知したいと思ってから少しラグができる。
「みゃみゃにゃにゃ!!」
ひっくり返り飛び退き、尻尾で器用に縄跳びをしながら距離を取り、煉夜の方を見る。目視して改めてそれが煉夜であることを確認した。
「れ、れれ、煉にゃあ?!」
煉夜のことをフランクに渾名付けしているかのように猫又はそう呼んだ。それに対して、煉夜はやれやれと肩をすくめながら、いつものように返す。
「その呼び方はよせって言っているだろ猫又弥勒」
猫又弥勒、それが式神の名前である。弥勒とは弥勒菩薩に由来する言葉であり、弥勒菩薩は未来仏とされる。仏陀……この場合は釈迦の至った現在仏としての仏陀の次に仏陀になることが確約されたものこそが未来仏。
「にゃにゃあ、こりゃ驚いたにゃ。ユリファが探していたけどこっちにいたのにゃ?」
煉夜がこちらの世界に来てから過ごした時間と向こうで流れた時間がどのくらいズレているのか、煉夜には全く分からなかったが、それでも多大な心配と迷惑をかけているのだろうな、と申し訳ない気持ちはある。
「俺だって好きでこっちにいるわけじゃないさ」
マシュタロスの外法という規律により、強制的に戻されただけであり、自身の意思で戻ってきたわけではなかった。
「しかし、煉にゃあは仙術……もとい、陰陽術は苦手だけど『見確めの儀』でどのくらいまで行けるか楽しみだにゃあ」
その言葉の裏には、「稲荷一休に師事を受けているんだから初戦で負けるようなことは許されないぞ」という言語外の圧がかけられている。
「相変わらず嫌味な猫だな」
そんな風にぼやく煉夜。
その様子を観客席から見て、あることを考える人物がいた。それはもちろん、雪白木連である。
前回この「見確めの儀」が行われた時点で煉夜は中学生であり、その頃に京都まで来たのは修学旅行中の一回のみで、それも年が異なる。つまり、煉夜が「猫又弥勒」と出会うことはあり得ないのだ。だが、それが可能になる可能性とヒントはすでに与えられていた。「稲荷一休に師事を受けていた」という雷隠神社筆頭巫女の似鳥雪姫からもたらされた言葉。それが事実ならば、目の前のやり取りにも納得がいく。されど、そうしたうえでの疑問は、「煉夜はいつ稲荷一休に師事を受けたのか」と「なぜそれを似鳥雪姫が知っているのか」というものだ。そして、その本来、この場では決してでない答えを知る方法が、今回に限っては用意されていた。
外部観覧枠というもので前回以前より司中八家に協力関係にある企業や組織、家などが見学に来ることはあったが、「初芝重工」、「五十七間堂」、「島鳴蔵家」と他が少し来るか来ないかというのがいつもの面々であったが、今回に限ってはそれが変化していた。
まず「島鳴蔵家」が来ていないこと、そして、普段は寺関係の家もあることから参加を避けていた「雷隠神社」が観戦していること、さらに意外なことに魔導五門の炎魔家からも観客がいる。
だからこそ、木連は割と近くに座っていた似鳥雪姫に向かって問いかける。
「煉夜が稲荷一休殿に師事を受けていた、と3月に当家を訪れた際におっしゃっていましたが、今の煉夜と『猫又弥勒』殿のやり取りを見て、事実のようにも思えました。ですが、筆頭巫女殿はどこでそれを知ったのですか。煉夜のことも前から知っておられるようでしたが」
雪白家と雷隠神社に交流があるといっても、あくまで交流していたのは本家とであって、三鷹丘にあった分家邸宅とは全く交流がなかったはずである。つまり、似鳥雪姫と雪白煉夜には接点などあるはずがないのだ。それこそ、雷隠神社の任務で偶然会ったという可能性もないわけではないが、それだけで稲荷一休に師事を受けていたことなどの情報を知っているはずもない。
「私がレン……雪白煉夜さんと面識があるか、と問われると1度だけ長野で会いましたが、その時も一言二言交わした程度でしたか。それでも私が彼という人を知っているのは彼自身に教えられたからですよ」
一言二言交えただけの関係でありながら、教えてもらったという。その言葉の真意をつかもうとしていると、下の儀式の場の方で動きが合ったようだ。
煉夜と会話をしながらも「猫又弥勒」は、この儀式の参加者である11人を確認して、その戦いが均等になるようにトーナメントを組む。そこを見誤ってしまうと、儀式の意味がなくなるので、本当にそこに贔屓などはなく、均等に組んでいる。また、九十九から渡された参加者のリストによって名前とある程度の経歴は理解したうえでの組み合わせだ。
「さて、では本戦で戦う組み合わせを説明するにゃ。
本戦第一戦は、雪白煉夜と望月姫毬、冥院寺月姫と稲荷八千代、武田信姫と雪白水姫、市原裕華と冥院寺姫丹の全四戦だにゃ」
この本戦第一戦として発表されたのは8人。選出された11人には3人足りない。煉夜は「なんで『いなり』が『いにゃり』になまらないのに俺の名前だけかたくなに『煉にゃあ』と呼ぶんだ」という気持ちを抑え込みながらも説明を待った。
しかし、説明されるよりも先に、名前がなかった支蔵群助が「猫又弥勒」に問いかける。
「あの、名前が呼ばれなかったのですが」
それに対して「猫又弥勒」は「にゃはは」と申し訳なさそうに笑いながら、名前の呼ばれなかった3人、支蔵群助、雪白火邑、稲荷七雲を見ながら言う。
「申し訳にゃいんにゃけれども、こちらの3人は今挙げた第一戦出場者とは明確に実力に壁があるにゃ。このまま戦ったところで互いににゃにかを得る間もにゃく終わってしまう。それでは『見確めの儀』の意味がにゃいにゃ」
確かに「見確めの儀」とは陰陽師の家同士が互いに術士としての成長を見せ合う場であり、そして、互いの技術を盗み合う場でもある。だが、戦力に大きく差がある場合では、それらはできず、互いにとって損しかない。
「だから、第一戦の敗者との戦う組み合わせから参加してもらうにゃ。それなら第一戦で多少手の内はさらしている者たちが相手であるし、まったく戦えないというわけではにゃくにゃるにゃ」
とはいえ、それでも明確に壁があることは変わらないので、多少手の内を知っていようと、その差は大きい。だが、そもそもにして、「他家に買って上の順位をもらい要求する権利を得る」というものや「他家よりも上の実力を有するものがいる」という見栄などは、あくまでオマケであり、本題は「陰陽師技術の発展」である。それを理解していていれば、反論など起きるはずもない。もっとも、火邑と七雲は理解していたかは微妙であるが。




