026話:稲 荷家訪問其ノ一
もう10月が間近に迫った9月の最後の週の休日のことだった。煉夜は、矛弥に聞いた通りに稲荷家までやってきていた。正直乗り気ではない煉夜だったが、日に日に濃くなる魔力の澱みに、動かざるを得なかった。
チャイムを鳴らすこと数秒、誰かが駆けてくるような足音が聞こえてきた。できれば八千代であってほしくない、と煉夜は思う。そして、カラカラと音を立てて戸が開かれる。見覚えのある顔だった。
「あら、君は……?」
稲荷九十九。八千代と初めて会った日に、八千代を呼びに来た女性で、八千代の姉である。煉夜を見てにんまりとほほ笑む九十九は、家の奥に向かって呼びかける。
「八千代ちゃん、煉夜君が来てるわよぉ~!」
小学校時代に友人が訪ねてきたときの母親の対応を思い起こされる九十九の言動に、煉夜は正直苦笑いするしかなかった。そして、ドドドドと大きな音を立てて八千代がやってくる音が家中に響く。
「煉夜ァ!」
玄関に向かってドロップキックをする女性、稲荷八千代。召喚の儀にて狐系統以外を召喚したことで、九尾の狐を召喚した煉夜との婚約を真剣に考えているその女性は、煉夜に向かって怒りとその他諸々を込めた蹴りをかますのだった。
「おっと、危ないな」
一方、煉夜は、それを軽く躱し、そのままだと八千代が危ないため、勢いを逃がしながら、抱きかかえるように受け止める。その様子は、煉夜の腕にお姫様抱っこされに飛び込んだようにも見える。
「うわっ、ちょ、何お姫様抱っこしてんのよ!」
煉夜は「じゃあ、何ドロップキックしてきてんだよ」と言いたくなったが、話が逸れると本題まで行くのが長く面倒になるのでやめた。
「ったく、んで、何の用よ?」
煉夜に抱えられたまま八千代は聞いた。地味に、顔の距離が近くてどぎまぎしているが、それを態度に出すのは癪に障ると強がっている部分がある。
「ああ、少し聞きたいことがあってな」
それに対して八千代は、「仕方がない」とでも言わんばかりの顔をして、恩着せがましい態度を取った。
「ま、一休じいちゃんの書物が盗まれた犯人探しとかもあるんだけど、今回は特別よ」
その単語に、煉夜は引っ掛かりを覚える部分が二ヶ所ほどあった。そして、その1つについて追及する。
「その書物って、召喚に関するものか?」
そう、煉夜の予想が正しいならば、そうでなくては辻褄が合わなくなるのだ。だからこそ、そう聞いた。そして、それに対する八千代の表情は、先ほどまでのふざけたものから真剣味を帯びた顔に変わっている。
「煉夜、何か知っているのね。ま、玄関じゃあれだから上がりなさい」
煉夜のお姫様抱っこから若干名残惜しそうに脱した八千代は、煉夜を一室へ通した。まるで応接間のような部屋であり、何代かの顔写真が額縁に入れられて飾られている部屋だった。正直応接間に写真があったなら主張の激しい家だな、と感じること間違いないだろう。しかしながら、煉夜の2つ目の引っ掛かりがそれによって解消された。
「先ほどの一休と言う人物は、もしかしてあの写真ではないか?」
八千代と、一緒についてきた九十九に対して、煉夜は静かに写真を見やりながら聞いた。剃毛された頭が特徴の老人の写真。
「ええ、でも、何故煉夜君が?写真などそうそう出回らないと思うのだけれど」
九十九が若干訝しむように煉夜を見たが、煉夜としては、逆にこの家が胡散臭く感じるようになったほどだった。一休と言う名に、陰陽術、向こうで言うところの仙術だ。そして、一休仙人。煉夜も数度しか会ったことが無いが、その姿はまさに仙人と言う風貌でそうそう忘れることなどできないだろう。
「いや、あのハゲの話はどうでもいい。それよりもあのハゲの残した書物が盗まれたって話だが」
あくまで煉夜は一休のことをハゲで押し通すつもりらしい。その煉夜を訝しむものの、確かに故人よりも今の問題が重要だと割り切った二人はツッコまずに話を聞くことにした。
「ええ、稲荷一休の書き残した式神と同様の形式で召喚する技術についての指南書ですね」
「確か本人曰く不完全だとかで、いろいろと足りないとは言ってたけど」
九十九と八千代の言葉を聞きながら、煉夜は考える。式神の召喚と同様の形式での召喚と言うことは、霊力に合わせて召喚するということだ。煉夜のようなケースを除けば魔力を要することはない。つまり現在起こっている事態との関連性は無いことになる。
「いろいろ足りない、か。そこが肝だろうな。とはいえ、あのハゲが何かを足りないままにするとは思えないんだが……」
煉夜の知る限り、一休と言う人物は探究心の塊であった。そして卓越した審美眼と観察力を持っていた。その彼が謎を謎のままで終わらせるはずがない。
「まあ、一休おじいちゃんは、行方不明になる寸前までその研究をしていたみたいだし、術に失敗して死んだんじゃないかって、うちの一族は考えたみたいだけどね」
術に失敗して、そこで煉夜はあることを思いついた。足りないもの、それは魔力だったのではないか、と。そして、魔力を得ようとしていたらマシュタロスの外法により向こう側へと落ちたのではないか。そうすれば、一休と言う人物と煉夜が会ったことに対する説明がつく。
「なるほど、つまりは、理論だけならばあのハゲ、完成させてやがったな。そして偶然に環境が出来ちまっていたからこそ、奴らも成功しつつある。だとしたら何が来るか、だよな。ただの雑魚相手にあんなことになるとは思えない」
せめて一休の書き残したものがあれば、と思う煉夜である。そこに、幼さを残す八千代の妹、稲荷七雲がやってきた。
「つくお姉ちゃん、やちお姉ちゃん、どうかしたの?」
来客の知らせ以来、一向に姿を見せない姉が心配になったのか、七雲は応接間までやってきたのだ。そこに居たのは、契約の儀で八千代と話していた煉夜であり、何だ、姉の惚気か、とため息を吐きたい気分になった。
「もう、おじいちゃんの本は盗まれるは、お空は紫のぐるぐるだは、ってこの忙しい状況でやちお姉ちゃんは……」
七雲は八千代に対して呆れるようにそう言った。それに対して、八千代はかったるそうに答える。
「ぶっちゃけあの本も一休おじいちゃん以外使えないじゃない。同じくらいの天才がうちに生まれたらまだしも。それとお空ぐるぐるってずっと言ってるけど分からないってば」
ぐるぐる、と七雲の言った言葉に対して煉夜はまさか、と思った。そんな煉夜をしり目に姉妹は会話を弾ませる。
「使えないって本は使うものじゃなくて読むものだよ。それに読めないわけじゃないし。それよりもお空のぐるぐるだよ。日に日に酷くなってるんだよ」
日に日に酷くなるお空のぐるぐる、紫色。七雲はそう言っていた。煉夜はそれが何か分かった。それゆえに七雲の天性の才に驚きを隠せなかった。
(俺は後天的に得た者だが、この子、先天的な才あるもの、か。なるほどあのハゲの血脈だけはある)
煉夜は窓から外を、空を見上げる。螺旋を描くように広がるそれはまさに「ぐるぐる」だろう。そう、煉夜と市原家が確認した魔力の歪だ。
「確かに日に日に酷くなっているな。俺もそれを止める目的でここに来たんだし」
おそらく、まだ魔力の供給が足りていない、だからこそ螺旋は描き続け、何も起こっていない。あの螺旋が消え、儀式が完成したときこそ何かが現れるに違いない。それゆえに煉夜はあの螺旋を止めるために居ると言っても過言ではなかったのだ。
「え、お兄ちゃんにはあれが見えてるの?」
七雲はやや驚いたように、煉夜のことを見ていた。信じられないとでも言わんばかりの表情で、問いかける。
「本当に見えてるの?誰も見えてなかったのに」
稲荷家の人間に聞いたところで魔力が知覚できるものは稀だからだろう。七雲は本当に特殊な才を持っていると言える。
「ああ、見えている。俺は君の様に生まれつき、と言うわけではない後天的に魔視できるようになった人間だがな。君のような先天的魔視は珍しい。おそらく才能があるってことだろうな」
七雲の頭を撫でる煉夜。それに対して八千代は拗ねるように口をとがらせて、嫌味ったらしく煉夜に言う。
「どうせあたしは才能無いですよー」
狐ではなく鳥を召喚した八千代は、稲荷家では無能扱いだった。正直煉夜としてみれば、稀少な不死鳥の幼体を召喚していることから、かなり実力があると判断していた。
「正直な話をすると、この中で潜在的に秘めているのはこの子だろうな。それと、サルティバの恩恵を受けているからただの人じゃないってのがあんただ。ま、この状況じゃ、八千代の実力が低く見られても仕方がないってもんだ。だが、俺の見立てだと、八千代は風と火が得意だろうから、その辺を伸ばせばかなり強いだろうな」
煉夜の言葉に、一番強い反応を示したのは七雲でも八千代でもなく、九十九だった。見抜かれた事実に驚きが隠せないかのように、大きな目をさらに大きく見開いていた。
「なぜ、サルティバの恩恵のことを?」
サルティバの恩恵、その言葉に対して、八千代も七雲も首を傾げる。ただ、九十九の眼には普段の優しさではなく冷たい色が映っていた。
「俺はカーマルの恩恵持ちだ、そのくらい二言三言話せばわかる」
そんな外野には分からないやりとりをしながら、煉夜は考える。もし本当に何かを召喚するとするなら、何が現れるのか。
「なんであたしに火と風が得意だとか分かるのよ」
ぼそりと言った八千代に対して、その理由を答えたのは煉夜ではなく九十九だった。それも、普段とは違う、冷たい色のまま。
「八千代ちゃん、彼が言うからには本当よ。そう言う感覚を持っているの」
その妙に実感のこもった言い方に、八千代は困惑した。この雰囲気が九十九の素である、と言うことは八千代も七雲も知っていた。だが、それを煉夜の前で見せるとも、その状態で何かを言及するとも思えなかった。
「つくお姉ちゃんが言うからには本当なんだろうね」
姉の言葉に絶対の信頼を抱いている七雲が屈託のない笑顔でそう言った。




