244話:プロローグ・椿 菜守の場合
舞とは伝統を重んじるものである。そういった伝統の積み重ねの上に立つ1つの家があった。本における舞踊の総元締めともいわれる4家の中の1つ。椿家。当主は代々女性が務めることを習わしとされた一族である。
そして、その当主の名は引き継がれるものである。現当主の五十二代目椿礼菜も、名を引き継いだ者。そして、五十三代目の椿礼菜はすでに決まっているとも噂される。それは、椿家の次代を担うにふさわしい才ある者がいるためだ。
椿菜守。舞の才において、柊沙津姫と対を成す、次の時代を担う者と言われている女性である。柊家には、沙津姫の問題もあって、確実とは言えないが、椿家はそういうこともなく、安泰であろうと誰もが思っていた。
「だから、あたしは当主を継ぐ気なんてないって言ってるでしょ」
椿菜守は、五十二代目である自身の母に、何度となくそういっている。そう、椿菜守は、椿家を継ぐ気は毛頭ないのである。
五十二代目椿礼菜は、あまり舞の才能がない。それは周知の事実であり、本人も自覚しているところであった。しかして、舞の実力がないことと指導者として実力がないことは、必ずしもイコールではない。だが、長年、指導をしていて痛感するのは、やはり、舞えるからこそ出てくる悩み、それに自身が対応できないことである。
だからこそ、五十二代目は、早く娘の菜守に家を継がせたかった。一応、菜守には妹がいるが、五十二代目と同じく、舞の才能はほとんどないと言えた。だからこそ、菜守である。
「菜守さん。あなたの才は、宗家始祖、初代礼菜様にも届く才なのです。あなたの意思がどうこうで決められるものではないのです」
まさしく柊家とは逆の状況であった。沙津姫が自身の価値などを理解して、自身の意思とは関係なしに当主になることを良しとしているのに対して、菜守は自身の価値などをどうでもいいものとし、当主にはならないと決めている。そして、柊家では沙津姫が当主になることを周りから反対され、椿家では菜守が当主になることを周りから推奨されていた。
「初代がどうだの、あたしがどうだのなんてのは知らないけど、あたしは『舞』ってのが楽しいからやってるのよ。人から強制させられるのなんてまっぴらごめんなの」
菜守は、「舞」自体が楽しくて、今の立場にいる。当主になって、舞を強制され、舞を教える立場になる、というのは、どうしても避けたかった。
「でも、あなたには、間違いなく、初代礼菜様と同じ、『神と対話できる力』を宿しています。その力を持って生まれた時点で、あなたは、当主となるべくして生まれたのです」
椿家の初代に当たる椿礼菜は、「神と対話」できる能力を持っていたとされる。それゆえに、神の前で舞うことを許され、その圧倒的な技量で、日本全土にその名を知らしめた。それゆえに、その圧倒的な知名度から、二代目以降も「椿礼菜」と名乗ることを慣習化した。
「知らないわよ。神と対話なんてしたことがないし」
そう、持っているとされはするが、菜守は無自覚であった。そう自身に宿る「神と対話する力」も「強い神なる火」も、持ちうる高い魔力も、纏う高い霊力も、全てにおいて、自身の才というものに対して自覚をしていない。
「あなたがどう決めようと、どう思おうと、椿家五十三代目椿礼菜はあなただと決まっています」
母の発言に、苦々し気な顔をして、菜守は顔を逸らす。この家というものを生まれた時から見てきた菜守には、そう決まったらそうなると、強くわかっていた。
「イヤよ。政略結婚みたいな利用のされ方して、舞のためだけに生涯をささげることになるのは。あたしは、あたしとして生きたいの」
自身の両親の関係性を見て育ってきたために、自由な恋愛すらもできない当主という立場に忌避感を抱くのも当然であった。母である五十二代目が常々、夫である与太郎との間に愛はないと断言する様子を見れば見るほど、その後を追わないようにするのは当然だろう。
もっとも、五十二代目礼菜が与太郎に対して愛情の念がないだけで、与太郎は一方的にだが、愛情を抱いている。五十二代目からすれば仕事が恋人というのをまさに描いているような状態で、与太郎はその仕事をよりよくするための存在である。恋愛感情はないが、友好や仕事上の相棒ではあるため、どうでもいいだとか見下しているだとか、そういうことはない。
「あなたの場合は、自由に恋愛することもできます。なぜならば才があるのですから」
五十二代目が与太郎と結婚したのは、五十二代目に才能がなかったが故である。代々、舞とは神に奉納するものでもあるため、それなりの霊力や魔力を有してきた椿家であるが、五十二代目はほとんどそれを継がなかった。そのため、高い霊力や魔力を持つとされる家と半ば政略結婚のような形で婚約することになった。それが真島家の三男であった与太郎である。
真島家は真志摩とも書き表されるように、三重県の伊勢志摩の「志摩」出身の一族である。そのため、与太郎は、高い霊力を秘めており、三男で、家を継ぐこともないために婿入りすることになった。
しかし、菜守は、その資質を十全に、あるは、それ以上に受け継ぎ、高い才覚を表したものである。政略結婚などしなくても、ある程度の相手であれば反対されることもないだろう。
「それでも、よ。例え、自由に恋愛できても、自由な夫婦生活は営めないでしょ。むしろ、その結婚相手が、肩身が狭い思いをするだけじゃない」
与太郎は、元々裏の方にも顔の効く人間だから、さほど苦労している風なところはない。むしろ、多少のやっかみはあっても、それなりにうまくやっている方である。だが、その辺の一般人であったならば、この舞事の世界に連れてこられては、肩身が狭く、苦労も多いだろう。そのような思いを、恋人にさせたくはないというのが菜守の考えだ。
「でも、この世界に関わって生きていくなら、おそらく、普通に恋愛するとしても、舞の関係者か、それとも、神社とか寺院の関係者になるでしょうけれどね」
それは五十二代目の体験談というか、見てきたことである。舞に関わるのならば、鍛錬に時間を要する。そうなると、舞の関係者であるか、それとも、舞を奉納する先である神社の関係者などでしか出会いはないのが常である。
「別に、ずっとこの世界で生きていく気もないわよ。人並みに恋愛して、人並みに主婦になるわ」
なお、生まれてこの方、ほとんど家事をやったことのない菜守は、料理、洗濯、掃除、全て、まともにこなせない。学校に通っていた当時の家庭科の成績は、「良」であったが、「不良」よりの「良」、5段階評価で言うところの3程度である。
「あなたに人並みは、難しいと思いますけどね」
そんな母の言葉を聞きながら、苦い顔をしながら、菜守は部屋を出る。
そんなことがあって、果てしなく気分が悪い中、気分転換も兼ねて、菜守は町を歩いていた。菜守の家である椿家は、島根県の中でも、松江市の方にある。柊家や他2家は、どちらかと言えば出雲大社に近い地域にあるため、それらに比べれば離れている方である。
歩いていると、見慣れない外国人がいるのが目に入った。出雲大社がある関係で、外国人がいるのは、あまり珍しいことではないが、そういった観光客とは、少し様子が違うようだったので、特に目に入ったのだろう。
観光客は、基本的に、街中よりも観光地に向かう。松江市で言うならば松江城や宍道湖方面での観光客は多いが、このような街中にいるのは珍しい。それも、迷っているような節もなく、ホテル近くというわけでもない。荷物も持っていないようなので、目を引くのもおかしくないだろう。
「ちょっと待ってほしい」
道行く菜守の進行方向を遮るように、その外国人が、前に出つつ、声をかけてきた。それに対して、菜守は眉根を寄せる。外国人にしては、流暢すぎる日本語。茶色というか、明るい茶色と暗い金色の中間くらいの髪色に、堀の深い顔立ち、まぎれもなく外国人のような風貌である。
「何、てか、外国人、よね?上手ね、日本語」
目端に入って、気にはなったが、まさか話しかけられるとは思っていなかったために、きょとんとした反応をしてしまった。
「ええ。正真正銘、日本国外で生まれた人間です。リード・ナウレスと申します。あなたは、ツバキ・ナモリさん、ですよね?」
自身の名前を知っているリードと名乗る男に、ますます不審さが増す。ただ、舞の名門である椿家の長女として、あらゆるところで舞を演じているため、外国人でも知っていてもおかしくはない。特に、現代では、日本人よりも外国人の方が、日本固有の職に対して興味を示すことがある。
「そうだけど、何か用事でもあるの?」
正直、街で個人を特定されて話しかけられるような経験はほとんどない菜守は、この胡散臭い外国人、ナウレスを怪しいとしか思えなかった。
「ええ、我々と一緒に来ていただきたいのです。我ら『不浄高天原』の元へ」
その怪しげな文言に、菜守は、本能的に忌避感を抱いていた。こいつらは、明らかに怪しい存在である、と。
「逃げようとしても難しいかと思いますよ。すでに周囲には、我々の仲間がいます」
本能的に逃走を選ぼうとした菜守であったが、その言葉で牽制される。そして、周辺からにじり寄る男たち。菜守は、戦闘能力に関して、皆無といってもいい。潜在的な能力ならば、陰陽師に匹敵しうるが、しかし、それを自覚して使った試しがない。だからこそ、一般人とほとんど差異がないのだ。
「ったく、なんでこう、面倒なことに……」
舌打ちでもしたい気分に、菜守は、どうするか思考を巡らせる。だが、その解決方法は一向に見えてこない。地の利がある、とも言いきれない。確かに、地元である菜守はこのあたりの地理を知り尽くしているが、向こうが調べていないとも限らない。確実に逃げられる道を探す。数か所、自分が無断で入れる場所、そして、地元民以外知らない場所をピックアップできるが、そこまでに追いつかれる可能性もある。
「おや、いい大人たちがか弱い女子を囲っているどんな悪行かと思いきや、その中心にいるのは、菜守さんじゃないですか」
ふと聞こえた声に、男たちも含めて、視線がそちらに向く。それを見た瞬間に、菜守の脳には、この状況をどうにかする方法がよぎる。
「詩央さん!助けて!!」
菜守の声とともに、声のした方向にいたはずの男が宙を舞う。それにより、男たちの間にどよめきが生まれた。
「エノキ・シオ、ですか。これは分が悪い。引きましょう」
ナウレスは、その女性を見て、そう判断する。榎詩央。彼女もまた、舞の関係者である。
「逃げる間を与えると思いますか?」
榎家。「闘舞」と呼ばれる美しい武舞を使う一族。武舞とは、舞楽の一種の武舞ではなく、武闘演舞の略称である。そのため、舞の総元締めともいえる4つの家の中では、最も戦闘力を有している。次いで柊家が武具を使った技術を持つため戦闘力がある。
「そのくらいは、どうにかするものです」
――椿菜守。彼女が巻き込まれた騒動は、1人の青年によって形が大きく変わっていく。




