237話:美麗な湖・瑞西との境
仏国の中でも南東に位置するリヨンであるが、有名なことと言えば、ICPOの本部があることであろうか。そのほか、日本の横浜と姉妹都市である。また、このリヨンにはリヨン・サン=テグジュペリ国際空港があり、こちらの方がジュネーブには近い。
そして、ローマ劇場がある。ローマ劇場とは、古代ローマ時代に築かれた半円形の劇場であり、その後各地で作られたため、ヨーロッパの各地に点在している。仏国だけでも、このリヨンの他に、アルル、オランジュ、オータンにも存在している。
それ以外であるとノートルダム大聖堂があるのも有名だろうか。もっとも、ノートルダム大聖堂とは各地にあり、その中の1つであるが。ノートルダムとは「私たちの貴婦人」という言葉を示し、それはつまり、聖母マリアを表すとされ、聖母マリアへ捧げられた聖堂は仏国の首都圏を中心に仏国内には数多く存在する。リヨンのもその1つである。
有名なものでは、ノートルダム・ド・パリことパリのノートルダム大聖堂、北フランス三大大聖堂の仏国王の戴冠式で有名なランスのノートルダム大聖堂、シャルトルの青ことシャルトルのノートルダム大聖堂、ルーアンのノートルダム大聖堂などであろうか。リヨンのフルヴィエールの丘に建つノートルダム大聖堂は、建築された時期から考えれば珍しくゴシック様式ではない。ロマネスクとビザンチン、どちらもの様式を併せ持つものだ。また、リヨン歴史地区として、世界遺産にも登録されている。
しかし、これもまた、寄る時間などとてもではないが、ないので、スルーしてまっすぐに瑞西に向かう。姫毬あたりが聞いたら、さぞ「もったいないことをする」というだろうが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
リヨンを過ぎ、北東に向かう。道中において、襲撃などの大きな出来事もなく、するすると順調に進んでいく。あまりにも順調すぎて、煉夜は拍子抜けしたような気分だった。
「もう襲撃は心配ないでしょう」
と、唐突にルアンヌがいったことで、煉夜はきょとんとした。リヨンを過ぎた時点で、ルアンヌはほとんど警戒していなかったようであるが、それでも、一応の警戒はしていた状況であった。それがここにきて、本当に唐突に、である。
「スイスに入りましたから、仏国内ならともかく、他所で襲撃するほど馬鹿ではないでしょう。外国人を雇っていたとしても、根っこまでつかまれたら終わりですもの」
瑞西に入った、と言われても、特に身分証の提示をした覚えもない煉夜は、本当に国境を越えたのかが分からず、困惑した。
「あれか、仏国での特権みたいなので、素通りだったのか?」
そんなことを言う煉夜に対して、ルアンヌは若干きょとんとしたが、煉夜が日本人であることを思い出し、ため息交じりに言う。
「まさかとは思いますけれども、シェンゲン協定をご存知ないのでして?」
基本的に、日本と異世界のみで生きていた煉夜は、この国の協定などには疎い。特に、争いの絶えない異世界では、国境での警備というのはかなり厳しく、だからこそ、煉夜や【創生の魔女】は危険な地や戦争前の地などの警備が緩んでいるところに赴くことが多かったのである。
「シェンゲン協定とは、協定加盟国間での国境審査なしでの入国ができるというもの。ヨーロッパは日本とは違い、陸つながりの国ばかりですから。協定加盟国の多くはEUの加盟国でもありますけれども、今いるスイスのようにEU非加盟国でも協定に加盟している例もあります」
EU加盟国同士間での移動もそうだが、シェンゲン協定加盟国間での移動も国境審査がない。もっとも、稀に簡単な検査をすることもあるが、パスポートさえ持っていれば問題ない。煉夜のように、シェンゲン協定加盟国に入国した者も、シェンゲン協定加盟国間ならば越境に審査はない。そして、そのまま、瑞西から日本に帰るとしても、出国審査はあるが、国を跨いでいることをとがめられるようなことはない。
「そんなに国境審査が緩いから、他国の魔法使いが介入してくるようなことになるんじゃないのか?」
煉夜からしてみれば、まさにありえないことであった。これではスパイもテロリストも魔法使いもいくらでも入ってこられるだろう。戦争を引き起こしたいのならば、これほど優位な環境もないだろう。
「まあ、表向きは『戦争はしない』ということで合意が取れていますもの」
裏で何を考えているかは別として、「戦争をしない」ということで世界が団結しているのが世界の現状である。だからこそ、こうして加盟国間のみではあるものの入国審査が要らない仕組みができている。もっとも、これは、陸地としてつながっているのにも関わらず、一々、関所を通って出入国審査をするのが面倒ということもある。
日本のように、海洋国として、周りに地続きの国がない場所では、海路か空路での入国しかないため、その入り口で審査をすればいいが、地続きならば、面倒なことこの上ないだろう。
「戦争をしない、ねぇ……」
煉夜としては、長い間闘争に身を投じていたため、それがどうにもしっくりこない。現に、戦争ほどの大規模なものではないが、この世界に戻ってきてからも幾度となく戦いは起こっていた。ただ、それが表沙汰となるようなものではなかっただけで。
「まあ、戦争なんてものは、そもそも、臣民に関係なく、国の上同士の問題で起きることの方が多いからな。その上同士が表向きでも何でも手を組めば、入国審査を軽くすることもできるのか」
上同士で起こる戦争というものを煉夜は経験したことがあるが、それ以外にも宗教戦争や国民のクーデターから戦争に発展したケースも見てきたために、それだけとは断定しなかった。ある程度、各国の経済が安定しているのならば、クーデターから戦争に発展することはほとんどありえないし、宗教に関しても不干渉が進められていれば過度な戦争に発展することはないだろう。
「まるで戦争に身を投じたみたいな言い草ですけれども、年齢を考えれば、そういった経験は……せいぜい一度か二度だと思うのですけれども」
むろん、煉夜が生まれてから、表立った戦争は一度も起きていない。だが、裏で言えば別である。カヌラの一件もそうであるが、ああいったようなことから、裏の戦争に発展したケースは数度ある。関われるとするならば、それらの裏の戦争だが、煉夜のような異才ならば目立つはずなので、その勇名がすでにルアンヌの耳に入っているはずである。
「さてな。……ん?今見えているのが、件のレ・マン湖とやらか?」
別段、話を逸らすつもりもなく、ただ思ったことを口にした煉夜。車窓には煌びやかに夕陽を反射する湖が映っていた。
「ええ。ジュネーブ湖ことレ・マン湖です。4割がフランス、6割がスイスに所属する湖で、ヨーロッパでも屈指の大きさですもの。もっとも、ロシアを含めたら、二十数番目ですけれども」
レ・マン湖は、瑞西や仏国でも重要な観光地である。そのため、レ・マン湖ほとりの道路では少し工夫がされている。道路の高さが逆車線の道路と高さを変えて配置されている上に、それが湖側から見えないように山並みの景観もしっかりと整えている。
つまり、走る車からは、どちらの方向へ向かう車でも、しっかりとレ・マン湖が見えるようになっていて、レ・マン湖からは、その車や道路などの自然景観を崩すものが見えないようになっているということだ。
「もうジュネーブに着きます。見た所、大きな動きは起きていないようですけれども、一応、確認してから宿へ?
すでに信頼できる宿は確保しているのですけれども、宿に先へ向かうのでしたらそれはそれで、色々と準備がいるでしょうし」
煉夜の感知するところでも、何か奇妙な動きが起きているような様子はない。だが、すでに、奇妙なことが終わった後だったら、という可能性がないわけではない。そう考えるのならば、日が落ちる前に簡単な確認だけでもした方がいいだろう。
「湖に向かってくれ。いろいろと確認だけはしておきたい。できれば今日中に終わらせるのが一番いいんだが、それが可能かどうかも分からないしな」
少なくとも、現状で、スファムルドラの聖盾の気配は、煉夜に感じられないものであった。そうなると、それが本当はスファムルドラの聖盾ではない、という可能性もあるが、引き揚げなくては共鳴できないほどに弱っているという可能性もある。それを考えるならば、引き揚げるには、少なくとも手続き等を今夜中に押し通したとしても、実行は早くて明日になる。
「では、そうしましょうか」
正直なところ、指示する側は本来ルアンヌが担当しているはずなのだが、スファムルドラの聖盾を確かめる術を持つのが煉夜だけである以上、どうあっても、煉夜に指示を仰がなくてはならないのはひっきょうである。
レ・マン湖では、遊覧船での観光が可能であるが、今回は遊覧船で観光しながら見るわけにはいかない。なぜなら、湖底を除く関係上、湖面と近いか、船底に湖の中を覗けるような何かがある必要があるからだ。
そのため、専用の調査船を既に用意してある。もともと、近いうちに調査をする予定であったために、準備だけはすでに整っていたので、それをそのまま使っているだけだが。
クルーズ船というには、少々不格好な船で、煉夜たちは湖上へと進んでいく。遊覧船の航路と被らないようにする必要があるため、少し変則的なルートを通るが、それ以外はおおむね正常なものである。船底の一部がガラス窓のようになっており、湖底を覗くことができる。もともと調査のために用意された船なので、当然と言えば当然だろう。
もっとも水深の関係から、はっきりと視認できるかと言われれば微妙なところである。そのため、望遠カメラのようなものもあり、船室内には、その映像を映すことのできるモニターなどもついていた。
そうして、モニターに映し出されたのは、「盾」と表現するにはいささか大きく、表現としては、門扉がそのまま門から外れ落ちたような、そんな印象である。とてもではないが、あれを盾と言い張るのには無理がある、とそう思わないでもないものであるが、それを見た煉夜の胸中には、不思議な感覚が浮かび上がっていた。
見たこともない、聞いたこともないはずなのにも関わらず、煉夜はその物体を間違いなく、スファムルドラの聖盾である、とそう思ったのであった。




