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白雪の陰陽師  作者: 桃姫
黄金神話編
221/370

221話:聖者の十戒説きし者・其ノ弐

 モーセ。それは、偉大なる聖人にして、預言者の名前である。もっとも有名なのは、彼の残した十戒(じっかい)であろう。十戒とは、シナイ山にて、モーセが神より受けた10の神の意思であるとされる。その内容は、


 主が唯一の神であること、偶像をつくってはならないこと、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守ること、父母を敬うこと、殺人をしてはいけないこと、姦淫をしてはいけないこと、盗んではいけないこと、隣人について偽証してはならないこと、隣人の財産をむさぼってはならない、というものが十戒である。宗教や聖典によりその内容は異なるが、おおむね同じようなことが十戒となっている。


 また、海を割るという奇跡の話も有名であり、人ごみが割れるような状況をモーセのようやモーセ効果と呼ぶことがある。


 そんなモーセは、先ほどラムセス二世が名前を出したように、知己があった。モーセは赤子のころに川に捨てられ、ファラオの王女に拾われ、育てられたとされる。この際に、モーセとラムセス二世は出会ったのであった。


「あの……、あの2人は、その、どうなるんですか?」


 彼の視線でようやく、彼女たちのことに気づいた千奈は、彼にそう問いかけた。明らかに千奈とは扱いが違うため、もしや殺されてしまうのでは、などと嫌な予感が頭をよぎる。


「案ずるな。あれ……いや、今となってはあれらか。あれらはどうするつもりもない。もはや、自由なのだからな」


 その含みのある言い方の意味がいまいちわからなかった千奈は、首をかしげる。そんな様子を見て、ラムセス二世は口を開く。まるで昔話をするかのように、遠い目で。


「モーセを知っているか?いや、知らなくても構わない。まあ、あれと我は、いわば友人のようなものであった。あるいは、兄弟と表現しても構わないのかもしれないがな」


 懐かし気にそんな話を始めた彼を見て、何の話だ、と千奈はきょとんとしたが、それでも話を遮ることはしなかった。


「我はファラオであり、奴はみなしご。本来ならば、到底、会うはずもないのだが、あれは違った。類まれなる才を持っていたのだ。それゆえに、教育を受けたのだ。もっとも、我と同じ教育を同じように受けていたわけではないがな」


 神皇には神皇のみに関わる国営の教育もある。それゆえに、すべてが同じではなかった。だが、それでもたびたびに顔を合わせ、語らい合ったという。


「そんなあれが、ひょんなことから罪を犯したのは、あれの心情を思えば仕方のないことだったのだろう。だが、掟は掟。決まりは決まりである。我はあれを追い出した」


 それは苦渋の決断であったことが、何となく、千奈にも伝わった。


「そうして、追い出されたあれは、使命を受け、人々を導いた。我は罪を裁くように、幾度かあれに追っ手を出したが、あれは海を割り、人々に食料を与え、そうして導いたという」


 そこまで語ったラムセス二世は、視線を、千奈の友人2人へと向けた。その視線に含まれる感情は、どうにも複雑そうで、見えないものであった。


「その後、使命を果たしたあれは、死して、その魂は使命より解放された。十戒に縛られていた反動だろう。その真逆の存在として生まれ変わったのだろう」


 それはすなわち、六佐(むさ)十迦(とおか)遠海(とおかい)桃瀬(ももせ)がモーセの生まれ変わりであると、彼は暗に言っているのだ。「ムサ」、モーセはコーランにおいては「ムーサー」と記されている。「十迦」と書き「じゅうか」、彼の受けた「十戒」になぞらえた名前である。「遠海」もまた「十戒」、桃瀬も「ももせ」から「モーセ」を連想させる。


 名が魂を引き寄せたのか、引き寄せられた魂が名に影響を及ぼしたのかはわからないが、彼女たちは、確実に十戒に反す行動をとって生きてきた。無論、殺人などはしたことがないが、それでも十戒に反するように、それでも現世の罪を犯さぬように生きていた。

 千奈との会話で「マジ神」や「千奈大明神」というように、これは主が一人というものや、神の名をみだりに唱えないに反する。補修や遊びで休みなどないのは安息日を守ることに反する。そのほか、彼女たちの生き方は、端々に十戒に反する行動をしていた。

 それらは反動である。そういった魂の状態を理解できたラムセス二世は、彼自身も今は魂だけの状態だからであろう。普通に神皇として君臨していた時代には、人の魂を理解するなどできなかったことである。


「話が長くなったな。しかし、……このようなところでモーセの魂に出会い、そして、お前もここにいる、というのは、非常に感慨深いな」


 愁いを帯びたその顔に、千奈はドキリと心臓を鳴らす。その顔をどこかで見たような、そんな記憶が頭中を駆け巡る。そして、視界が白く染まった。いや、正確には、千奈の視界がフラッシュアウトした、というべきか。記憶が奔流のように流れ込み、頭痛がする。だが、それは、紛うことなき、記憶であった。






――その愁いを帯びた顔は、屋根の上にいた彼の横顔だった。


 少女は、その整った顔立ちの少年……少年と青年の間くらいの男を偶然見かけた。年の頃は14、5といったところであろう。その少年の視線の先には、見たことのない雰囲気の少年がいた。どうやら、彼はその少年を見ているようであった。


 赤い髪が印象的で、顔立ちのわりに背が高く、一瞬、大人のようにも見えるが、それでもやはり少年であるのだろう。


 やるべきことがあるので、彼女はその場を離れたが、それでもその時に見た、愁いを帯びた顔だけは忘れることはなかった。





 それからしばらく、あわただしい時間が流れていく。風のうわさでは、王家で雇っていた異国の風貌をした少年が埃国人を殺害したことで問題となり、王子がその少年を追放、逃げた少年を追って、幾人かの兵が出たらしいとのことだった。


 だが、そんな噂など、生活に対して影響を与えるようなものではなかった。日常は普通に過ぎていく。

 そんなある日、偶然にも彼女は、また、屋根の上でたそがれる少年を見かける。ただ、その視線の先に、あの日の少年の姿はない。それがどういう状況なのかなど、彼女が考えることはなかった。






 そうして、また、次は別のうわさが流れ始める。王子が妃を探しているというものだった。この時代、そう珍しいことではないし、妃も一人とは限らない。多くの子供が産まれてはなくなってしまう時代であった。血を残すためには、多くの子が必要である。中には近親で子供を産むようなこともあったというのだから、幾人も妃を集めることすら、普通であった。


 それからしばらく、少年の姿を見ることはなく、時間が少しずつ過ぎていく。





 ある朝、久しぶりに彼女は、その少年を見た。遠くの方へと目をやり、憂う姿が、妙に気になって、そこで初めて、彼女は彼に声をかけてみることにした。


「あの……、よくここで見かけるんですが、何を見ているのですか?」


 民家の屋根、とはいえ、日本のような屋根ではないので、ごく普通に昇れてしまった。その屋根の上で、彼女は少年にそう問いかける。


「……我は。……我は彼方を見ていた。それだけだ」


 そんな風に答える少年の目には、目の前の彼女すら、瞳に映っていないようであった。どこか遠く、それこそ、彼方を見ているという言葉通りのように。


「前に、ここからあなたが見ていた異国風の少年のことを考えていたんですか?」


 彼女は、本当に、ただ、気になったから聞いただけであった。しかし、その質問に、少年は肩を震わせた。


「……ああ、そうだ。あいつは友人だった。友、という意味ではかけがえのないほどに、な。しかし、あれは、この国の人間を殺してしまったのだ。理不尽な暴力を振るわれているものを助けるために」


 それは、思い出すというよりは、常に思い続けているかのような言葉だった。


「本来ならば、我が裁くべきは、理不尽な暴力を振るっている、あの男の方であるのに、……ルールはルール、掟は掟だ。我は、あれを追放せざるを得なかった」


 むしろ、それこそが、唯一の活路であったのだから。そのまま捕まれば、極刑は確実であり、どうあっても救うことはできない。ならば、会うことはできずとも、この場を離れさえすれば、まだ、どうにかするだけのチャンスが残ると思ったのだ。


「それからの我は、どうにも心がかけたようで、何をしても、どうあっても、我の心は満たされない。女を娶ろうと、新しいことを学ぼうと、どうにもならない虚無感が心の中にあり続けるのだ」


 彼方を見ながら、そんな風に愁い、悲し気に言う少年を見て、彼女は、そっとその手を握る。歳で言えば、そう変わらないはずだが、それでもそっと、彼女はその手を握りしめた。


「それは当たり前のことですよ。なぜなら、女性を娶ろうとも、その女性はあなたの友人ではありません。代わりになるはずがないのですから。あなたは、今、失った友人の代わりになるものとして女性や勉学に取り組もうとしている。それで心が満たされないのは当然のことです」


 触れた手から伝わるぬくもりは、今まで触れた女性の中でも誰よりも温かく、それはまるで母のような、それでも母とは違う温かみを持っていた。


「仕事などでは代わりにそれをする人間などいくらでもいるでしょうが、心では違います。あなたがするべきなのは、友人の代わりを探すことではありません。友人のことを受け止めて、そうなってしまった事実も受け止めて、それでもなお、前を向いて歩むことです」


 まるで、諭すように、そんな風に言う彼女の顔を、少年は、そこで初めて正確にとらえた。蒼い瞳がまるで空や川のようだと思った。


「我は、前を向いて、歩けるだろうか……」


 ぽつりと、口から洩れる本音であり、弱音。少年は、弱音を吐くことを許されずに育ってきた。だからこそ、ハッとして、自分が口にしたことを自分で驚いた。


「ええ、できますよ。男性は、むしろ、この国の王になって法律を変え、友人を迎えに行ってやる、とでも断言するような心意気でいるべきです」


 それは彼女なりの冗談なのだろう。少なくとも、この国おいて、王になるというのはそう簡単なことではない。そんなことは分かり切っているのだから。


「でも、それでも、どうしても前を向けないというときは、周りの人間を頼ればいいんです。泣いて、本音を打ち明けて、相談をして、そうして、前へと進む手助けをしてもらえばいいんですよ」


 そういう彼女は、温かく、美しく、そして何よりも輝いて見えた。そう、それはまるで太陽よりも。

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