208話:見てはならない者
人間の感覚が鋭敏になる状況というのは、心が落ち着いているときと心が焦っているときの2つある。どちらも、その状況がピークになったときに、人の感覚は研ぎ澄まされる。酷く落ち着いた状況では、周囲の物事を敏感に感じ取りやすく、焦りが頂点に達した状況では、一つの物事に関しては敏感になる。
この場合、鳥尾に求められるのは、一つの物事、つまり煉夜のことを「視る」感覚だけを鋭敏にすればいい。しかし、その視覚を失っている鳥尾は、それ以外の感覚を鋭敏にすることである。なので、その結果、それを可能にするためのものが、「動静一体」というものである。
「動静一体」とは、静の気質と動の気質を併せ持つことであり、本来ならば、落ち着きながら焦るという矛盾を抱えたものであるため不可能なことである。その不可能を可能にするための準備が一週間という時間にある。
もともとの鳥尾が持つ「心眼」は静の性質である周囲の物事を鋭く感じ取っていることである。そこに、動の集中力を加えるには、疑似的にもう一つの人格をつくり、それに動の役割を持たせればいいのである。焦る、というのを例に出したが、焦るというよりは、試合の最中に、相手以外の無駄な情報をシャットアウトしているというような例もある。要は、極限に集中した状態で、無意識に要らない情報をカットして、要る情報に対する処理速度を上げているのだ。
その人格の安定と合一にかかるのが約一週間、場合によっては延びることもあった。
そして、この人格を生み出すのは術であるが、そこから先、人格が存在すること自体は陰陽術ではない。そのため、魔力や霊力を使っていないため、煉夜ですら気づきづらい。
だからこそ、その極限まで研ぎ澄まされた「心眼」は、煉夜の中まで見通そうとした。あるいは、普通ならば、そのまま見ることができただろう。だが、そうはいかなかった。
見えているのに、見えていない。そんな不思議な感覚に苛まれ、鳥尾は困惑する。
(見通したはず……、だが、見通せない。なんだ、この感覚は……)
何かおぞましい何かに阻まれているような感覚に、鳥尾は身を震わせる。煉夜はすでに、鳥尾に礼を言って、支払いを済ませ、去ろうとしていた。
その立ち去る気配に覆いかぶさるように、異質な何かが鳥尾の感覚に居座っている。
そして、見ないはずの視界に、突如それは現れた。年はいくつと称すべきか、もはや人の年齢と見た目が結びつかない鳥尾には分らなかった。しかし、若い、というのは、感じ取れた。そう、見た目は若い、しかし、その中身は完全にそうではなかった。あるいは、器は若いと称すべきだったのだろうか。
「まったく、私の煉夜を覗こうとするなんて、なんて不届きなのかしら」
それは、鳥尾にとって不気味な存在に他ならなかった。常に暗い、暗黒の視界に、突如割り込んだその女の纏う気配、それは、
「神か、悪魔か……」
少なくとも、人の纏う気配ではなかった。長年、人を目ではない目で見てきた鳥尾だからこそ、そういったものは敏感に感じ取れた。まっとうな人ではない、というよりも、生来人ではない何かであると、そう感じた。
「……ふふっ」
それに対して、女は意味深に笑うだけであった。そして、鳥尾は知る道理もないので、まったくもって知らない人間ではあるが、その人物は、どことなく、武田家に三ツ者が持ってきた情報にあった女性によく似ていた。
「そうね。柊美神とでも名乗りましょうか。かつて、煉夜にそう名乗ったように」
その笑みは、まるで悪魔のようではあったが、異質さは、悪魔というよりも神や天使に近いのだろう。まるで触れることを許されない、人よりも上位の存在であるかのような、そんな壁のような気配。
「残念ながら、煉夜を覗かせるわけにはいかないけれど、それはあなたのためでもあるわ」
その意味は、鳥尾にもよくわからなかったが、その発言に嘘はないと思えた。あるいは、思い込まされたのかもしれないが、少なくとも、鳥尾が煉夜を見ていたならば、酷いことが起きていたような、そんな気がしてしまう。
「研ぎ澄ましすぎた心眼は、その人間の人生を透視するわ。けれど、あなたには、煉夜の人生を受け止められるだけの器がない。処理できなくて、脳がパンクするわよ」
いわば、煉夜の数百年を一瞬で見ることなど、不可能に近い。だからこそ、鳥尾は見なくて正解だったのだろう。
「少なくとも、あの子は私の特別で、それで、やつらの特別で、あなたたちの特別なのよ」
やつら、と女が指す存在のことは、鳥尾には分らなかったが、あなたたち、というのは煉夜を擁する陰陽師のことを示しているのだろうとは思った。
「それにしても、私の親友の子孫とはいえ、■手と■■が同時に雪白家に現れるというのは、なんというか、……カナミらしいのかもしれないわね」
そう言いながら、女は視界から消える。そこに残されたのは、いつもの暗黒の世界だった。
鳥尾に、何かをする気力がわいたのは、それから1時間余りを棒立ちで過ごした後だった。まるで、すべての精神力を奪い取られたかのような気分であったが、それでも、何とか、電話を手に取った。
操作するのも煩わしく感じるが、そんなものお構いなしに、乱雑にタップして電話をかける。そして数コールの後に電話が取られる。
「はい、雪し」
電話を取った主がそれ以上の言葉を紡ぐことができないほどの剣幕で、鳥尾は電話の向こうに声を飛ばす。
「木連だ、木連を出せ!」
あまりの怒声に、電話を取った美夏は思わず、誰がかけてきたのかわからなくなるが、間違いなく鳥尾であることを理解して、何をそんなに声を荒げているのかと、思いながらも、「しょ、少々お待ちください」と言って、木連を呼びに行く。
電話を待っている間に流れる音楽にいら立ちを隠せない鳥尾は、木連が電話に出るのを今か今かと待っていた。
「おう、鳥尾、一週間と言っていたが今日だったか」
ここ数日、雷隠神社と神奈川の件の隠ぺいに奔走していたために、今が何日なのかなど、木連には分らなくなっていた。美夏から、若干の戸惑い混じりに鳥尾から電話があったといわれて、初めて一週間たったことを自覚したのだ。
「今日だったのか、じゃねぇ。なんだよ、あれは……!」
切迫した鳥尾の声に、木連の気分は切り替わる。旧友との軽い会話の気分はすっかりと抜け落ちて、真剣な眼に変わる。
「見えたのか、中が……?」
前回と同様の問いに、鳥尾は苛立った声で、怒鳴り散らすように答える。
「見えねぇ……、見なかったが!だが、あれは……!」
今までにないくらいに鳥尾が取り乱していて、木連はその様子を珍しいと思うと同時に、そうさせるだけの何かが煉夜にあることを確信した。
「落ち着け、いったい何がわかったんだ……?」
木連の言葉に、鳥尾は、自身の苛立ちを自覚し、それを落ち着かせるように、「悪い」と断りを入れてから深呼吸をした。
「すまない、動揺していた。だが、あれは、お前も、あれを目にすれば、俺と同じようになるだろう」
鳥尾が動揺するだけの事態に、木連はどうしたものかと迷うが、鳥尾の話の前に、木連が得た情報の話をすることにした。
「そうか、じゃあ、まずは、こちらの話からしよう。聞きながら落ち着け」
そう言って、一週間前から現れ、様々な情報が手に入ったが、逆に謎も残したとある少女の発言を思い返す。
「空前師匠が来ていてな、その師匠が2人の巫女もつれてきていた。そのうちの1人、八巫女筆頭の似鳥雪姫が、どうにも煉夜のことを知っているようだった」
そう、そこにつながりなどないはずなのに、雪姫は煉夜のことを知っていた。ただ知っているだけならば、彼女の場合は、様々な手段をもって調べることはできるだろう。それこそ、過去から未来まで。だが、そうではなく、親しきものとしての知己があるようであった。
「そして、おかしなことを言っていた。煉夜は、稲荷一休の師事を受けている、と」
稲荷一休、近代陰陽師において、彼の名前を知らないのはもぐりであるといわしめるほどの大天才。しかし、行方不明となっている今、その師事を受けることはできないはずであった。それから、
「そして、煉夜の本来の力は、陰陽師ではなく、別の何かである、と」
似鳥雪姫は、けして多くを語らなかったし、その後は、話を聞くどころではなく忙しくなったので、詳しいことは何も聞けていないが、それでも、その2つの情報は木連にとって、新しい情報であった。
「そうか……。儂が得た情報と、それはおそらく結びつかんが、それでも何かには役立つだろう」
そう言って、鳥尾は言葉をしどろもどろに紡ぎ出す。
「雪白煉夜は、神の加護を得ている。それも、おそらく寵愛といっていいほどの。あるいは、あれが神ではないとするならば、悪魔の寵愛かもしれぬがな。ともかく、あれは、人ではない何かに守られていた。見通すことが許されなかった」
神か悪魔の寵愛、普段ならば笑い飛ばす与太話であるが、鳥尾がそれを真剣に言っていることは間違いようの事実であった。
「それから、気をつけろ。雪白煉夜だけじゃない。もう1人、いるはずだ。そいつの寵愛を受けている存在が。やつはよくわからないが、手とか、何とかとか言っていたが、間違いなくいる」
どう気をつけろというのか、と思いながら木連は、雪白家にいる面々を思い起こし、とりあえずは考えるのをやめる。
「その神の名は、柊美神。そう名乗っていた」
「柊……?いや、それよりも、ミカン?どこかで聞いたなだな」
名前も苗字も、何かを思い起こさせるには十分なものであった。特に苗字の方は、木連もよく知っている。
「何かを知っているようだな。柊と言えば、お前のところの……」
「ああ、だが、それだけではなく、どこかで……。すまないが、調べ事ができたな。少し蔵を漁ろうと思う。確か、その名前を記したものが、どこかにあったはずだ。それこそ、雪白家の始まりのころに」
雪白家の始まり、それは、真田繁や武田信姫が言っていたものと奇しくも重なるものであった。




