187話:金糸雀の唄が天に届く
――地黄八幡。
それは、後北条氏における黄備えを担当した北条綱成の異名である。地黄とは、黄備えのことであり、旗の色である。そして「じきはちまん」は「直八幡」でもある。
八幡大菩薩。武家の神として知られ、「直八幡」とは、その八幡大菩薩の直系であると称すことと同義であった。武家の神の直系ならばこそ、強きものである。
八幡の名を借りるのは武家の人間ならばよくあることである。八幡太郎と名乗った源義家がその中でも有名な例であろう。もっとも、武家の神であるとされる八幡大菩薩であるが、武家の神として信仰していたのは主に源氏と桓武平氏である。
後北条氏は、この桓武平氏の末裔であり、また、今川氏も清和源氏であり、北条綱成の生きた道には、八幡信仰と関わりも深かった。
そして、死ににくく、老いづらいというのは、武家の神たる八幡大菩薩の加護とされ、その力、そのものが「地黄八幡」と称されるようになる。
そうして、その血は、各地に散りながらも生き続ける。「地黄八幡」の名前とともに、戦国時代から江戸時代を経て。
江戸時代の時点で、忌避されつつあったその力は、明治時代に移り、完全に禁忌となった。戦いの時代ではなくなったこともあったが、何より、神仏分離と八幡大菩薩という神号の禁止により、「八幡」というものが禁忌となってしまった。
ゆえに「禁」じられた地「黄」八幡と、禁忌の語感をかけて「禁黄」と呼ばれるようになったのである。
ただ老いづらく死にづらいだけならば、殺してしまえばいい、と西園寺後取は考えている。そして、死にづらいからこそ、大森槙は、彼女を大森家へと置いて行ったのだと思った。
先に、大森の直系が不在の間に、大森家を取られることが、すなわち敗北であると大森槙が考えていると後取は考えていた。ならば、この小田原城にいる間に、大森家を制するのも一手ではあった。
しかし、それをしなかった理由がある。まず、一つが、予想外に南に逃げたこと。南に危険度の高い何かがあると困る。そして、もう一つが、この場で大森家を取ったところで、小田原城という「北条」の証が相手の手にあれば、結局は取るべき場所が小田原城に変わるだけなのだ。
「鬼の血といえど、殺して焼けば死ぬだろう。数ではこちらが有利だ。とっととけりをつけようではないか」
その後取の言葉は、半ば合図のようなものだった。それも、南十字風魔に対する。すぐに終わらせる、という指示通り、風魔が檀の首を取るべくかける。認識外から目にもとまらぬ速度で。
煉夜と鷹雄が止めようと武器に手を駆けようとして、夜宵に止められる。ラウルやののかにはあらかじめ言ってあったことである。
「この戦いは、私たちの戦いだから、大丈夫」
どこか、達観したような顔の夜宵に、2人は武器を納めた。覚悟を決めているようで、それでもどこかに迷いがあるようであったからだ。
南十字風魔は、煉夜と鷹雄の知覚範囲から外れるべく、かなり距離を取って待機していた。それゆえに、そこに届くまで、まだ、数秒と時間がある。そんな風魔の耳に聞こえてきたのは、歌声だった。
「歌……?」
清く、美しい歌声。それは、夜に聞こえていた宮の歌声だった。――風魔は駆ける。檀の首を刎ねるため。ただひたすらに、駆けて駆けて、その刃は檀めがけて振り下ろされる。
「ははっ、はははっ!」
後取が勝ちの笑みを浮かべる。いくら、「鬼の血」といえど、首を刎ねられれば治るはずなどない。だが、その後取には、宮の歌がまだ届いていなかった。しだいに、己が心音の落ち着きと、声が静まり、その歌が耳に届く。
「ごあいにくさま、わたしは、その程度で死なない状態まで持っていけるんですよね」
悠々と、片手で風魔の刀を受け止める檀の姿。普通ならばありえない。だが、それを可能にするだけの力がここにあった。だからこそ、後取は悟る。
「宮の歌かっ!!」
後取が忌々しいものを見る顔で、己が娘を見る。西園寺宮には、生まれながらに、ある一つの力が宿っていた。それは、ある意味、宮だけでは、ただのそれだけの能力でしかない、意味のないともいえるものだった。
「主を讃える声……」
宮の生まれ持つ能力、「主を讃える声」は、主を賛美するという心が込められた声であり、その歌声は、主へと届く。この能力の名称を付けた場所は「主」へと信仰を届けるが、宮の場合は、この万物に神がいるとされ、宗教も入り乱れた日本の生まれ。
宮にとって、神とは存在しないものである。それでいながら、神へと声を届ける力を授かった。その矛盾。それはつまり、宮の認識ではなく、大衆が神と認識しているか否かで神と認識する。
普通ならば、それだけであった。神に声を届けたところで、奇跡が起こるかどうかも不明な、それだけの力。
だが、この場においては違うことが一つだけある。あるいは一つではないのかもしれないが、違うことはある。
――神に認められているものがいる。
神……神霊と呼ばれる存在は、種ではなく個に依存する。姫毬がかつて、「天の力というのは、血ではなく人を選ぶものですから」と言っていたように。それはつまり、地黄八幡と称された北条綱成には「八幡大菩薩」の恩恵があったということであり、かつ、大森檀にはその恩恵がないという意味でもあった。
神とは気まぐれなものである。聖人の子が必ずしも聖人となるわけではなく、また、生まれに関係なく聖人となることがある。
――神に愛されている者、神と同じ力を持つ者、神が周りに居続けた者。
そんな者たちのように、神に好まれるというのは、少々特殊な要素がいる。だが、その多くは、その宗教なり、宗派なりに属していること、つまり、その神の目の届くところにいることが必要だとされている。
檀は、その恩恵を受けていない。直八幡を称していた北条綱成とは血がつながっていようと、それだけでは意味はない。そして、そうである以上「地黄八幡」は完全な力を発揮することはない。それこそ、北条綱成のような鬼神の如き力を。
それを可能にするのが、宮の「主を讃える声」である。神仏習合により「八幡大菩薩」と呼ばれているものの、その源流は「八幡神」である。神と崇め讃えられる存在であるならば、宮の声を届けることができる。
そうして、檀の「地黄八幡」に「八幡神」をつなげ、鬼神たらしめることこそが、宮と檀の能力を最大限に生かしたものであった。
「この状態のわたしは死なず、老いず、そして、武において、神憑り的な力を有しているんですよ」
もともと、死にづらく老いづらいだけの「地黄八幡」であるが、そこに「八幡神」の加護が加わったとなると話は変わる。
武家の神というのは、戦いに勝利をもたらす「武運」と「武力」を司るものであり、また、戦いにおいて死なない「不死」を司るものであり、そして、戦い続けるための「不老」を司るものでもある。
ただの死にづらく老いづらいというものに、「武運」と「武力」と「不老不死」が加護として加わった。そうなった状況の檀に勝つことができるのは、不死殺しくらいであり、煉夜や鷹雄ですらも倒すのは厳しいだろう。
もっとも、倒せないだけであり、檀の力では、煉夜や鷹雄を倒すことははできないので、結局、決着がつかないで終わるだけであろうが。
「まさに、地黄八幡の再来ってわけか……」
独り言のように煉夜がつぶやいた。血としての能力の継承ではなく、まさに北条綱成の再来と称すべき存在。
「チッ、だが、それも長く続くわけではあるまい。それまで攻撃を続ければいいだけの話だ。いくら死なずとも、こちらにはこれだけの戦力があるのだから」
戦力差は、確かにある。されど、悲しいかな、その差は、誇れるほどの価値がない。一騎当千の猛者……中でも、神獣に届く力を持つ者が2人いる。その時点で、たった数百人など意味もなかった。
西園寺後取は、己の保身のために、常に南十字風魔を身近に置きすぎた。そのせいで、敵勢力の十分な把握ができていない。北大路夫妻がいる間、そして、鷹雄がいる間、煉夜が来てから、その間の風魔の偵察は、すべて倒されている。北大路夫妻がいる間は、警戒して遠くからの偵察を主にしていたため、夜風の戦闘力が高いことは分かっていたが、夫妻がいなくなった後、接近を図る敵は、すべて煉夜と鷹雄の知覚域に入ることになる。それを見逃すほど愚かではない。
そうなると、結果として、煉夜と鷹雄の情報はほとんど後取の元には届いていない。それは結果的に、自分の首を絞めているということには、まだ、気づいていない。
その頃、横浜付近には、ひとりの少女と青年がいた。場合によっては補導されかねない光景ではあるが、そういった雰囲気ではない。少女も日傘をさした上品な趣がある、普通ではない少女であった。
「なかなかに面白いものであった。青葉何某とやら、感謝しよう」
少女、というにはあまりにも、少女らしからぬ雰囲気。それがまとうのは、人ですらないような異質な気配であった。
「お気に召したなら何よりですよ、多聞天」
青年の言葉を何ら気にすることなく、西の方を見やる。そこから、ある気配を感じたからである。
「少しおらぬだけでずいぶんと面白いことになっておる。あれは、八幡神か。青葉何某、貴様も神であるのだ、わかるだろう?偽物だろうと、神は神だからのう」
青年は静かにうなずいた。むしろ、彼にとっては、こうなることがわかっていたからこそ、ここに降りたという面もあった。
「小田原のあたりか。面白い。変えるついでに寄るとしよう。貴様はどうする?」
「自分は、少々行く当てがありまして」
少女は、その解答を予想していたのか、それとも答えには特に興味がなかったのか、「そうか」といいながら、東へ向かって歩き出した。
その日傘が見えなくなるまで見送り、青年……と称すにはいささか年齢のいった彼は、背後の扉を見る。
「さて、次は……ん、鳴凛のところか。ついでに顔を出して、鳴音、鳴司、凛音の顔でも見てくるかな」
数秒後には、扉ごと消えていた。




