017話:初芝重工社長令嬢誘拐事件其ノ一
彼女は揺られるような感覚で目を覚ました。そして目を開けて、暗闇が広がっていた。口も閉まらない。どうやら目隠しをされて猿轡で口も縛られているようだということに気付いた。手もある程度まで行くと動かない。冷たい輪の感覚から手錠されているのだと悟る。同様に足も動かない。
彼女が自分は誘拐されたのではないか、と悟るのにはそう時間がかからなかった。真っ先に思ったのは、今日、火邑と帰っている日でなくてよかった、と言う感想であった。犯人は誰か知らないが、身代金目的の誘拐であることはすぐに察することが出来たのは、普段からその自覚があったからだろう。
――初芝小柴
初芝重工の社長令嬢であり、私立山科第三高等学校一年生、クラス委員長であり、女子ソフトテニス部の部長。通称は、おふてんちゃんである。このおふてんちゃんとは火邑が、初「芝」小「柴」から「しばしば」、そして「often」、「おふてん」となったのが経緯である。珍妙なニックネームだったが、彼女自身は割と気に入っていた。まず、ニックネームをつけてもらったことがなかった彼女にとっては初めての体験だったからだ。
初芝重工。京都に古くからある会社であり、その成り立ちは大昔、司中八家などがあった時代に鍛冶師として栄えた初芝家を先祖に持ち、成り立ちからして代々司中八家と深い親交があった。そして、重工業会社として成功してからも長く京都の中枢にかかわっている。特に異能力を持っている一族ではなかったが、その成り立ちだけで京の名門と言われるだけのことはある手腕を持っていた。小柴は歴代の中でも突出した才能の持ち主であり、陰陽師の力があるわけではなかったが、水姫が認めるほどの人格と才能を持っている。
そんな彼女が誘拐犯のターゲットになるのは十分にあり得る可能性だろう。それを彼女は十分に考えていた。だからこそ、まず思ったのが火邑と一緒でなくてよかったという感想なのだろう。
どのくらいの時間こうしているのかは彼女自身には分からなかったが、そう長くないような気がしていた。どのような誘拐方法にせよ、遠くまで運ぶのに車のみを用いることは考えられない。車を使うということは高速道路を使うにせよ一般道を通るにせよ、その姿を長時間人前に晒し続けることになる。防犯カメラ、ETC、その他諸々、それらを掻い潜ってでも車で遠くに行くとは思えない、と小柴は判断したのである。
その予想は正しかったのだろう。しばらくして車が完全に停止した、つまりどこかに駐車したのが分かった。
それでも動かされることが無いことから、しばらくこのまま放置されるのだろうと小柴は直感した。初芝重工に身代金の要求をしているのだ。
そんな彼女は、視覚を封じられている所為か、いつもより何かを敏感に感じ取っていた。霊的な何かが自分に付きまとっているような感覚。それが友人の兄の気配によく似ていることに気付くのにそう時間はかからなかった。
そして、安心した小柴の意識は深い闇の底へと、微睡の向こうへと誘われていく。それは悠久の果ての記憶。彼女が彼女でなかった頃の記憶である。
六方の辺境にはある日を境にできたおおきな氷林があった。永久凍土と化したその一帯を少し離れれば砂が吹きすさぶ砂漠。六方は人の住みにくい環境へとなっていた。それを調べるために五方を拠点にしている彼女がわざわざ隣の六方に顔を出していたのである。顔を見られないようにするために深いフードを被る。砂漠ではさほど珍しくない格好だろう。
そんなことを考えながら、彼女は砂漠をひた歩く。彼女にとって暑さや寒さは関係なかった。彼女の着ているローブはそう言ったものに対する対策をしている貴重なものである。
砂漠に人が居るとしたら別の方へと近道するために無理やり砂漠越えをするものくらいであろう。特に辺境の辺りともなれば、かつてノクトリアと呼ばれた場所に住んでいた人くらいしか用はない。
ただひたすらに歩く。彼女はここまで誰にも会っていない。広い世界の端っこを歩く日陰者はそうそういないらしいと、そんなことを考えながら本当にひたすら歩いた。加速の魔法を使っていたおかげか、日が落ちる前に砂漠の端にして氷林の入口にまでたどり着く。まるで何かの魔法によって凍らされたかのようなそんな途切れ目。だが、それほどの大きな魔法を使えるものは限られる。そう、それこそ自分のような特異な存在くらいだと、彼女は自嘲気味に笑う。
その足はそのまままっすぐと氷林へと進んでいく。ローブでの耐性があってもつらいと感じるほどの極寒。元あった生態系を完全に破壊し尽した……否、現在進行形で破壊している氷結はただ事ではないことだけは確かだった。そして、林の中を進んでいくと、氷が斜面になっているような場所……と言うよりクレーターのようになっている場所を彼女は見つけた。その規模が規模だけにクレーターのようというよりは盆地という印象か。
その中心に長大な何かがあった。氷の彫像のようになっているそれは、どうやら木などではないようだ。氷山、と言われれば納得しそうなほどに大きなそれは獣だった。それもただの獣ではない。氷から透けて見えるそれは、白い毛でおおわれた、どことなく犬に似ているような獣。彼女はその名を知っていた。知っていたからこそ驚きが隠せなかった。極寒など意識の範囲の外へ零れ落ちた。全てを忘れさせるくらいに目の前のものはあり得なかった。
「神獣……それも、銀猛雷狗、……なの?」
氷に触れながら我が目を疑う彼女。神獣、それは超常の存在。おとなしいものならば使い魔として使役することもあるだろう。しかしながら、この銀猛雷狗・アルべードはその名が示す通り、銀の毛を持つ猛々しい雷を纏った狗である。超獣を倒すことですらありえないと呼ばれるのにも関わらず、神獣を氷結させながら殺すなどと言う次元の越えたことを行える存在は流石の彼女も知らなかった。八方を守護すると言われる聖女だろうと、封印から解き放たれた六人の魔女だろうと、そんなことはできるはずがないのだ。
こんなことをできる者がいるとすれば、それこそ神や半神などであろうが、彼女も探す神の行方は未だ分からない。半神などと呼ばれる者たちはとうの昔に絶滅した。それゆえに、こんなことを成しえる存在がいるなどありえないのだ。
彼女は恐怖した。この氷林化やそれに伴う周囲の砂漠化は始まってから十年は過ぎている。だが、もし、これを使ったものが時を経てさらに成長していたら、もしかしたら自分たちの脅威になるかもしれない、と彼女は感じたのだった。
「少し、みんなで話す必要があるかもしれない、かな」
そんなつぶやき、その声が震えていたのは、忘れている寒さの所為か、それとも畏怖からか、彼女には分からなかった。
覚束ない足取りで氷林を出るころには日が沈み切っていた。この暗闇の中を変えるのも面倒だと彼女は颯爽と寝る準備を整えて寝るのだった。一見、無謀で無防備に見えるが、彼女に手を出すような存在は、今はいなかった。
そうして迎えた朝は酷く奇妙な雰囲気だった。快晴の空から覗かせる奇妙な何かが彼女の警戒心を酷く煽っていた。ローブに身を包み歩んでいく。しばらく歩いていると彼女は奇妙な光景を見た。
砂漠にある岩に座って上を見上げる青年だった。その光景はどことなく幻想的に見えて、彼女は思わず立ち止まった。
青年が彼女の方を見る。にこやかな彼の笑顔に彼女は思わず見とれた。このようなところになぜいるのか、と言う疑問が引っ込んでしまうほどに。
「こんなところに人が居るなんて珍しい。旅人かな?」
青年の言葉に彼女は眉根を寄せた。まるでこの砂漠によく来ているかのような彼の言葉はおかしいと思った。格好からしても見た目からしてもノクトリアの民ではない。むしろ、見慣れない黒い髪と黒い瞳はかつて会った人物を髣髴とさせる。
だから彼女はローブのフードを取る。その美しい顔と長く伸びたエメラルドを思わせる輝きを放つ髪が、砂埃に晒される。
その髪とその姿を見ればおおよその人が気づく。それが彼女の存在だった。だが、目の前の青年はその姿に目を奪われたように、一目で惚れたように動きを止めた。彼女の思っていた畏怖の感情は一切伝わってこない。
「おっと、見惚れてる場合じゃなかったな」
「みほっ」
青年は何ともなさげに言っていたが、彼女にとっては新鮮な反応過ぎて、頬を赤く染めてしまう。彼女達のことを知っている人々が見たらありえない光景だったであろう。だが、青年は意にも介さず、彼女に告げる。
「気を付けたほうがいい。もうじき、こっちに化け物がやってくるぞ」
その言葉に、彼女は氷林で冷凍されて死んでいた神獣のことを思いだす。彼が言っているのはその神獣のことではないだろうか、と。
「化け物って、あの氷林の奥にいた?」
だから彼女は青年に問いかける。だが、彼は首を横に振った。つまり、それは彼が氷林の奥に眠るあの神獣銀猛雷狗のことを知っているということに他ならない。
「あの神獣よりももっとデカい化け物さ」
そう言って彼は背に携えた剣に手をかける。彼女には剣の良し悪しなどそうそう分かるものではないのだが、きらびやかな装飾に神々しい金色の見た目は、どこかの皇族や王族が使っていそうなものだという印象を受けた。
「もっとも、ランクは幻獣だから、あの神獣アルべードよりはマシだろうけど、大きさが違う」
彼はそう言いながら遠くを見据える。彼女は彼の視線を追う。するとその方向では砂煙がもうもうと上がっていた。そして巨大な山が迫ってきているようにも見える。
「君は、一体……?」
彼女は青年に問いかける。青年の雰囲気は、如何にもな風貌の冒険者と言う感じだが、その中の重みは全然違うように感じた。
「俺か、俺は煉夜。レンヤ・ユキシロだ。こいつは相棒の聖剣アストルティ」
ニッと笑い、手にかけた剣のことを軽く紹介する。その剣の銘に聞き覚えがあるような気もしたが、彼女は気にしなかった。そして、否定されるかも知れないと分かりながらも彼女は己の名前を告げる。
「わたしはキーラ。キーラ・ウルテラ。人はわたしのことを【緑園の魔女】、と呼びます」




