169話:暁天に舞う羽、我が力を刻め
開かれる巨大な扉。その奥にある巨大な顔は、トラやライオンのようなネコ科の動物を思わせる、獰猛な獣のそれであった。それを前にして、竦まぬものなど、人間ではないだろう。そう思わせるだけの神々しさと強大さを併せ持っていた。
人が勝てるものではない、人が御せるものではない、人が適うものではない、そういう気配がヒシヒシと伝わる。明確に、明瞭に、鮮明に。人並外れていようと、人は人。絶対に逆らえぬ壁がある。それを実感させるだけの存在が目の前にある。
「ほぉ、懲りずに扉が開かれたと思ったら、此度は女子か。まあ、よい。それで、我に何用ぞ?下らぬ要件ならば、砕いて捨てるが」
圧倒されて、口が開かない。だが、気合を入れて、目を見開いた。そして、口を何とかこじ開ける。ここで何も言わなければ、死しかない。そう思い、震える声で、言葉を紡ぐ。
「戦いに手を貸してほしいんです。今、うちらは戦いのさなかにあるんです。せやから、どうか、お力添えをお願いしたく」
目の前の獣は、かろうじて紡ぐイリノの言葉を、下らなさそうに吐き捨てる。人間の戦など、彼にとっては、それこそ児戯同然だからだ。彼自身が天変地異と同じような存在であるがため、人間など取るに足らないのだ。
「下らぬ、何かと思えば、そのような些末事で……」
我の眠りを妨げるな、と続けようとした言葉は、止まった。感じ取ってしまったからだ。その体中から放つ神気が、ある存在の気配を。
「おい、女子、獣狩りは敵か、味方か?返答次第では、辺り一面、消滅すると思え」
獣狩り、その称号で呼ばれる男の気配。これが、遠ければ別であった。しかし、彼にとって目と鼻の距離にいる。
「け、獣、狩り?」
しかし、イリノがその名前に心当たりがあるはずもない。困惑する彼女にやきもきしながらも、彼は怒鳴るように続ける。
「獣狩りだ、獣狩りのレンヤ。黒い髪で黄金の剣を使う男のことだ」
その名前は知らずとも、黒い髪で剣を使うとなれば、身内にいないうえに、目の前の存在が気にする存在として、思い浮かぶのはただ一人。
「て、敵です。めちゃくちゃ強い、人外じみた」
その言葉に、彼はニッと顔をゆがめた。まるで、獲物を見つけた猛獣のように。そして、うれしがる猫のように喉を鳴らす。
「くく、くはっ、はっはっはっ、そうか、そうかそうか。獣狩りかあ!それは愉快だ。喜べ女子、我が力を貸してやる」
ひとしきり笑った彼はそういった。その言葉がしばらく理解できず、イリノはぽかんと口を開けたが、それを気にした様子もない。
「ふん、この顔の傷の借り、ようやく返せるというものだ」
よく見ると、獰猛な顔には一閃の傷があるようだった。毛で見づらいが、確かに刻まれたそれは、人がつけられるようなものではない。
「しかし、やつと殺るならば、相応の準備が必要か。女子、もう半日、いや、一日だ。次の夜にこの扉を再び開け。さすれば、獣狩りとその周辺の雑魚どもは、我が食い散らかしてやろう」
そう言って、彼が扉を閉じた。術者ではなく、呼び出される対象が強制的に閉門するなどという人外じみた技は、やはり彼が人外だから行えるのだろう。
「…………っぁ」
肺にたまっていた空気を吐き出すように、普通の呼吸を再開するイリノ。あれを前にして、普通に、などしていられるはずもない。
「あれにあないな傷つけたっちゅう獣狩りはナニモンなんや。バケモンとかいうボケかましとる場合ちゃうな……。ったく、地脈から力引き出すんも、相応の準備いるのに、明日て、まあ、ぎりぎり間におうのが救いやけど」
鬼の間に満ちる霊力の量を考えると、呼び水に使える量を貯めるには、約19時間。それは、この風魔の里という霊気に満ちたパワースポットであり、かつ、鬼の間を中心とした集積の陣という龍脈の転結をつないだ陣によるものだ。
龍脈を結ぶことで力を得ることができるというのは有名な話である。例えば、レイラインである。パワースポットや建造物を結んだ直線のことであり、あれは、龍脈の吹き出るパワースポットを結び合わせることで、より強力な道を作り、その土地を安定させるものである。あふれた龍脈の力が自然現象となるように、適度にあふれていれば極度の干ばつや大災害が起こることを防ぐことができる。
四神の考えもこれに基づくものであり、東西南北の龍脈を結ぶことで、その土地に力をもたらしている効果もある。
京都、東京など、各所にレイラインは通っており、他にも独自の結び方で、その土地を守っているところも多い。ただ、東京、かつては江戸ではあるが、江戸時代だと、龍脈から力が溢れ出しすぎて災害となることもあった。また、火災によりレイラインが崩れることもあり、レイラインが崩れたことで干ばつが起こるなど、負の連鎖が続いた例もある。
それでも江戸時代が、250年以上続いたのは、江戸に独自に張り巡らされた陣によるものが大きいのだろう。
「何はともあれ、勝利は見えてきたっちゅうことやな。あれ相手に、普通の人間は立ちすくむやろ。そうでなくとも、一対一ならほぼ無敵。一対多でも敵はないやろな。まったく運がええっちゅうか、悪運が強いっちゅうか」
目下、最大に警戒しているのは獣狩りと彼が呼んだ煉夜。しかし、イリノは知らない。もう1人の化け物が大森家に在中していることを。人形の時は夜風がいたことで、そしてラウルの時は煉夜がかって出たことで、どちらも目立たないが、それでも強さにおいて、煉夜と互角に渡り合える男がいる。
そういった意味では、運がないともいえた。よりにもよって、化け物が二体もいるという事実は、よろしくない。だが、煉夜がいることで、命が救われたという見方もできる。半々だろう。
「……《金采》、とりあえずおとんにこのこと伝えとき。明日の夜は、全員、不覚に潜っときや、いうてな」
鳶なのにコンドルとはこれいかに。鳶の英訳はカイトである。それはさておき、鳶は、イリノに言われると、カクカクとぎこちなくうなずき、よろけながら飛んでいく。
「あんにゃろ、隠れとったくせにいっちょ前にビビっとるし……。はぁ、ったく、下っ端やと命の懸け時っちゅうのがいまいちな……」
命を懸ける時、それは、いつだろうか。命を賭してでもやらなくてはならないことが、時にはあるだろう。だが、この状況が、本当にそうであろうか。そんなことをぼんやりと考えるイリノ。
南十字イリノという人間は、少々風変りである。幼少期から、若干達観した様子を見せ、修行ばかりの日々で学校もろくにいっていないにも関わらず、教養もある。
忍の家系に生まれたという運命を受け入れるだけの度量もあった彼女は、一度も拒否することなく、忍としてのすべてを全うしてきた。彼女の口調が、生まれた土地のものではないのも、修行でずっと大阪、京都、奈良、兵庫にいたからである。
もっとも、そんな彼女だからこそ、あこがれているものもある。絶対に、そうなることはないであろうあこがれ。
――西園寺宮。
イリノが宮を、若干過大評価しているきらいがあるのも、その影響であろう。何せ、宮という存在は、イリノとは対極にいるのだから。
生まれたころから、家の仕事である忍者として育てられ、友もなく、生まれ持った力もなく、親の言うことに従って生きているイリノ。
生まれてすぐに別の姓を与えられ、家の仕事など知らずに育てられ、友にも恵まれ、特別な力を生まれ持ち、親に反発し、全面戦争を覚悟している宮。
対極だからこそ、イリノはそこにあこがれると同時に、絶対にそうなることはないと理解し、戦っているのだ。
そして、宮もまた、命を懸けて戦っていることを知っている。一度殺されかかっていることも。だからだろう、こんな状況で、イリノが命懸けで、あのような存在を召喚しようとしたのは。
「正直、うちにとっては、北条の血脈がどうやとか、風魔が仕えるべき家がどうやとか、そないなこと、どうでもええねん」
この戦いの発端であるが、そんなもの、イリノには関係ない話である。それでも、この戦いを勝利に導く、それを目指していた。
別に勝利に飢えているわけではない。戦いに飢えているわけではない。死に飢えているわけではない。
イリノは、終わらせたいのだ。戦いを。イリノが始めた戦いではない。だが、こうして、イリノや檀、宮、夜宵といった、始めた世代の次の世代へと流れている。イリノはそれを終わらせたいのだ。すべてをなくし、戦いをなくす。それが彼女のただ一つの目的。
悪を自称し、善と称す者たちと戦う、忍という名の正義の味方である。




