016話:プロローグ
授業が粛々と進んでいく。黒板に書かれる文字をノートに板書するだけの単純作業が続く中、煉夜だけはぼーっとしていた。煉夜は既に学力的には高校卒業以上のものを持っているし、2年生の授業は一度体験しているので特にすることもないのだ。そんな煉夜をジッと見る生徒がいた。紅条千奈。煉夜の面倒を見る役目を担任から押し付けられた生徒である。
煉夜は彼女に見られていることに気付いていたが、何故見られているのかが理解できていなかった。編入した日にも見られていた煉夜だが、あれから毎日のように見られている。その理由は全く持って分からないのだ。
チャイムが鳴り響き、授業が終了する。ずっと感じていた視線に嫌気が差して、煉夜はとうとう視線の主に話しかける。
「なぁ、千奈。ずっと見てくるけど、何なんだ?」
向こうでの癖が抜けきらない煉夜は下の名前で呼ぶ癖がついているが、千奈は名前で呼ばれたことを怒るでもなくむしろ喜んだような雰囲気だった。
「う、い、いやー、ユキシロってなんかオトナっぽいなーって思って」
千奈の苦し紛れの言葉に、煉夜は不思議に思った。煉夜の面倒を見る役目なら雪枝が教えているはずだと思っていた事実を教えていないこと逆に驚いた。
「先生から聞いていないのか?俺、一個上だぞ」
だから煉夜はあっけらかんと言い放った。特にそれが意味することもないだろうと思って。だが、千奈の反応は違った。一個上、と言うことで千奈の脳裏によぎるのは1歳年上の幼馴染の顔。
「おにぃ~ちゃぁん!電子辞書忘れた、貸して!」
そこに颯爽と教室のドアを開けて叫ぶ煉夜の妹、火邑がやってきた。どこか間の抜けている彼女はよく忘れ物をする。クラス内で済むのならおふてんちゃんに借りるのだが、次の授業ではおふてんちゃんも電子辞書を使うので借りられないのだ。
「ほ、ほむちゃん」
思わずつぶやく千奈。クラスは火邑の登場によりシーンとしていたために、その声は火邑まで届く。一瞬怪訝そうな顔をした火邑だったが、千奈の顔を見た瞬間にハッとする。
「あっれ、千奈っち?」
あまりに馴れ馴れしい呼びかけに煉夜が妙な顔をした。火邑の知り合いなのだろうか、と考える煉夜だが、火邑がその煉夜を見てため息を吐く。
「お兄ちゃん、覚えてないの?」
そう言われても煉夜には全く心当たりがなく、何を言っているんだと考えていると、火邑が説明する。
「まだ、6年しか経ってないのに覚えてないの?紅条千奈っちは、火邑たちの幼馴染だよ?」
6年、その時間は火邑や千奈にとっての時間と煉夜の時間では大いに異なる。それゆえに、煉夜は千奈のことを全く覚えていない。家族のことならいざ知らず、それ以外のことなんて余程印象に残っていない限り忘却の彼方へと消し飛ぶだろう。何せ、彼は100年以上の時を向こうで過ごしてしまったのだから。
「全く覚えていないんだが……」
クラス中の空気がどんよりとする。今やクラス中が煉夜と火邑と千奈のやり取りに耳を傾けていたのだ。そんな中でその発言により、クラスの女子から「ないわー」と引かれてしまった。
「……はぁ、ったくレンちゃんはむかしっからそーなんだから」
馬鹿を見るような目で千奈は煉夜を見た。しかし、煉夜からしてみれば、こんなキャラの薄い人物を覚えているはずがないだろうと言うものだ。それだけ彼が向こうで会った人々はキャラクターが濃かったのだから。少なくとも誰一人として平々凡々な人生を送っている人はいなかった。それに比べれば、この世界の人間の大半はキャラクターが薄いだろう。
「うーん、そう言えば、昔、ジャングルジムの上からしょんべんまき散らした幼馴染がいたような」
「うわぁあああああああああ!」
煉夜が途中まで言った言葉をかき消すように大声を上げて後ろから奇襲をしかける千奈だが、煉夜はあまりに遅い攻撃に振り返りもせずに避ける。
「へぐっ」
千奈は机に顔を打ち付けていたが煉夜の知ったことではなかった。煉夜の記憶に残る幼馴染などその程度のものだったが、今の千奈の奇襲がその幼馴染こそ千奈であるという裏付けでもあった。クラス中では特に男子が千奈の痴態に対して内緒話をしていたが、その様子を女子が汚いものを見る目で見ていたのは言うまでもない。
「セクハラ!レンちゃんのセクハラ!セクハラオヤジ!」
顔を押さえながらそんな風に喚く千奈。それに対して煉夜は意に介さず、微塵も気にしていない。
「火邑ちゃん!電子辞書借りられたの?」
そこに火邑の帰りが遅くて心配になったおふてんちゃんがやってきた。ただ電子辞書を借りるにしては時間がかかりすぎていると思っての行動だった。
「あ、おふてんちゃん、ごめんごめん、お兄ちゃんがいろいろと馬鹿で」
火邑の物言いにムッとした煉夜だったが、記憶に関しては何の弁明もできないので黙っておいた。
「お兄さんが馬鹿って、ダメだよ火邑ちゃん、そんなこと言っちゃ。それにお兄さんって頭よさそうだけど?」
首を傾げるおふてんちゃん。少なくとも火邑より成績がいいのは確かである。さらに言えば、煉夜は英語を……と言うより外国語を勉強する必要がなくなってしまっている。それはある事情から全ての言語を理解できるからだ。よって電子辞書の必要もない。結果的に電子辞書を持っていないため火邑は目的を達成できないのだが、話が逸れに逸れて煉夜はそのことを言えていないのだった。
「あ、そだった、お兄ちゃん、電子辞書」
おふてんちゃんが話を戻してくれたおかげでやっとその話ができる状態に戻った。煉夜は火邑に告げる。
「あー、俺、電子辞書とか使わないから持ってないわ」
火邑の眼が「コイツ使えねぇ」と言う気持ちを物語っていたが、煉夜は無視する。その様子を見た千奈は仕方がないと言わんばかりに肩を竦めて、ピンク色の電子辞書を火邑に渡すのだった。
「ほむちゃん、それ使っていいよ」
火邑は受け取ると満面の笑みで「ありがと、千奈っち」と言っておふてんちゃんを連れて教室へと帰って行った。
「にしても、レンちゃんって電子辞書なしでどうにかなるの?」
教室から出て行く火邑たちの様子を見ながら千奈が煉夜に聞いた。急に馴れ馴れしいな、と思いながらも余所余所しいよりましか、と思いながら煉夜は言葉を返す。
「まあな、好きでどうにかなるわけでもねぇけど、どうにかなっちまうのさ」
煉夜が「全てが始まった日」だと思っているあの日へと思いを馳せる。その日に、煉夜は全ての言葉が分かるようになってしまった。そうしないと生きていけなかったし、そのことに関してはそうした本人にも感謝をしている。だが、煉夜はズルをしているような気分であまりいい気はしていなかった。
「マジ、イミわかんないわ。レンちゃん、おかしくなったね」
確かにおかしくなっているので煉夜は何も反論しなかったが、別に頭はおかしくなっていない。煉夜が千奈の知る頃と比べておかしくなったのは人生観や感性、感覚だろう。
そんなこんなで次の授業が始まる。煉夜は視線から解放されたが、暇そうに教科書を眺めるのだった。
それから幾何かの時を経て、授業が終わり軽いホームルームのあと放課後となる。今日はアルバイトも休みの煉夜は、放課後の予定を立てながら帰ろうとして廊下に出た。そこで外を見て違和感を抱く。学校の周囲に黒塗りの車が何台か停まっているのだ。それも学校から出て行くであろう道々にそれぞれ停まっている。
(如何にもって感じの車だが……、あからさますぎやしないか?それにこんな白昼堂々何かを起こすとも思えないし……思い過ごし、だといいんだが)
そう思って、ふと目をやったのは、引っ越しトラックだった。積み荷を降ろしているわけでも、荷物を積んでいるわけでもない駐車している引っ越しトラックはおかしいとしか思えない。そもそも、荷物の積み下ろしでもないのに駐車しているのは違反である。引っ越し業者がそんなことをするだろうか。煉夜が様々なことを考えて、1つの可能性に至る。
だが、遅かった。そのトラックの近くを通る女学生の姿がある。煉夜は彼女を知っていた。とっさに煉夜は電話を掛ける。
「おい、火邑、今、おふてんちゃんと一緒じゃないよな?」
その確認の電話に、火邑は呑気な声で答える。その呑気さが事態の重さに拍車をかける。
「うん、一緒じゃないよ。千奈っちと帰ろうと思って。おふてんちゃんは今日習い事って言ってたし」
話半分で煉夜は電話を切る。この段階で煉夜は確信していた。今から誘拐事件が起こる。予知や予感ではない。状況証拠がそれを語っている。
「チッ、急げば間に合うか……」
窓から飛び出していけば、誘拐される前に割り込むことが出来るだろう。だが、力を使うには人目が多すぎる。流石に全ての「眼」を掻い潜ってあの場まで行くのは骨が折れるだろう。
この場合の「眼」には、他の陰陽師の監視も含めている。そのため難しいのだ。ただの人の目程度なら簡単に掻い潜れるだろう。
黒塗りの車は囮で、誘拐事件が起これば如何にもその黒塗りの車が怪しいと思われるだろう。そこで、人目につくところに黒塗りの車を置いて、本命は引っ越し業者を装った車で誘拐することだ。
「どうする……どうすれば……」
思わず煉夜は胸元に垂れさがる宝石を握る。だが、理性がそれの使用を妨げる。何をするべきか、散々迷った煉夜は、結局式札を出した。
「頼む、《八雲》」
地面からひょっこりと顔を出したのは九つの尾を持つ狐だった。ただし本来の姿ではなく小柄な子狐程度の外見だ。
「それで主様、なに用ですか?」
煉夜は八雲を抱え上げると窓から引っ越しのトラックを見せる。その間に、女学生はあれよあれよと言う間にトラックに連れ込まれてしまっていた。
「あの引っ越しトラック、追跡できるか?」
煉夜にとっての2色目を期待しての言葉だった。八雲はさも当然と言わんばかりに胸を張って言う。
「可能ですな。三本目を使えば」
煉夜は早口に「じゃあやってくれ」と捲し立てる。あくまでこの場は陰陽師として対処するほかないのだから。
かくして、この誘拐事件は始まった。もし名前が付けられたとするならば、この誘拐事件は――初芝重工社長令嬢誘拐事件、などと呼ばれるに違いなかっただろう。




