113話:青葉紫風の色欲
乱れた呼吸を整える間もなく、寒空の商店街を駆け抜ける少女がいた。目深にかぶっていたフードも走っているうちに脱げてしまっている。そんな彼女を追うように商店街を駆けるのは数多の女性たちだった。
「ハァ……ハァッ、もう、何なのよ!今までもあったけど!あったけど!フードかぶってたら大丈夫だったじゃん!なんで!今日に!限って!」
そんな愚痴を吐きながら走り続けること20分は経っているだろう。後ろから追う女性たちも途中で脱落しているようで、最初の面々は既に姿が見えなかった。だが、途中でどこからかいつの間にか増えているので、結果として追われ続けるのは変わらない。
護身術用に母から習った武道のおかげか、20分全力疾走しても息が切れる程度で済んでいるのが凄いだろう。しかし、もはや限界に近かった。そもそもにして、彼女は何故追われているのか自分でも分かっていない。分かっていないが、追われているから逃げるのだ。
「あぁ、もう!こんなんなら!紫水と一緒に!家で!ぐーたら!してれば!よかったー!」
髪が乱れ、服が乱れ、息が乱れ、言葉も乱れているが、そんなことを気にしている余裕など、今の彼女にあるはずもない。
「くっ、明津灘流歩法術・逆吊掛!」
説明しよう、明津灘流歩法術・逆吊掛とは、特殊な歩法により壁を走ることが出来る武術である。明津灘流歩法術とは、古武術や剣派、無派などとは異なる、いわば基礎の体捌きの一つである。
彼女は、商店街の店の壁を駆けあがり、屋根の上まで逃げる。流石に屋根までは折ってこられないだろうと。そして、そこから屋根を渡って一気にその場を離れる。
「明津灘流歩法術・馬背渡」
説明しよう、明津灘流歩法術・馬背渡とは、特殊な歩法によりその地点から離れた地点に一歩で駆け抜けることが出来る武術である。元々は、戦の際に、矢を受けた馬から別の馬へと跳び、駆け抜け、敵の将を討ったとする技である。似た逸話に、源義経が壇ノ浦で見せた船から船に飛び移るものがある。
しばらく行くと大通りのため、流石に馬背渡でも飛び越えられない場所まで来てしまった。なので、彼女は、そのまま地面に着地する。
「明津灘流歩法術・夕落投」
説明しよう、明津灘流歩法術・夕落投とは、特殊な歩法により高低差のある着地による衝撃を屈伸と受け身を利用して最大限受け流すことができる武術である。元々は、乱戦で山での散発的な戦いが続く中、崖まで追い詰められた際に、身投げをして、落ち、助かったことが元になっている。
「全く、今日は一体何だっていうのよ。もう、京都に来てから絶不調だわ」
普段からも、偶に似た様な現象に巻き込まれることのあった青葉紫風ではあるが、京都に来てからは規模と頻度が段違いになっていた。
流石に疲れたのか、肩を上下させながらも、休憩をとる紫風。しかし、そんな彼女の耳に、ドドドドという足音が聞こえてきた。
「ちょ、まだ続くの?!」
紫風は慌てたように、地面を蹴る。もはやこうなっては手段を考えている場合はない、と全力で逃げることに決めた。
「明津灘流歩法術・神光歩」
説明しよう、明津灘流歩法術・神光歩とは、特殊な歩法により瞬間移動の様に一瞬で移動することが出来る武術である。似た名称で神行法というのがあるが、別の技である。また、瞬間移動のように、とはいうものの、本当に瞬間移動しているわけではないため、障害物に弱く、また、直線にしか使うことのできない能力である。いわゆる縮地などと呼ばれるものに近い。
「明津灘流歩法術・摩天楼」
説明しよう、明津灘流歩法術・摩天楼とは、特殊な歩法により高く跳躍することの出来る武術である。また神光歩と組み合わせることで高さと距離が何倍にも膨れ上がる反面、勢いが付きすぎるため、夕落投でも間に合わないような大事故になる可能性も高い。
「明津灘流歩法術・三笠山」
説明しよう、明津灘流歩法術・三笠山とは、どら焼きのことである。……ではなくて、どら焼きの様に自分の身体を空気の層で挟み、衝撃を減衰させることの出来る武術である。ちなみに、三笠山がどら焼きの別称であることも本当である。
「こんだけ逃げりゃ、大丈夫でしょう……」
どうにかこうにか、逃げて逃げて逃げずり回ったので、そろそろ大丈夫だろうと、フードを被る。周囲に人が居ないことを確認して、一息つく。
「どうなってるのよ、ここ。もう……」
今まで体感したことのない状況に、思わず紫風は眉根を寄せる。普通じゃないこの現状をどうにかせねば家にすらまともに帰りつけないのだ。
「おや、興味深いな……、これは魅力系の魔法の類か?」
背後からの声に、肩を震わせた。紫風は歩法術をはじめとして、明津灘流の端っこ程度はかじっている身であり、それこそ一般人に背後を取られるような間抜けな真似はしない。
「おっと、そう警戒しないでくれ。背後に忍び寄ったのは悪かった。だが、それだけ強大な力を振りまいていては、こちらも警戒して近づかざるを得なかったのだよ」
それは奇妙な男だった。奇妙が服を着て歩いているかのようなそんな男。普通ではなく、奇抜でもなく、奇妙な男だった。
「力……?なんのことよ」
自覚無き力ほど、げに恐ろしきものはないと、男は戦慄した。無自覚でこれならば、知ればどれほどのものなのか、怖いもの見たさの心理が働きそうになるも、頭を振って、その思考を打ち払う。
「君は特異な体質を持っている。妙な経験をしたことがあるだろう。それもその体質が原因だよ。もしかして、この京都に来てから、特に酷くなったということはないかい?」
先ほど、女性に追いかけ回されたという妙な経験、そして、京都に来てから特にひどくなったという事実、それらを言い当てた奇妙な男に、紫風は苦虫をかみつぶしたような顔になった。本来なら警戒すべき相手のはずなのだが、紫風は妙に警戒しなくてもいいという気になってしまう。
「ズバズバと症状を言い当てるなんて、貴方は医者かしら?」
肩を竦めながら紫風が言う。半ば皮肉の様なものだったのだろう。どう見えても男は医者には見えない。
「まあ、そんなことをやっていた時もあったのだがね。そんな話はどうでもいいだろう。さして他人が興味を持てるような話ではないしね。それよりも、そんな風に人のことをズバズバと言い当てるなんて、君は探偵かい?」
皮肉に皮肉を返す奇妙な男。そして、男は、そんな会話をしながらも、紫風がどういう状態にあるのかを観察していたのだった。
「と、そんな冗談を話している場合ではなかったようだ。君の力が強すぎる影響か、女性が近づいてきているようだ。仕方がない、ひとまずこれをかけてくれ」
そう言って男は、懐からメガネケースを出し、その中の眼鏡を紫風へと差し出した。紫風は眼鏡が好きではない。もっと言ってしまえば、装飾品の類を身に着けるのが好きではない。眺めるのは好きなので、ついつい衝動買いすることもあるが、身に着けると、先ほどの様な歩法術にも支障をきたす恐れが出てくるからだ。
「いいけど、なんなの、これ?メガネ程度じゃあ変装にもならないと思うけれど」
文句を言いながらも眼鏡をかける紫風。特に何も変化した様子はなかった。ただ眼鏡をかけた紫風という絵面が出来上がっただけの現状に、紫風は不満ありげな顔をした。
「もしかして、貴方が眼鏡っ子萌えだったっていうだけのオチならこの眼鏡、叩き割るわよ」
特に意味があるようには感じられないので、非常に微妙な気分だった。しかし、奇妙な男は言う。
「本来、それは特殊な目を封じるための眼鏡だ。君の場合は全身からだから効果は薄いが、それでも力をカットできているはずだ」
奇妙な男はそう言った。【眼】の一族と呼ばれる一族が居た。天月や雨月と呼ばれる一族。大体、その一族には特異な目を持つ者が多く、それを封じる、押さえる、取り除く、など様々な方法が模索されてきた。
結果として一番簡単なのは、目を封じることである。目が見えなければ特異な力が発動しないからである。そうして、眼帯の様なものから始まり、見えるように眼鏡、そして時代の変遷でコンタクトレンズの様なものにまでなっている。
「ちょっと、全身からなんて言ったら、あたしの全身から何か漏れ出てるみたいじゃない。やめてよね」
匂いでも洩れているのか、と、気にして自分の匂いを嗅いだ。しかし、よくわからなかった。
「魔性の女などという言葉もあるが、君の場合はまさにそれだ。全身から同性を魅了する気配を出している。それも、おそらく、同性に限られているのは、無自覚な放出が原因だ。コントロールできれば、それこそ、世の人間を好きに手玉にとれるぞ」
奇妙な男の言を鵜呑みにするわけではないが、逆にそれこそ、それだけ危険な力があるということであると、紫風は感じた。
「まるでその身に夢魔でも固めた様な存在だ」
夢魔というと、紫風の中では、サキュバスやインキュバスという存在が浮かぶのだった。イメージは最悪である。
「そんな人を淫猥みたいに言わないでよ」
むすっとしながら紫風は奇妙な男に言うのだった。すると、男は肩をすくめて言う。
「淫猥などという言葉、今日日聞かないのだが、君は古い家の出なのだろうか?」
ほとんど冗談のような、それこそ先ほどの皮肉の言い合いのようなものだったのだが、それに対して紫風はニッと笑って返す。
「ええ、そうよ。しかして、貴方あも言葉遣いで言えば似た様なものじゃない?見た目通りの年齢じゃないのかしらね」
冗談に冗談で返す紫風だが、それが的を射ているあたり、達が悪い。それを誤魔化すように奇妙な男は言う。
「さしずめ君は『色欲の魔女』といったところかな」
「あら、じゃあ、貴方は『奇妙な伯爵』かしら」
互いに小さく笑う。




