112話:青葉静姫の傲慢
冬の寒空の中、人気の無い鴨川沿いを歩く青年の姿があった。京都は山々に囲まれている盆地であるために、夏は非常に暑い。それゆえに、涼を求めて、鴨川にせり出すように床が設置された、これが納涼床である。しかし、そんな納涼床も冬となっては用なしである。
もう少し気温が上がれば、カップルが埋め尽くすであろう鴨川沿いも今は、数人いるか、いないかの寂しい光景となっている。吐く息が白く染まる世界で、青年、青葉静姫は空を見上げた。
今、市原家では親の世代が楽しく笑っているのだろう、とそんなことを想像しながら、ため息を吐く。白い息は広がって、すぐに世界に溶け込んだ。
「それで、……お前はいつまでそこにいるんだ?」
静姫の問いかけに、それは静かに笑った。影の中で、息を殺すようにひそめていた気配が、大きく広がった。影から這い出るそれは、不気味見える。
「ふぅ……やっと、外に出られました」
影と同じ真っ黒な髪の美しい女性。その人物が普通ではないことは一目見れば分かるだろう。美しい。美しすぎた。一目で世界を奪う、そんな風貌。
「それにしても、静姫君の御父上は規格外ですね」
影から身体を全て出し切って、まるで埃を払うように全身を軽く叩きながら、彼女はそんなことを言ったのだった。それがどう言う意味か分からず、静姫は内心で首を傾げた。そんな静姫の内心を見透かしたかのように彼女は言う。
「御父上、わたくしのこと、見抜いていらっしゃいましたもの。正直、完全に気配を遮断していたはずなのですが、見破られていたのは非常に驚きました。いるところにはいるものですね、怪物というのは」
彼女は正しく静姫の父の異常性を見抜いていた。常人ならざる何か、あるいは人ならざる何かである、と。それは彼女の経験則でしかなかったが、それだけの豊富な経験を彼女は積んでいたのである。
「気づいていた、ってそんなはずないだろ。影と同化するその性質は、絶対的知覚外に入るんだろ?いくら何でも気のせいじゃないのか?」
青葉家における子供の世代において、静姫は少々特殊である。それは、実際に両親に武道を学んでいる雷司や父からの特殊環境における教育を受けた裕華、思い人から母の話を聞かされた姫聖、実際にその超大さを目の当たりにして、かつ、恋人からも父の話を聞いた裕司などとは違い、両親の異常性を知らないことである。
武に踏み込んでいないとはいえ明津灘流の基礎は教わっている紫水と紫風ですら、両親の異常さに気付いているにも関わらず、戦いに身を置いたことのある静姫はそれに気づいていない。
それは自分こそが強いという、他ならぬ静姫の「傲慢」さであろう。
「いいえ、気づいていました。警戒はしていないようでしたけど。それに、あの知覚外を近くするような類には、昔、一人だけあったことが有りますから」
それこそ、彼女にとっては例外中の例外と分かっている存在、一人と表現したように、人の身で人ならざることをやってのけた驚異の化け物。
「お前がそんな風に言う人間が居たのか?」
静姫が意外な顔をした。それもそうだろう。静姫の暮らす世界は、世の中に「異能」が認知され、人工的に異能を生み出して政治活動から軍事活動、仕事まで様々な異能が侵食した世界。だが、その中に居る僅か一握りの天然ものと呼ばれる存在、それこそが静姫であり、それすらも超える何かが彼女であるのだから。
「居る所にはいるものですよ。わたくしの知る限り、あの世界にもアリッサ様がいらっしゃいますしね」
もっとも、その人物を人と呼んでいいのかは甚だ疑問であるが。その人物自体はともかく、付属物を含めれば人とは言い表せない。
「アリッサ……、聞いたことがあるな。だが数年前に戦って退けたんだろ?」
知人の妖怪から聞いた話をする静姫。その話に、彼女は微妙な顔をした。それは、アリッサを知っている彼女だからこその顔だろう。
「退けた、とは……、物は言いようというものですね。あれは、見逃された、いえ、そもそも興味など無かったというべきでしょうか。アリッサ様と対峙して、世界が無事であり、かつ、地表が傷ついていない時点で、手加減どころか手を入れないほどに、慈悲をかけられていますよ」
彼女は、そう呟いた。それだけの存在だ。そもそも、彼女が本気を出せば、世界一つくらいどうとでもできる。それだけのモノと契約しているのだから。
「静姫君は、上が見えていないんですね。まあ、君くらいの年齢なら多少の無鉄砲はいいのかもしれませんが、それで命を落とすこともあります。特に、わたくしたちが相手をしているのは人智を越えているんですから」
なまじ生まれながらに高い素質を持っていたがために、なんでも器用にこなせてしまっていたがために、静姫には足りないものがある。態度と自信に見合うだけの「経験」である。天性の感覚だけで全てを計ろうとするために、計れないものが……零れ落ちてしまっているものが、分かっていない。相手の量に対して計量カップが不十分なほどに小さい。それを広げるには、「挫折」と「経験」が必要なのだろう。
「ふっ、この俺が負けるはずないだろ。俺が勝てないのは、この世でただ一人だ。それ以外には負ける気はないさ」
――青葉静姫は知っている。世界には届かない相手が居ることを。
――青葉静姫は知っている。届かない相手に手を伸ばせばいつか届くことを。
――青葉静姫は知らない。己を越える数多の敵を。それを乗り越える苦悩を。
――彼女は知らない。他ならぬ、青葉静姫の「傲慢」こそが、苦悩を乗り越える鍵であることを。
高く広がる京の空。雲はあれど、空の青も顔を覗かせる。そんな中で、人気のない鴨川を歩く二人の姿があり、彼女は顔を歪めた。静姫は、滅多とない彼女の顔に何があるのかと警戒を強める。
黒を基調としたシックな服装の女性と目立つ血色の髪の男性。男性の髪色を除けば、普通に見える彼女ら。静姫が警戒を怠るのも無理はない見た目である。しかし、彼女の顔は歪んだままである。ありえない存在を見た様な、そんな顔。
「あら、あらあら!これは珍しい奴に会うもんね!」
女性はそんな風に笑う。純粋な驚きという顔で、それでも親しい相手に再会したかのような、そんな顔である。大して、彼女は会いたくない相手に出会ったかのようなしかめっ面であった。
「生きていたのですか、……女王」
その声は酷く重苦しいもので、場が闇に呑まれたのではないかと思うほどの重圧だった。
「生きてはないわね。それにしても、貴方の方こそ生きていたとは思わなかったわよ。まあ、そう硬くならないでよ。姉妹分なんだからさ」
女性はあっけらかんとそう言った。姉妹分というように、そう言う関係だったのだろう。女性は彼女を妹の様に見ている。
「ッ!いつも貴方はそうです。全てを達観し、全てを見透かし、そして、全てを受け入れる。遥かなる王国の、……影の国の女王」
第八神話世界から弾かれたがゆえに、世界が崩壊しても欠片として残り続けた「影の国」。そして、そこから再構成されたある世界に彼女と女性はいた。それは酷く昔の話である。途方もない年月を遡った悠久の果ての話である。
「驚いた、そんなこともやっていたのかい、君は?」
血色の髪をした男性が、女性に向かってそう問いかけた。それに対して女性は苦笑する。彼女にも彼女の事情があった。
「まあ、これに関しては自業自得ってやつでしょうね。ちょいと観光気分で訪れた世界で、面白い槍を使う女に会ってね。知っての通り、戦闘マニアのわたしは、ちょいと戦いを挑んだのよ。それが影の国の女王、スカアハ」
スカアハ。ケルト神話におけるセタンタことクー・フーリンの師である女性。その強さは有名極まりない。
「んで、ガチでバトったら、勝っちゃってね。修行に出た彼女の代理で一時期、影の国を治めていたのよ。そん時の妹分がこの子。まあ、ケルト神話が元の世界って予想は付いたし、セタンタが来た後は、面倒見て、その後、コンラとかの面倒を見てから、この子に国を押し付けて仕事に戻ったわ」
とても普通ではない話をサラリと言ってのける辺り、女性の異常さが分かるというものだ。静姫は、言っている意味がよくわからないが、嘘ではないことだけを見抜いている。
「ふぅん、じゃあ、さしずめ『影の女王』とでも称号を賜えばどうだろうか」
「それはわたしに対する皮肉かしら?そもそも、『氷の女王』や『夜の女王』っていう存在は……まあ、それぞれ第三神話世界の欠片と月で女王やってる身分だからいいにしても、わ たしなんて、それこそ一時期の女王でしかないわよ」
逆に言えば一時期は女王だったという経歴が明らかになったのだが、そんなことはまったく気にしていないらしい。
「それにしてもオイフェが、その子の面倒を見ることになるなんて……運命ってのは悪戯好きね。運命の塔なんてものはあたし達が壊したけれど、運命の女神の悪戯ってのはどうにも続くようだわ」
やはり見透かしたような、そんな意味深な言で笑う女性。
これは、傲慢な青年と影の女性の物語の幕間に過ぎない。されど、きっと、物語という名の激流の堰を倒壊させたある日の京都の出来事であった。




