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うろな町の不思議な人々  作者: 稲葉孝太郎
第0章 30年目の恋
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第1話 うろな町で会いましょう

本作は、『うろな町』計画への投稿作品です。コラボを承諾くださった他の作家の皆様に、ここで御礼申し上げます。

 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山

 

 持統天皇御製歌。夏の訪れを、自然と人間生活の情景に合わせて言祝(ことほ)いだ、有名な短歌である。

 その夏と言えば、熟した恋の燃え上がる季節。たとえ秋が来るとは分かっていても、身を焦がさずにはいられない情熱が、そこにはある。


 ……などと言ってみるのは簡単だが、世の中の男女にとって、事態はそれほど単純ではない。夏が来るためには、春の訪れを待たねばならず、春が来なければ、心はいつまでも冬のまま。

 そんな春の訪れを待つ女、遠坂(とおさか)朱美(あけみ)は、今年で三十年目の冬を迎えようとしていた。もはや人生万年雪。ここまで春が来ないと、それはそれでまあいいかなという気になってくるのだから、慣れとは恐ろしいものである。

 髪は腰まで伸ばしっぱなし、服はいつも仕事場のスーツ。

 そんな遠坂が、昨晩は洒落たビストロに男と二人きりだった。暖色のシャンデリアにジャズのBGM。一番ムードがある窓際のテーブル席に向かい合って座っていたのを、彼女は鮮明に覚えている。

 だが、驚くことなかれ。ただの打ち上げである。

「それじゃ、久々に会えたことだし、乾杯といきますか?」

 まるで居酒屋風に音頭を取る男。

 既にネクタイを緩め、おじさんモードに入っている。流星(りゅうせい)と名付けられたこの店の雰囲気とは合わないが、こういう陽気さも悪くはない。

 男はビールの注がれたジョッキを上げ、遠坂の前にそれを突き出す。

「では乾杯!」

「乾杯」

 遠坂は、水の入ったコップを片手に、乾杯を返す。

 カランとジョッキの底がぶつかるや否や、男は最初の一口を喉に流し込み、くぅーとビールののどごしに顔を歪める。

「ぷはぁ! ビールうめぇ!」

 男が袖で口元の泡を拭う。

 彼の名は池守(いけがみ)瞬也(しゅんや)。三十歳。うろな町の警察署で刑事をしている。顔は至って平凡で、刑事ドラマに出てくるような濃い男でもなければ、イケメン探偵の役柄が似合いそうな人物でもない。

 ちなみにこの男、独身である。女っ気がないわけではない。ただ、どうもうまくいかないのである。それが彼の日頃の行いに起因しているのか、それとも女運が悪いのかは、神のみぞ知るところだ。

 そんな池守(いけがみ)は、目の前に座っている遠坂と中学以来の同級生で、彼がうろな町に赴任してからも、こうしてたまに顔を合わせていた。無論、男女の仲ではないことを、お互いに了承済である。

 二人がたわいもない話に華を咲かせていると、この店のシェフである若い男が、厨房から姿を現した。左手には鉄板を乗せた木のトレイ、右手には陶器の深皿を持ち、器用にバランスを取りながら池守(いけがみ)に顔を向ける。

「お待たせ致しました。『エビフライとハンバーグの欲張りディナー』でございます。熱いのでお気をつけください」

 そう言って池守(いけがみ)の前に差し出されたのは、熱々になった鉄板の上で肉汁を垂らすハンバーグステーキと、お頭つきのエビフライ。エビフライはこんがりとキツネ色に染まり、見ているだけでそのサクサク感が伝わってきそうな一品だ。

 それにサラダを付け加えて、シェフは軽く頭を下げた。

 そして、今度は遠坂の方へ向き直る。

「こちら様は、『ブロッコリーと鮭のクリームパスタ』ですね?」

「ええ、ありがと」

 遠坂の前に置かれたのは、少し太めのパスタにたっぷりとクリームシチューのかかった贅沢な一品。よくほぐされた鮭の切り身と、大きなブロッコリーが、ふんだんに、それでいてメインのパスタの食感を損なわないように、適度な彩りを与えている。

「では、ごゆっくりどうぞ」

 若いシェフは二人に会釈をすると、カウンターの方へと引っ込んだ。カウンター席に座っているのは、シェフと同じくらいの歳に見えるサラリーマン風の男が一人だけ。池守(いけがみ)が注文したのと同じ定食を食べ終え、何やらシェフと話し込んでいる。

 その会話から、シェフは拓也(たくや)、サラリーマン風の客は慶一(けいいち)という名前であると、遠坂の地獄耳が教えてくれた。お互いを下の名前で呼び合っているところを見ると、単なる店主と客の関係ではないらしい。おそらくは友人だろう。

 そんなことを考えている遠坂に、池守(いけがみ)がエビフライを頬張りながら話し掛けてくる。

「おい、食べないのか?」

 そうだ。今は探偵のまねごとをしているときではない。

 どうも職業病に掛かってしまったようだ。

 遠坂は俄に反省し、フォークとスプーンを使ってパスタをうまく絡めとる。適度な茹で加減とオリーブオイルの相乗効果で、驚くほど奇麗に渦ができた。

 遠坂はそれを掬い上げ、おもむろに舌の上へと運ぶ。

「これは……」

 遠坂の呟きに、池守(いけがみ)がひょいと顔を上げた。微妙に緊張した面持ち。

「美味しい!」

 遠坂の顔が綻び、池守(いけがみ)も満面の笑みを浮かべる。

「だろ? 俺も初めて来たけど、びっくりだよ」

 お世辞ではない。本当に美味しいのだ。店があまりにも辺鄙なところにあったので、池守(いけがみ)に連れてこられたときは地雷を踏んだかと危惧していた遠坂。それも杞憂に終わり、今は至福の時間を過ごしている。

 二人は黙々と食事を済ませ、お互いにフォークを置くまで一言も喋らなかった。

 食事に没頭するという、子供時代の懐かしい思い出が蘇ってくる。

「はー、美味かった」

「ええ、ほんとね……それにしても……」

 遠坂は、鞄から取り出したティッシュで口元を拭い、ゆっくりと唇を動かす。

「まさか池守(いけがみ)くんに好きな人ができたとは思わなかったわ」

 突然の指摘に、池守(いけがみ)は目を白黒させた。

 口の端に残っていたエビフライの衣が、ぽとりと鉄板の上に落ちる。

「な、何のことかな?」

 池守(いけがみ)は、自分の裏返った声に思わずたじろいだ。

 これでは、図星だったことが丸分かりである。

 そんな池守(いけがみ)の動揺に見透かしたように、遠坂は話の先を続ける。

「ねえ、池守(いけがみ)くん。いくらたまには趣向を変えたいからって、ちょっとこのお店はムードがあり過ぎるのよねえ。普通はもっと大衆的なお店にするんじゃないかしら?」

 遠坂は、皿の上でフォークとスプーンをからりと回し、もう一度元に戻す。

 池守(いけがみ)の額から、たらりと脂汗が流れた。

「さて、男性が女性を、こんな穴場のビストロに連れてくるとしたら、いったいどんな下心があってのことかしらね? ……別に白状しなくてもいいわ。そう、デートのお誘いってことよ。でも……」

 遠坂は、喉の渇きを潤すようにコップに口をつけ、さらに先を続ける。

「でも、池守(いけがみ)くんは、私に気があるわけじゃないでしょ。となると、残された可能性はひとつ……これは、デート会場の下調べなんじゃないかしら? 私を選んだのも、女性の好みをチェックするため。そして、相手と会場の相談もできないところを見ると、ずばり片想いね。違う?」

 池守(いけがみ)は額の汗を拭い、ハァと溜め息を吐いた。

 恥じらっている様子はない。むしろ、呆れ返ったというような顔をしている。

「参ったね……。遠坂さんって、昔からたまにそういう名推理が出るんだよな。教師なんか止めて、探偵事務所でも開いてみたら?」

 池守(いけがみ)は、若干の皮肉を込めてそう尋ねた。

 それに対して、遠坂は、意味深な笑みを浮かる。

「あら、やっぱりそう思う?」

 まるで、とっくに自分は探偵だと言わんばかりの表情だ。

 まさか副業でもしているのかと訝しがりながら、池守(いけがみ)はポケットから携帯を取り出す。

「どうしたの? 電話?」

「いや、ここまでバレちゃ、もう隠すことも無いからね。俺の将来のフィアンセを見せてあげるよ」

 まだ付き合ってもいないだろうと、遠坂は心の中で突っ込みを入れた。

 とはいえ、タダで見せてくれるというなら、見ておいて損はない。

 遠坂は携帯を受け取り、液晶画面に現れた一枚の写真に目を留める。一見して盗撮と分かる、アングルのおかしな構図。少し斜めに写ったショートヘアの女性が、スーツ姿で横顔を見せている。

 手元でメモをとっているところを見ると、会議か何かだろう。遠坂は、そう推測した。

「まあ、可愛らしいじゃない。あなたにはもったいないわ」

「あのなあ……もったいないとかあるとかじゃないんだよ……。確かに、俺じゃお釣りが来るような娘かもしれないが、これがね……」

 彼女のことが頭から離れないのか、池守(いけがみ)はニヤついた表情になる。

 遠坂は、もう一度念入りに写真の女性を観察した。

 どこかで見た記憶がある。

「この人、先週テレビにちらっと映ってなかった? 報道記者会見のときに……」

「……よく覚えてるな……マジでカメラの端にちらっとだったぞ……?」

 池守(いけがみ)の問いを、遠坂は敢えてスルーした。

 どうせ言っても信じてもらえないのだ。遠坂は、異常記憶の持ち主なのである。

 一度読んだ本は全て諳んじることができるし、一度見た光景はビデオカメラのように脳内で再生することができる。この能力のおかげで、遠坂は色々と副収入を得ているのだが、それは今は関係ない。

 とりあえず携帯を池守(いけがみ)に返し、遠坂はふむと鼻を鳴らす。

「……でも、唯一の写真が盗撮じゃ、今のところ全く相手にされてないんじゃない? そもそも、気付かれてないとか?」

 遠坂の推測に、池守(いけがみ)はがくりと肩を落とす。

「そうなんだよ……俺の気持ちが全く伝わらないって言うか……」

 池守(いけがみ)の性格からして、積極的にアピールしているとは考え難い。どうせ先輩風を吹かせて近付こうとしているのだろうが、それではいつまで経っても先輩後輩関係のままである。

 他人の恋路だ、自分には関係ないと、遠坂は適当に相槌を打った。

「ま、気長にやることね。恋は気まぐれって言うじゃない?」

 遠坂の無遠慮なアドバイスに、池守(いけがみ)はムッとなった。

「あのなあ、彼氏いない歴=年齢の女のアドバイスなんて、これっぽっちも役に立たないんだよ!」

 世の中で一番言ってはいけないことを口走った池守(いけがみ)は、慌てて口元を押さえる。

 だが、時既に遅し。

「……誰が彼氏いない歴=年齢の行き遅れババアですって?」

「そこまで言ってねーし!」

「あのー、申し訳ございませんが……」

 二人が振り向くと、そこには例の若いシェフがいた。

 シェフは帽子を脱ぎ、胸に手を当てて済まなそうに腰を低くする。

「そろそろ閉店の時間ですので……」

「え? もうそんな時間?」

 池守(いけがみ)は腕時計を見る。針は十時を回っていた。

 少し早いが、若い店主一人で切り盛りしているからだろうと、池守(いけがみ)は腰を上げた。

「お会計はこちらで」

 レジに案内された二人は、それぞれ自分の食べた分を支払い、店を出る。

「またのご来店をお待ちしております」

 店主は二人を見送った後、扉に掛けてあるプレートをひっくり返す。【明日またお越し下さい】の文字が、からりと音を立てて舞った。

 路地裏に取り残された遠坂と池守(いけがみ)は、お互いに顔を見合わせる。

 さすがにここで喧嘩をぶり返しても仕方がない。

「じゃ、帰りますか……」

「そうしましょう……」

 遠坂は路地を出たところで池守(いけがみ)と別れ、うろな駅に向かう。

 うろな南線、うろな北線、地下鉄東西線、地下鉄南北線、そしてうろな本線という五つの大動脈を結ぶ駅への大通りは、進むに連れて大きな人の流れを形作って行く。

 途中でシャンプーを切らしていたことを思い出し、遠坂は手近なコンビニに寄った。

「いらっしゃいませー」

 胸に【霧島】と書かれたアルバイトの少年が、棚を整理しながら挨拶した。

 遠坂はいつも買っている安物のシャンプーを手に取りレジへ向かう。誰もいないレジの前に立ったとき、ふと池守(いけがみ)の声が頭の中でフラッシュバックした。

 

 彼氏いない歴=年齢の女のアドバイスなんて、これっぽっちも役に立たないんだよ

 

 ふと、遠坂は手元のシャンプーを見る。こんな安物で済ませているから、自分はモテないのだろうか。確かに、化粧品などにもほとんどお金を掛けていない。高級品と言えば、古書店で時折見つかる希少本だけ。

 いや、そうではない。そうかもしれないが、そうではない。残念ながら、遠坂はちょっとだけ男の好みが特殊なのだった。なぜなら……。

「おーい、葦原(あしはら)、レジ頼む」

 棚を整理していた男が、振り向きもせずに言った。

「はい、霧島(きりしま)先輩!」

 店員の控え室から、これまた随分と若い男の声が返ってくる。

 パタパタと靴を鳴らし、控え室の扉をくぐって出て来た少年。

 その少年に、遠坂の目が釘付けになる。

「お待たせしました」

 天然の栗毛に、少女漫画のようなキラキラとした瞳。長めの睫毛が、その愛くるしさを一層引き立てている。だが彼は男。老作家を狂わせたタジオの魔性の美とは対極にある、それでいて同じ少年性が映し出す造型美の極地が、目の前でレジを打っていた。

「三百十五円になります」

 少年が、そのうっすらと緋色に染まった唇を開いた。

 遠坂は、少年の吐息に、南風の息吹を追う。

「お客様?」

 遠坂朱美、三十年ぶりの春だった。

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