林檎の庭*2
そうして料理が卓に並ぶ。
焼き立てなのであろう香ばしいパンと、豆が入ったスープ。そして、コケモモのジャムを添えた肉団子。
そしてランヴァルドの前には、お湯で割った蜂蜜酒のカップが置かれ、ネールの前には蜂蜜入りのホットミルクのカップが置かれた。
甘く温かな飲み物の入ったカップを両手で包んで、ネールは早速、なんとも幸せそうである。文字を読めた、という達成感も合わさって、さぞかし蜂蜜入りのホットミルクが美味いことだろう。正に、勝利の美酒ならぬ勝利の蜂蜜ミルクである。
一方のランヴァルドは、空腹より疲労と眠気が勝る具合だったのだが、それでも不思議なもので、スープを飲み、肉団子を取り分けて食べている内に眠気より空腹が勝ってきた。
……ランヴァルドは疲労が一定以上になると、どうにも、食欲が無くなる性質だ。それでも体の為に無理矢理食べることも多い。
だが、この宿での食事については、あまり無理矢理に頑張らずとも食べることができるのでありがたい。やはり、料理の美味さは大切だ。体の為にも。
ハーブの利いた肉団子は、表面が香ばしく焼き上げられているのだが、これが食欲をそそるのだ。添えられたコケモモのジャムを合わせると、さっぱりとしてまた美味い。肉団子をネールにも取り分けてやりながら、ランヴァルドは食事を進めていく。
「お二人さん、楽しんでる?」
そこへ、ヘルガがやって来た。カップを持ってきているところを見ると、彼女自身の休憩、ということらしい。
ちら、と覗き見れば、カップの中身は蜂蜜入りのホットミルクであるらしかった。ネールが注文したのを見て、飲みたくなったようである。
「美味しい?」
「ああ。美味いよ」
「それはよかったわ。そっちのお嬢ちゃんは?」
ヘルガがネールを覗き込んで微笑みかければ、ネールもおずおずと頷いて、ぎこちないながらも笑みを返した。ヘルガはこれにまた『かわいい!』とご満悦である。
「それにしても、ランヴァルド。あなたが中央に来るのは久しぶりじゃない?このかわいこちゃんを連れてきたことといい、なんだか色々あったみたいね?」
「まあな。本当に……本当に色々あったんだ。ああ……」
ヘルガは暗に『話を聞かせて!』と言っているのだが、ランヴァルドとしては、どこからどこまで話したものか、少々判断に迷う。
少なくとも、ネールを利用するつもりで連れてきたことは言わない方がいいだろう。ヘルガはあくまでも善人だ。ランヴァルドのように、己の野望や損得のために善を捻じ曲げられる類の人間ではない。
「ところでお嬢ちゃん。あなた、お名前は?私はヘルガ。ヘルガ・アペルグレーンよ。この『林檎の庭』亭の娘なの」
ランヴァルドが話しあぐねていると、ヘルガはネールから聞き出した方が早い、と判断したらしい。だが、ネールはまごまごしているばかりだ。
「ああ、そいつはネール。訳あって、カルカウッドから引き取ってきた。……口が利けない奴だから、そいつから話を聞くのは難しいぞ」
ヘルガにとっては不運なことに、ネールは声を出さない。無論、ランヴァルドにとっては幸運だ。余計なことを喋られずに済むので。
「あら、そうだったの……ごめんね」
ヘルガが表情を曇らせると、ネールは、ふるふる、と首を横に振る。気にしていない、ということだろう。何とも健気なことである。
「ねえ、ネールちゃん。あなた、ランヴァルドに酷いことされてるんじゃないでしょうね」
「おい、ヘルガ」
ネールの健気な様子に何か心配になったらしいヘルガは、ネールにそんなことを聞き始める。勘弁してくれ、と思うランヴァルドであったが、幸い、ネールは少々むっとした表情で、ふるふるふる、と首を横に振るばかりであった。『酷いことなどされていない』と言いたいらしい。
「そう?ならいいんだけれど……こいつ、頭はいいけれど性格はそんなに良くないからね、注意するのよ」
「おい」
「あら、本当のことじゃない?私、忘れてないからね。あなたがうちに滞在していた時、カードゲームの卓を片っ端からイカサマで荒らしまわったの。あれ以来、うちの宿では賭け事禁止なんだから」
じと、とした目をヘルガに向けられ、ランヴァルドはそっと目を逸らす。が、目を逸らした先で、不思議そうな顔をしているネールの目を見つけてしまった。
「……その、ガラの悪い連中がこの宿に居座ってたのを懲らしめてやっただけだ。その結果、俺は金が手に入ったが、それはおまけみたいなもんで……」
ランヴァルドがなんとも言い訳がましくそう言えば、ネールは『なら仕方がない』というかのようなさっぱりした顔で、ふんふんと頷いた。ヘルガは『それで納得しちゃっていいの……?』と何とも言えない顔をしていたが。
「あの時のあなた、『これで商売の元手ができた!』ってほくほくしてたじゃない……」
「……そうだな。中々いいおまけだった。善行のおまけに金が付いてくるなんて、最高だよな」
「よく言うわぁー」
ヘルガはけらけらと笑って、蜂蜜入りのホットミルクのカップを傾けた。『おいしい!』とにこにこしているところを見るに、相変わらずの甘党であるらしい。
「それで、ランヴァルド。今度は何をしたの?」
「何もしてない。俺は被害者だ。だが追われてる。既に2回、殺されかけてる。3度目が来そうだったから、南へ向かうフリをしてこっちに戻って来た」
「呆れた!また危ない橋を渡ろうとしたんでしょう!何?今度はどこのヤクザ者の縄張りに踏み込んじゃったってわけ?」
「護衛に裏切られた挙句逆恨みされてるだけだ。本当に、誓って俺に非は無い!」
脱税しようとしていたことは確かだが、それを話すランヴァルドではない。
それに、被害者であることは確かである。まあ、一応は。ランヴァルドは胸を張って堂々と、しっかり被害者ヅラすることを決め込む。
「そう?護衛の責任は選んだ雇い主にある、って前、言ってなかった?」
とはいえ、手厳しいヘルガである。にやりと笑いつつ、そんな言葉を放ってくるのだが……。
「……今回のは、信用してる奴からの紹介だったんだ。駆け出しの頃からの。だから信用した。……まあ、その目が間違ってた、ってことなんだろうが。まさか、裏切られるとは思ってなかった」
今回ばかりは本当に非は無いぞ、と主張すべくそれだけ言って、ランヴァルドは蜂蜜酒のカップに口を付ける。
「えっ……あ、ああ、そう、だったの……なら、うん……」
ヘルガは概ねの事情を察してくれたらしい。そのまま少々気づかわしげにランヴァルドを見ていたが、やがて、そっと席を立ってカウンターへ戻っていき……それから盆を持ってやって来た。
「ほら!元気出しなさいよね!あなたの分も大きめのにしてあげたから!」
かた、と卓に置かれた皿には、チーズケーキが乗っている。『大きめのにしてあげた』という言葉に偽りは無い。だが……。
「ネールの方が大きいぞ」
……それでも、ランヴァルドの前に置かれたものより、ネールの前に置かれたものの方が、大きい!
どうもヘルガとしては、信用していた相手に質の悪い護衛を紹介されたランヴァルドへの気遣いより、かわいいネールへの気遣いが勝るらしい!
「そりゃあね!甘いものをたくさんあげるなら、可愛い子の方がいいもの!」
堂々とそう言い放ったヘルガに、ランヴァルドは最早、何も言えない。ネールが自分の皿とランヴァルドの皿を見比べておろおろしているものだから、『いいからそっち食え』と言ってやって、幾分小さなチーズケーキを口に運ぶ。ヘルガのネール贔屓はさておき、チーズケーキは美味い。濃厚なコクと控え目な甘さは、中々どうして悪くなかった。
ランヴァルドがそうしてケーキを食べ始めれば、ネールもまた、目を輝かせながらフォークを手に取り……。
「ふふふ。美味しい?」
ヘルガが問えば、ネールは幸せそうな蕩ける笑顔で、うん、と頷いた。それを見てヘルガもまた、嬉しそうな笑顔になる。
……まあ、あれだけ幸せそうならいいか、と、ランヴァルドは小さめのチーズケーキを食べ進めるのだった。
そうして食事を終えたら、ランヴァルドはネールを連れて部屋へ戻る。
部屋の暖炉で湯を沸かし、たらいに湯を張って、体の汚れを落とす準備を始めた。
食事を終えてみるとやはり疲労と眠気が襲い掛かってきたが、それでも一応、寝る前にここまで済ませてから眠りたい、というのがランヴァルドの常であった。
……ネールが湯を使っている間は退室していようかとも思ったのだが、最早その気力もなく、ランヴァルドは半分眠りそうになりながらベッドに腰かけて、ネールに背を向けていた。ネール自身は、その意味が分かっているのかいないのか、よく分からないが。
やがてネールがランヴァルドの肩をゆさゆさやって、眠りかけていたランヴァルドはなんとか立ち上がり、自分自身もざっと汚れを落としていく。疲労と眠気で緩慢になる動作と、『早く寝たい』という執念とで差し引き概ねいつも通りの速度であった。
そうしてなんとか汚れを落とし、たらいを片付けて、髪を乾かし終わったネールをベッドに運び込んで、ランヴァルド自身も雑に髪を乾かしたらさっさとベッドに潜りこみ……そして即座に、意識を失った。
……やはり、疲れていたらしい。
疲れている時というのは、どうにも厭なものである。眠りが妙に浅くて、意識は浮いたり、沈んだり。
……まあ、つまり、ランヴァルドは殊更夢見が悪かった。具体的には、切れ切れに昔の夢を見ていた。
それは、父親が死んだ日のこと。母が、父の弟であった男と再婚したこと。そして新たな夫婦の間に生まれた弟。記憶の切れ端が整合性も脈絡もなく、浮かんでは溶けて沈んでいく。
残酷なまでに冷え込む北部の冬。降り積もる雪。伸び悩む自身の才能。剣も魔法も、中途半端だった。その分を埋め合わせるように次期領主としての勉学に励んだ。
弟は元気に成長した。義父は実の息子の成長を喜ぶ傍ら、時々何かを思うようにランヴァルドを見ていた。そして、母は。
「っ!」
がばり、と身を起こして、ランヴァルドは荒く呼吸を繰り返した。
早鐘を打つ心臓も、背筋を走る寒気も、額を流れる冷や汗も、酷く煩わしい。だが、それ以上に記憶が煩わしい。
胃の腑が焼けるような痛みを、白いテーブルクロスの上に吐き出した血の赤さを、芋虫か何かのように床に這い蹲った自分を見下ろす目を、今でもはっきりと覚えている。
はっきりと覚えているから……ランヴァルドは、懐の金貨を握る。
そうだ。金貨だ。これがランヴァルドを支えている。これのために、ランヴァルドは生きている。
強い憎悪と野望をもまたはっきりと思い出して、ランヴァルドは目を閉じた。
さっきまで自分を支配していた悪夢を、全て金貨で押し潰さんとして。
心臓が落ち着いてきたところで、ランヴァルドは二度寝してやろうかどうしようか、少々迷う。
ベッドを抜け出して、鎧戸を少し持ち上げてみるが、まだ空は暗い。日の出までもう少しある。もう起きてしまってもいいが……どのみち、商店が開く時刻まではできることが無い。
仕方なく、ランヴァルドはベッドへ戻った。体にはまだ、疲労が残っているのだ。心がどうであれ、体には睡眠が必要なのである。
体を横たえ、毛布を被る。そうして静かにしていると、また悪夢の切れ端がランヴァルドを蝕みにかかってくるようであった。だがランヴァルドはその度に金貨を握り直し、そうしてやがて、2度目の眠りに落ちた。




