幕間:探偵は宿屋にいる。
1話だけ雰囲気が変わります。
お付き合いください。
中庭から舞い込んだ潮気のない乾いた風が、宿の受付を通り抜ける。
宿屋の主人は帳簿から顔をあげて、玄関の扉に目を向ける。
丁度、客の男が帰ってきたところだった。
重い音を立てて入ってきた顔は上機嫌な気がする。
小さな用事だったのか荷物もなく、軽い足取りだ。
愛想が良いのは苦手だが、軽く頷いて難なく受け入れる。
主人の視線は、男の靴底へと落ちていた。
砂がついている。湿り気はなく、粒が粗い。
確かめてみる気が湧いてきた。
「うまい商談でもまとまったのかい?」
主人は相手が話しやすいように、声を和らげて聞いた。
「あ、ああ。そういうわけじゃないが。まあ、……悪くはなかったな」
男はどこか不器用な笑みを浮かべていた。
主人はひとつ目をつぶると、カウンターの下から紙片を取り出した。
案内状と書かれたそれには、港沿いの大通りにある貴金属店の名前が入っている。
女性への贈答を選ぶなら、外れはしないだろう。
「……なぜ、これを?」
男は受け取った紙片を見てそうこぼした。
「宿屋の勘さ」
男を見送ったあと、主人は帳簿に走り書きをする。
――靴底の砂。未開拓の港域。砂浜限定。特定箇所は一箇所のみ。
考えられるのは、海沿いに用があったか、人気がないことが目的か。
靴に付いた砂の深さは浅く、水際までは入り込んでいない。
船との接触はなかった。密輸の類いではないだろう。
手荷物はなく、商談や取引というわけでもない。
可能性は、すでに限られていた。
おそらく、進展は、これからだ。
真実を知る術はなく、必要もない。
見立てなど、外れることの方が多い。
それでも、帳簿の隅に書くくらいなら許される。
主人は見ているだけだった。
男というものは、語らないものなのだから。
ギギィ……ズズ……
潮に負けた蝶番の音が鳴る。
もう夜だが、人の出入りが珍しい時間ではない。
宿屋の主人が気づいたのは、扉を支える手の低さだった。
女性、小柄、子供。
そのどれもが、重いはずの扉を真っ先に開ける人物像とは少しずれる。
現れたのは少女だった。
薄い桜色の髪。
白い。体躯に合わない、糊の落ちた法衣――にも見えた。
袖が余り、手のひらまで隠れている。裾は逆に、短めに上げてある。
あまり見かけない誂え方だといえる。
足音をほとんどさせていない。
少し俯き、おどおどとした様子で受付の前に止まる。
何かを探すように、きょろきょろと室内を見回す。
主人は、帳簿の端に線を引き、視線を少女の髪へ移した。
整えていない。と表現するには、どうも毛艶が良い。桜色の光沢がちらりと揺れる。
身なりのちぐはぐさは、違和感というよりも、何かを訴えているように思える。
だが、主人は羽ペンと一緒にそのもやつきを置いた。
判断をするには、少し情報が足りなかった。
「……あ、えっと。どうすればいいか知りたいんだけど」
桜色の少女は視線も合わせずに言った。
とくに言葉を足すこともなく、これ以上口を開く気はないらしい。
「……泊まりたいのか?」
端的な物言いに驚いたのか、少女は少し顎を引く。
それから、慎重にこくりと頷いた。
主人は扉をちらりと確認し、少女に視線を戻す。
所持品はなし。同行者もなく、荷物はない。
華奢な腰には、鞄の類いも、財布袋も付いていない。
「俺に渡すべきものはわかっているか?」
少女は首を横に振る。
紹介状を持っているわけでもないようだ。
主人は、泊める理由を考える。
身なりは、悪いわけではない。容姿の質まで含めれば、良いとさえいえる。
街並みに紛れてしまうことはないだろう。
だが、不気味とでもいえるほど、何もわからない少女だった。
逡巡しながらも手を差し出す。
自分からは何も言わない。
宿代に合わせて、心付けが積まれるのであれば、あるいは。
しかし、少女は何もしなかった。
銀貨を持っていないのか。わかっていないのか。忘れているだけか。
判別できない。
主人は、大きく息を吐き出す。
腕を下ろす仕草を、少しわざとらしく弧を描いてみせた。
視線の先には、壁に沿って置かれた椅子が並んでいる。
少女は思惑通り椅子に気づき、やや重い足取りで近づいて、座った。
紹介状も前金も無いのでは、泊めることはできない。
ただ、どうしても追い返す判断は早すぎる気がした。
何かが引っかかっている。
だが、それがまったく、手がかりが足りない。
主人は帳簿にまたペンを走らせ始める。
――白い法衣。シスター。
短絡的だろう。修道会は共同生活の場だ。通常、夜間にひとりでは出歩かない。
では何がありえるか。
考えられるのは三種類。
明確に用事を言いつけられたシスターである。
共同生活から逃げてきたシスターである。
シスターではない。
まず、用事を言いつけられたシスターは、夜間に宿屋に迷い込むだろうか。
ないだろう。修道会に帰ればよいだけだ。
では、共同生活から逃げてきたシスターか。
……否定できない。
しかし、ただ還俗すれば良いだけなのに、逃げ出すだろうか。
視野が狭くなっている。
――長い袖。――短い裾。
体躯の問題で大きい、小さいの差は出るとして、一部が大きく、一部が小さくなるのは、自然ではない。
では、わざとか。
しかし、修道会の共同生活は役割分担だ。個人の好みで服が誂えられるとは思えない。
つまり、あの少女は、シスターではない可能性が、高い。
少女は椅子のふちに腰かけていた。
座り方が不自然だった。背を伸ばすでもなく、くずすでもない。
足先は床に付いているのに、膝が震えて見えた。
毛艶のよい桜色の髪が微かに揺れる。
夜の風が、冷たいのかもしれない。
――家出娘。
なんとなく、そんな言葉が頭をよぎった。
しかし。
家出娘と表現するには、少女はあまりにも無頓着だった。
もし逃げてきたのなら、もっと隠すはずだ。
だが、隠すそぶりはどこにもない。
――もし、少女が男だったのなら、ひとりで宿屋に来るのはありえたか。
そう考えると、いくつかの違和感が説明できる気がした。
いや、それはない。
突拍子もない仮説を鼻で笑って取り下げた。
身なりは目立ちすぎていた。法衣、艶のある髪、袖と裾の非対称。
主張をしたいのか、ただ着ているだけなのか。それすら定かではなかった。
あれで隠しているのか、それとも本当は何も考えていないのか。
この身なりで、あの態度。
まるで、見せびらかしておいて、何も主張はしない。
それは違和感というより、何かを仕掛けているようにも思えた。
意識するでもなく、主人は眉をしかめる。
そして、受付の内側に置いていた椅子の手すりに手をついた。
ああ、何も掴めていない。
見えているはずなのに、見えない。
腑に落ちない。
それが苛立ちとなって指先に集まってくる。
羽ペンを持ち直す手が、わずかに汗ばんでいた。
受付の外、中庭から、やけに軽い足音が近づいてくる。
そして、明るい声が室内へ割り込んだ。
「あはは…これは、すごい――」
若翠色の髪の青年だった。
滞在中の客のひとりで、本土からやってきたばかりの若手実業家だ。
まだ実績はないが、紹介状を持ってきて、数週間前からこの宿を使っている。
「――いや、最近僕、偶然を選び取る力って本当に大事だと思ってて。こういう瞬間のすべてを信じられるかで、人生が分かれるんだ。僕はそれ、断言できる」
青年は、少女に軽妙な足取りで近づいていく。
言葉の選び方がどこか誇大で、現実と妄想の境目が曖昧に感じる。
若者にありがちな自信なのだろうか。
「……なに、言ってるのか、わからないんだぞ。誰なんだよ。お前は」
少女は、無視をしなかった。
明らかに口説こうとしている男に対して、どこか不慣れに見える。
いや、……相手の性質を利用したのか。
もし、この演技ともつかない無垢さが、意図的なのだとしたら――
それは逆に、恐ろしい。
「ありがとう。いい言葉だよね。名前を聞いてくれて、ありがとう。トレノ・ダ・ヴァレスタだ。あ、こういうときこそ、握手をしよう。新大陸って文化の交差点だから。すれ違いは悲しいし、伝わらないこともある。でもこれって、いわゆる共通語だろう? 言葉より先に人をつなぐご縁なんだ。これで僕たちは親しくなれる」
半ば無理やり手を握り、両手で優しく包み込む。
「ア、アエル・ホーミス……」
青年の話しぶりは、想像より手の込んだ誘導だったのかもしれない。
言葉の操り方だけで、相手の意思を上書きしている。
認識をすり替える技術だといえる。
対して、少女の方の対応力は希薄だった。
「アエル! 会えて良かった。誤解されやすいけど、僕は誠意で動く。この出会いは十年後に必ず振り返るべき節目になっているだろう。もちろん、僕にとってだけじゃない。アエル。君にとっても、世界がひらけたんだ」
青年は、大げさに両手を上げて感情を表現した。
「なんで僕が入るんだよ」
これは拒絶の言葉だろうか。
……いいや、違う。
少女はすでに青年の話の中に入り込んでいた。
言葉を交わすことを、当たり前だと受け入れている。
主人は腕を組んだが、力が入らない。
疑いは薄まらなかったが、同時に自分の疑念そのものが怪しく思えてきた。
こんなに不自然なほど……無防備なことなど、あり得るのだろうか。
「なんでって! アエル。君は成功者になれる素質を持っていることに気づいていないのかい。僕の思想では、人を惹きつける力というものは、物質的に影響を及ぼす実在する力なんだ。なぜなら、僕はこうして君に惹きつけられた。これって、証明したと思わないか」
口説きに手応えを感じたのか、青年の声はさらに熱を帯びた。
少女はどこかで興味を刺激されたのか、手を胸の前で握りしめて聞き入っている。
「……僕が、成功者!」
疑うような所作をすることもなく、大きく頷いていた。
「そうだよアエル。普通の人ができない出会いが、今起きたんだ。これはつまり、物語の幕開けなんだ」
まるで何かの手品を見ているようだった。
どちらが騙していて、どちらが騙されているのか。
主人は解釈のしかたに迷った。
「どうやればいいんだよ!」
一見すると口説かれていると、気づいていないようにも見える。
もし騙そうとしていたのなら、何の意味があるのか?
……いや、本当に乗り気ということがありえるのではないか。
それは……否定できない。
誇大な言葉を操る青年の危うさ――という判断は、自分の主観にしか過ぎない。
それが魅力的に見えているのだとしたら――そういう女性も、いるのかもしれない。
先入観が強かった。反省しなくては。
主人は女心がわからなくなった。
「焦ってはいけないよ。アエル。僕たちは、今、始まったばかりだ。まずはお互いの好みとか、雰囲気とか、話し合わなければいけないことがたくさんあると思わないか。心を落ち着かせられる、薄暗い場所でゆっくり話し合うべきなんだ。未来のことを」
青年は少女の腰に手を回した。
「明るさはどうでもいいんだぞ」
少女も肩を組むように体を寄せる。
「そうだね。僕も、明るさは本質じゃないことを知っているよ。雰囲気よりも、内容が充実するかが大切だ。いや、君もわかる側の人間であることを喜ぶべきだね。さあ、僕の部屋へ行こう。そうだ、マスター。ラム酒の追加を頼むよ」
少女は当然と受け入れているように見えた。
桜色の髪がふわりと揺れて、小さく頷く。
疑い続けることはできる。
だが、それが役に立つとは思えなかった。
あの無防備さに裏があるとしたら、少女は相当な演者だ。
しかしそうでないなら――自分の目は、何を信じてきたのだろうか。
腕を組んだまま持っていた羽ペンを取り落とす。
見ていたのはずっと目の前だったはずなのに、何も理解できなかった。
青年は少女と連れ立って、中庭にさがっていった。
主人は口を開かずに見送った。
ラム酒を用意しなくてはならない。
酒室の鍵に手を伸ばそうとして、指が止まる。
――ここまで来て、まだ何か見落としている気がしていた。
……ズズ……バタン
玄関の重い扉が閉まる音で振り向いた。
どうやら気が削がれていたらしい。
新たに入って来たのは、滞在客の一団だった。
もぞりと動く黒檀色の癖毛とクラバットを巻いた男。
まるで引率する先生のように、年若い女の子ふたりを連れている。
「ほんとだってば! 一瞬で傷がぴたって塞がったんだよ、ほんとに。ね、すごくない? シュゼも見てたら、きっとびっくりしてたって!」
一人はするりと流れる蜂蜜色の金髪に、兎耳のように跳ねたリボンを付けている。
「そんな意見、私は初めて聞いた。強盗に遭遇するのを肯定するなんて」
もう片方は、風に揺れる瑠璃色の短い髪で、本土の大学にいる学徒のような服を着ている。
「そういう話じゃないんだって! ね、先生、わたし困るんだけど。ちゃんと説明してよ」
年の頃は先程の少女と同じくらいだろう。
この少女たちも何者かはわからない。
ちぐはぐな集団。
当たり前ではない服装。
胸の奥に何かが引っかかった。
――何か、勘違いをしていたのではないだろうか。
「いやあ、オーリの言いたいことは僕にもわかるよ。魔法としては、ほんとに見事だった。……でもね、やっぱり強盗に遭うのは遠慮したいな。僕なんて、オーリの影に隠れるだけで精一杯だったし」
軽く頷くだけで応対をすませる。
三人はとくに変わった様子もなく、中庭の奥に並ぶ扉へと吸い込まれていった。
見送ったあと、主人は再び帳簿に手を伸ばした。
――シスターではない。
なぜ、シスターという枠組みだけで判断しようとしたのか。
人は見ればわかる。そんな驕りがあったのではないか。
羽ペンを握る手に力が入る。
少女がシスターではないとするならば、法衣を着ている理由は何か。
検討するべきだろう。
――例えば、法衣は家族の遺品。いわば、記憶の象徴。思い出の品。
法衣が家族の遺品であると仮定するなら、それは記憶にすがる姿として理解できる。
袖の不一致は、少女自身のものでないことの証となる。
ここでの彼女の振る舞いは、世間知らずの箱入り娘としての行動を示すのではないだろうか。
しかし、宿へ来るという決断は、箱入り娘らしい暮らしとは少し噛み合わない。
遺品という背景があるなら、当然家族が居たはずであり、住まう家も存在した。
今晩出てきた理由があるとして、それが曖昧すぎる。
家族を失った可能性はあるが、ならばこそ法衣の導く先――修道会へ向かうのではないか。
――では例えば、法衣をシスターの役割以外の意味で着ている。
信仰と祈りの導き手としてではなく、導きの象徴のような。
つまり、自称牧師。古い言い方をするならば、預言者を名乗る者。といったところか。
これは、信仰心の欠片も示さなかったことが問題か。
聖句のひとつも引用せず、祈らせてくれとも言われていない。
そうか。少女は何も持っていなかった。聖書すら。
……それで祈ることはできるのだろうか。
金槌を持っていない鍛冶師みたいなものじゃないか。
――では例えば、法衣が元修道会所属の名残だというのはどうか。
信仰を続ける個人なら、持っていても不自然ではない。
だが、彼女は年が若すぎる。
還俗するほどの時間を過ごしたとは考えにくい。
そして何より、あの青年の言葉に無防備に乗った姿が、世間と接してきた者の態度には見えなかった。
極端な演技か、あるいはまったくの世間知らずか。
どちらにせよ、集団生活も世俗も経験した元シスターらしい背景は浮かんでこない。
だめだ。……このどれもが、少女に近づくには弱い。
もっと別の理屈があるはずだった。
見落としている。
可能性を、俺が狭めているのではないか。
一般的な範疇で考えすぎていないか。
少女はいわば、普通じゃなかった。
手ぶらで一人で宿屋にくる少女。
何も知らず、無防備な。もしくはそう演じた姿。
普通じゃない。だからこそ、普通じゃない人物像である可能性が、あるのではないか。
主人は、記憶の隅からひっかかりを掴み取った気がした。
壁に据え付けられている棚から、木枠の箱を引っ張り出す。
中には、新聞の既刊の束が収まっていた。
滞在客でも手に取れるように置いていたものだが、もう随分と溜まっている。
黄色く変色した紙は、湿気を帯びてめくるとすこししなりがあった。
重みを感じるほどになった束をあさり、すこし滲んだ文字を追う。
二年前の小さな記事を見つけた。
――ペストの流行が沈静化。十五歳の少女が治療に成功。車輪教が聖女と認定。
主人の手が震えた。
――聖女。
まったく聞き覚えのない称号。
しかし、確かに近づいた気がした。
今十七歳だとすると少し幼く感じはするが、個人差の範疇で一致する。
他はどうだろうか……
主人は帳簿にかじりつくように確かめた。
――法衣を着ている。
もし、法衣が治癒魔法由来のものであれば、ありえるのではないか。
新大陸で魔法は手に入るが、それはどんな生活を、行動をしていたかに由来する。
治癒魔法を手に入れるのは、教会関係者が圧倒的に多い。
だからこそ、祈ることが魔法を手に入れる手段だ。という説が信じられている。
そして事実として修道会のシスターは率先して祈っていて、治癒魔法を手に入れている。
もし、その祈り方を倣っているのであれば……
少女が法衣を着ている理由になり得るだろう。
――長い袖と短い裾はどうだ。
少女が修道会と関連がなく法衣を着ているのであれば。
これは、職業や役割を示すために着ているのではないということだ。
あの裾の短さ。足が見えるというのは、女性らしさを強調する目的のような……
袖の長さも、容姿に与える効果として否定しきれない。
ある意味構造的に深みが増すためといえるだろうか。
要するに、少女の、ただの好み。
そういった目的で、自由に誂えている。という可能性はあるだろう。
――そして、聖書を持っていなかったこと。
例えば、少女の目的が誰かに教えを説くというものであれば、自説ではなく神の教えである証明に必要になるだろう。
目に見える聖書を、読んで聞かせることに意味がある。
しかし、自分が祈ることだけが目的なのであれば、暗唱してしまえば問題がない。
深い祈りを日頃から行っているのであれば、聖書を持っていない可能性もあるということだ。
――夜間に出歩いていた。手ぶらで宿に来たことは。
あくまで女性としての役割を意識しすぎていたのではないか。
聖女として自分の足で立って活動していたのであれば、それは単に個人活動の一環だ。
今日泊まる場所を探す。十分にありえるのではないか。
――あの世慣れのなさはどうだ。
もちろん、演技であった可能性も捨てきれない。
……だめだ。聖女についてわからなさすぎる。
唯一わかることは、治癒魔法ではペストや病気は治せない。
ペストの流行を沈めたというのは偉業だろう。
つまり、治癒魔法の質が高いということか。
代償はないのだろうか。
例えば、それほどの治癒魔法を使うには、修道会のシスター以上に祈らないといけない。といった。
聖書をすべて暗記するほどに。
時間を使い、人生を祈りに捧げているのではないだろうか。
もしその場合、無防備過ぎるほどの世間ずれのなさは、納得できるのではないか。
いや、突飛だろう。肯定できない。
しかし、否定もできない……
確定できることはなにもない。
ただ、違うと思える根拠を思いつくこともできなかった。
今まで検討していた仮説は、沈みきった。そのぶん、比べて浮き上がってきた印象がある。
主人は羽ペンを受付台の上にそっと置く。
少し冷えた空気に、音が鮮明に響いて消えた。
余韻が無音となって広がっていく。
腕を組んで、しばらく黙考した。
問題は、聖女について何も知らないことだった。
少なくとも、週末に教会に通うときも、牧師から紹介をされることはなかった。
祈りの対象でもなく、信仰の対象でもない。
当たり前だろう。祈りは神に捧げるべきだ。
では、聖女とは何なのか。
いや、それは……少女が何者かとは、関係がないではないか。
主人は中庭に視線を送る。
闇の中に包まれていた。
星の光は弱く、しかし主人には微かに見えていた。
青年が、少女を口説いて部屋へ連れ込んだ。
確かな事実はそれだけだった。
「やはり、そういうことなのか……」
主人はインク壺に蓋をする。
そして、少女が座っていた椅子を見つめた。
見立てなど、外れることの方が多いだろう。
それは問題ではなかった。
……何度も繰り返してきたのだ。
いま問題なのは、語る相手がこの場にいないことだった。
主人の手は酒室の鍵を掴んでいた。
思考は最小に、無駄のない動きで、身体は中庭へ、そして倉庫に吸い込まれていく。
鍵を開け、酒樽から陶器の器にラム酒を注ぐ。
そうやってそれほど間を置かずに、青年の泊まる建物の前まで来ていた。
玄関の前で立ち止まる。
ラム酒の入った陶器の器はまだぬるく、手の中で滑りそうだった。
窓の奥から、何かが倒れる鈍い音。
そして続く人の声。
これは――叫びか、あるいは笑いか。
判別すらできないそれが、空気を揺らす。
主人は器を握り直した。
足が半歩、前に出る。
躊躇はいらない。
主人は大きく扉を開け放った。
「待て! 助けに来たぞ!」
玄関から前室を覗いても人はいない。
声は奥の寝室から届いていた。
木製の丸卓に、半ば放り投げるようにラム酒を置いた。
足音も気にしてはいられない。
主人はすぐに寝室の扉に飛びついた。
一度呼吸を整える。
そして――主人が導き出した答えを、口にした。
「助けに来たぞ! もう読めたんだ。嬢ちゃん、あんた――法衣が大好きで、夜中に外に出るくらいお転婆で、帰り方を忘れるくらい抜けてて、宿の泊まり方も知らないくらい箱入りで……なんだかすごい魔法が使えるらしい聖女の、お嬢さまなんだろ!」
――知性を帯びた声が静寂に広がる。
部屋の中には、桜色の髪の少女がいた。
暴れたせいか乱れた髪も、まだ艶が残っている。
寝台の上で仰向けになりながらも、目を大きく見開いて、主人を見ている。
青年の手首は、少女の細い指に包まれていた。
彼女の太ももが、柔らかく、しかし迷いなく彼の腕を挟み込んでいる。
まるで抱きついているように――
腕を引き伸ばしていた。
「いたいいたいいたい! 無理だから、もう無理だから!」
……腕ひしぎ十字固めだった。
アエル「べつに、こんなの普通なんだからな。ブクマ・評価してくれたって、……当たり前のことしてるだけなんだからな!」




